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第30話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn

 広々としたホテルのラウンジで、蒼空(そら)陽大(はると)を待っていた。  朝からしっかりと愛を確かめ合った二人だったが、せっかくだから散策もしたいという蒼空の要望もあり、渓流沿いを歩いてみることにした。下流から上流までは歩くとかなり時間がかかるということで、ホテルが出しているシャトルバスに乗ることにした二人だったが、スマホを部屋に忘れてきたことに気づいた陽大が慌てて取りに戻っているのだ。蒼空はバスに乗る入り口が見えるラウンジで一人、陽大を待っていた。  入り口と反対側には渓流が見えるテラスがあり、そこから広がる景色を眺めていると、夫婦らしき男女が客室側から歩いてきて、ラウンジに荷物を置いてコーヒーを飲み始めた。男性は四十代くらいだろうか、それなりに背が高く半袖シャツにジーンズというラフな格好だが、つけている時計や履いている靴などから金回りがよさそうな感じがする。一緒にいる女性はサングラスをかけているためはっきりとはわからなかったが、男性と同じくらいの年齢だろう。鮮やかなピンクのハイヒールからすらりと伸びた脚、大ぶりのイヤリングとキラキラと輝く石がついているブレスレットが、こちらも金持ちの雰囲気を醸し出している。二人とも薬指に同じような指輪をしているのを見るに、やはり夫婦のようだった。  女性がコーヒーを飲んでいる間、男性は無言でソファに座り、スマホを眺めている。荷物がそれほど多くないところを見ると、1泊2日くらいでちょっと息抜きに来たという感じだろうか。スタッフの女性がおはようございます、と声をかけると、女性がサングラスを頭の上にあげ、冷ややかな目で微笑んだ。  「そうね、いい朝だわ」  夫らしき男性は何も答えず、荷物を持つとフロントへと歩き始めた。  夫婦喧嘩でもしたのかな。  何となく気になってその二人の行き先を眺めていると、ようやく陽大が戻ってきた。  「悪い、待たせた」  「どこにあった?」  「ベッドの下に落ちてたわ。気がつかなかった」  「落ちるようなことしたんですかね」  「お、それをおまえが言う?」  「朝から盛るからだろ。まったく……」  「おまえが可愛すぎるからしょうがないだろ。これは自然の摂理だ」  蒼空は苦笑いしながら、ソファから立ち上がった。  「はいはい、わかりました王子様」  「わかればよろしい」  「王子様ってとこは否定しないの?」  「俺が王子ならおまえは姫だろ? ぴったりじゃないか」  「そういう意味で言ったんじゃないけど」  「さ、行こう。俺のお姫様」  そう言って手を差し出す。蒼空は照れくさそうにその手の平を叩きつつも、そのまましっかりと握りしめて立ち上がった。陽大はその柔らかな手を優しく握り返し、満足げに微笑んだ。  外国人の観光客も多く、小さいマイクロバスの中は様々な言語が飛び交っていた。何ヶ所か降りるポイントがあり、有名な滝のところで二人は降り、写真を撮ったり渓流沿いを歩いたり、朝の日差しにキラキラと輝く澄んだ空気を楽しみながら、日常を忘れて楽しんでいた。  「学生時代もけっこう一緒に出かけて遊んでたのに、その時とは何か気分が違って不思議だな」  「あの頃はただの友達だったから」  「友達の時もすごく楽しかったよ」  「じゃ、友達に戻る?」  蒼空が意地悪っぽく訊いた。  「いや……」  陽大はぎゅっと力を込めて手を繋いだ。  「今の方がいい。俺、すごく幸せだから」  臆面もなく言い切る陽大の言葉に、蒼空は頬が赤くなる。その頬を陽大は指でからかうようにつついた。  「なんだか、ずっと前からおまえのこと好きだった気がする」  「告白してくれたの、ついこの間ですけど」  「そうなんだけどさ、なんかそんな感じがしたんだ」  「陽大って意外とロマンチストだったんだね」  「からかうなよ。そう言うおまえは?」  「何が?」  「俺のこと、いつ好きになった? 俺が告白したら、すぐに受け入れてくれたからさ」  あの日、自分のベッドで眠っている陽大の唇にそっとキスをしたことを思い出す。  「さあね。教えない」  「なんだよ、いいだろ教えてくれても」  「やだね」    「俺は堂々と告白したんだぞ。教えてくれてもいいだろ」  「だーめ」  「こら、教えろ」  陽大が後ろからじゃれつくように蒼空の首に腕を回す。  「教えてくれるまでずっとこうしてるぞ」  首に絡まる腕をほどき、向き直って蒼空の方から陽大の首に腕を回す。  「じゃ、一生言わない」  すまし顔で言う蒼空の可愛さに、陽大はたまらず抱きしめた。  わかってる、一生こうやって抱きしめてるよ。  心の声が聞こえたのか、蒼空は嬉しそうに笑って陽大の肩に顔を埋めた。  帰りはバスに乗らず、ゆったりとした下り坂の道路を歩いてホテルに戻った。とは言っても、遊歩道がそれなりにアップダウンがある作りで、緑と水面を見ると涼しげに見えても、夏の気温に二人はじっとりと汗ばみながら歩いていた。その途中の渓流に近い岩場で、一人の女性がしゃがみ込んでいた。陽大と蒼空は顔を見合わせると、その女性の側へと近づいていった。  「大丈夫ですか?」  陽大が声をかけると、顔をあげた女性は泣いていた。まだ若く、あまり化粧っ気はないがすっぴんでも十分美しい顔立ちだった。  「具合でも悪いんですか?」  「いえ、何でもないです」  「でも……」  「大丈夫です、すみません」  そう言うと、女性は立ち上がってホテルの方向へ歩いていった。  「どうしたんだろう」  「かなり泣いてる感じだったな」  「怪我した様子はなかったから……彼氏と喧嘩でもしたのかな?」  「そんなところかも」  少し気にはなったものの、前を歩く女性はしっかりとした足取りで歩いており、二人もそのままホテルへと戻った。ホテルへ着くと、フロントの辺りが何やらざわついている。見ると、警官らしき人物が数人、ロビーでフロントのスタッフや宿泊客に何か聞いていた。  「何かあったんですか?」  陽大は自分の身元を説明しながら一人の警官に尋ねた。管轄が違うため話してくれるかわからなかったが、陽大の身分証明書を見て若い警官が説明し始めた。  話によると、このホテルの近くの渓流で女性が頭を打って死亡しているのが発見された。陽大たちが出かけてまもなくしてから、観光客が発見したらしい。おそらく昨夜のうちに亡くなったようで、片方のパンプスの踵が折れていたことと、後頭部を強打したような痕以外に不審な外傷がないことから、酒に酔って足を捻るか石に引っ掛けて転倒し、運悪く後頭部をぶつけて亡くなってしまったのではないか、ということだった。  蒼空はふと、先ほど泣いていた女性のことを思い出す。  「陽大」  陽大も同じことを思い出していたようだった。  「亡くなった女性の家族か友人だったのかもしれないな」  「そうだね……」  警官がひと通り事情を説明すると、陽大は蒼空の肩を抱いてソファに座らせた。警官もその隣に腰かける。  「事故として処理されることになるかと思いますが、事故か事件かを確定するためにも皆さんに事情を伺っているところです」  「そうですか」  「昨夜、何か大きな音や声を聞いたりしていませんか?」  「何時頃ですか?」  「まだ簡単な検死しかしていませんので正確にはわからないのですが、おそらく午後11時から午前2時くらいの間ではないかと」  「その頃は……」  壮介へのビデオ通話の後、ちょうどバスルームで始めた頃だ。昨夜はリゾート地で普段と違う雰囲気に盛り上がってしまい、その後のベッドでのセックスも含めて2時間は夢中になって愛し合っていたので、残念ながら外の音などまったく気にしていなかった。  「もう寝ていた頃で……何も聞いていないですね」  やや照れたように陽大が苦笑いしながら答える。  「わかりました。ありがとうございます」  「ご苦労さまです」  あまり期待していなかったのか、それ以上突っ込んで聞いてくることもなく、やがて警官たちは帰っていった。  「遺族からしたら、事故の状況を知りたいと思うよな」  「そうだよね……早くわかるといいね」  涙に濡れた顔を思い出しながら、蒼空は陽大と部屋へ戻っていった。

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