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第50話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn

 部屋に戻ってきた陽大(はると)蒼空(そら)は、倒れ込むようにしてソファに身を投げ出した。  「……おまえはとりあえずシャワー浴びろ」  「そうだね……下着も着けたままだし……」  そう言いつつ、二人ともぐったりとしたまま体が動かない。すみれを家に送るのは(はた)たちに任せ、壮介に部屋まで送ってもらった時にはすでに午前2時をまわっていた。ホテルでの張り詰めていたような緊張の糸が切れた途端、心身ともにどっと疲れが押し寄せてきていた。  果たしてすみれの気持ちがどこまで救われたのか、それは彼女の表情からは推し測れない。管轄外でも手助けをしてくれた自分たちに気を遣っているだけかもしれないし、心の底では一生西木たちを許すことはできないだろう。それでも彼女の人生はこれからずっと続く。その中で、前に進むための一助となったのならいいが、愛する人を失う痛みはそんなに簡単に癒えないことも蒼空は知っていた。  目を閉じて考え込んでいる蒼空を、陽大は何も言わずに自分の方へと引き寄せた。優しく、ぽんぽんと頭を撫でて右肩に蒼空の頭を載せる。陽大の温かさが触れているところから伝わってくるような感覚に、蒼空は思わず彼の腰に腕を回して抱きついた。  「お疲れさん」  「……ありがとう。俺のわがままに最後まで付き合ってくれて」  「俺もつくづく甘いなとは思ってる」  「壮介さんもね」  「しょうがない。俺もあいつも、一番大切な人の頼みは断れない優しい性格だからな」  「それ、ツッコミ待ちなの?」  「本当のことだろうが」  抱きついている蒼空をさらに上から右腕で抱くようにして回していた手が、わざと力を込めて締め付ける。蒼空は笑いながら体を起こした。  「わかってる。俺の恋人は世界一優しい」  「でも、こういうことは二度となしだ」  「女装すること?」  「危ないことに首を突っ込むこと」  「けど、誰かさんがきっと助けに来てくれるし」  「おまえな」  「嘘だよ。もうこういうことはしない。壮介さんや瀬那ちゃんにも迷惑をかけちゃったし」  「約束だぞ」  「うん。でも、また前みたいに事件の話を聞いて解決を手伝うのはいいよね?」  「それも心配になってきた」  「話を聞くだけならいいじゃん。今回みたいに動いたりはしないから」  「本当だな?」  「だって家ができてカフェを再開したらそんな暇なんかなくなる」  「それならいいが」  「大丈夫。陽大を心配させるようなことはしない」  その言葉に陽大はじっと蒼空を見つめると、優しくその前髪をかき分けて額に口づけた。柔らかな唇の感触に蒼空はぎゅっと陽大の手を握った。  「シャワー浴びておいで」  「うん」  抱きついていた腕を解いて立ち上がった蒼空の指先が、陽大の指と絡まったまま離れない。何か言いたげに見つめる蒼空の視線に、陽大は小さく微笑むと立ち上がった。  「一緒に浴びるか」  「……嫌ならいいけど」  「おまえが疲れてるだろうと思って我慢してただけだ」  「疲れてるよ。ものすごく疲れてる」   「もっと疲れてもいいのか?」  「もっと疲れたい気分だから」  気だるそうな表情で陽大に体を寄せると、両腕を首に回して唇を重ねる。しばらく蒼空にされるままにキスを繰り返していた陽大の指先が巧みに動き、羽織っていたパーカーがいつの間にか蒼空の足元に落ち、着けたままだった女性物の下着も脱がされていく。蒼空もそれに合わせるように陽大の服を1枚ずつ脱がせていき、二人はキスを繰り返しながらシャワールームへと移動していった。  「もうこんなハラハラするのはごめんだけど……」  「けど?」  シャワーの湯を出し、ボディソープを泡立てて蒼空の肌に撫でるようにして擦り付けていく。  「けどの続きは?」  「……綺麗だった」  陽大はそう言うとやや乱暴に唇を奪う。そのまま浴室の壁に蒼空を押しつけ、その体を弄りながら次第に下腹部へと指が伸びていく。  「んんっ……」  シャワーの水音に紛れながら、蒼空の甘い喘ぎ声が漏れ出す。二人とも疲れ切っているはずなのに、なぜか体の火照りだけはどんどん増していき、触れあう肌の熱が高まっていく。お互いに硬くなったモノが擦れ合い、貪るようなキスだけで爆発しそうなくらいに熱かった。  どうして陽大に触れられただけでこんなに気持ちいいんだろう。西木は近づくだけでも嫌悪感が増していたのに、陽大には息ができないくらい抱きしめてほしいと思ってしまう。どんないやらしいことも陽大ならもっとして欲しいと思ってしまう。今だって、もっと触れてほしいし、もっと気持ち良くして欲しいと思ってしまう……。  「……前言撤回」  「何が?」  「綺麗だった、じゃない」  「……?」  「今の方がずっと綺麗だ」  「あっ……ん……」  陽大の唇が蒼空の首筋を噛み付くようにきつく吸い上げると、二人は疲れも忘れてお互いを激しく求め合っていった。  いよいよカフェに家を併設する改装工事が始まることになり、部屋の荷物を店に運びこむ作業をしていたある日の午後、閉店しているカフェにすみれがやってきた。  「久しぶりだね。その荷物を見ると、ちゃんと学校に行ってるみたいで安心したよ」  「お久しぶりです。もちろん、ちゃんと行ってます」  「ごちゃごちゃしてるけど、適当に座って。まだコーヒー出せるから」  「いよいよ二人の愛の巣が作られるんですね」  「愛の巣って……咲良(さくら)に影響されすぎじゃないの?」  「だって本当のことじゃないですか」  「それはまぁ……」  すみれはカウンターチェアの上に置かれていた荷物を寄せるとそこに腰かけ、蒼空が出したアイスコーヒーのストローに口をつける。  「陽大から聞いたよ」  「裁判のことですか」  「うん」  「やっぱお金持ちは違いますね。すごい弁護士さんがついたみたいで」  一気に半分くらいコーヒーを飲み干すと、すみれはふぅっと息を吐いた。  「あの動画が殺意がなかったことを逆に証明しちゃったし、姉が倒れた後が映ってないから、弁護士は助けを呼ぼうと思ったけど動揺したっていう方向に持っていこうとしてるみたい。ホテルでのボイスレコーダーの内容だけじゃ証拠には弱いって言われたし……」  「そっか……」  「だから、この後のことは、もう見守るしかありません。検察が起訴まで持っていけるのか、最後まで見届けるつもりです。検察はあまり乗り気じゃない感じだから、遺族としてはすごい額の示談金を持ちかけられたら起訴を取り下げてもらってもいいんですけどね」  わざと笑ってみせたが、それはすみれの本心でないことを蒼空は知っていた。  「でも、姉の最後の様子がわかったことについては、本当に感謝してます。そこがわからないままだったら、一生引きずっていかなきゃいけなかった」  「少しでも役に立てたならよかったよ」  「もちろんですよ。それに仲川さんの女装とかレアもの見れたし」  「そのことについてはノーコメント」  「あの後、都築さんにお仕置きされちゃったんですか?」  自分用に淹れたコーヒーを吹き出しそうになり、蒼空は思い切りむせ込んだ。  「あのさ、そういうことは……」  「いいじゃないですか、目一杯愛されちゃってください」  明るく笑うすみれを見ていると、蒼空は胸の奥がキュッと痛くなるような感覚を覚えた。  「カフェが再開したら、教えてください」  「ああ、知らせるよ」  「二人の愛の巣も見せてくださいね」  「いいけど……別にそんな見るほどのものでもないよ」  「二人がどこでえっちしてるのか推理して楽しみます」  「ちょっと」  蒼空の口調にすみれはぺろっと舌を出すと、立ち上がった。  「ごちそうさまでした。友達とご飯食べる約束してるので、そろそろ行きますね」  「まったく……」  「都築さんや瀬那さん、北山さんにも改めてお礼を伝えておいてください」  「ああ」  「それじゃ」  ドアを開けると、外の日差しはいつの間にかオレンジ色に変わっていた。手を振って歩き出すすみれを見送りながら、ふと蒼空はしばらく顔を見せていない母親のことを思い出してポケットからスマホを取り出した。  父が亡くなった時、母はどんな思いで乗り越えたのだろう。にこにこと手を振るすみれの姿が、いつも穏やかな笑顔を絶やさない母の表情と重なって見えた。  「……あ、もしもし? 母さん、俺だけど……うん、元気だよ……いや、なんとなく声が聞きたくなったんだ……」   報告書を一つ書き終え、陽大は椅子の背もたれに寄りかかりながら大きく伸びをした。その様子を見て、班長の坂本が声をかける。  「都築、今日はもう終わりか?」  「あ、はい、今日提出する報告書は書き上げました」  「この前の恫喝事件の分は? できたのか?」  「あれは、明日中には必ず」  「明日は別の事件が起きるかもしれないんだぞ」  「大丈夫です、班長が来たからには事件は起こりません」  「どういう理屈だ」  坂本は苦笑しながら目を通していた書類にサインをする。  「ただでさえ報告書が溜まってるのに、管轄外のことに首を突っ込むからだろう」  「それはわかってますけど……」  「でも、そう言いながら俺を現場に送ったのは坂本班長ですからね」  陽大の斜め後ろの席から秦が言い返す。  「そうそう、病み上がりの秦をよこしてくれなかったら、俺らだけじゃ逃してたかもしれません」  壮介が立ち上がって報告書を坂本の机に置く。  「わかったわかった、今日はもうあがっていいぞ」  部下たちに立て続けに攻められ、坂本は降参という感じで追い払うように手を振った。  「班長もあがりましょうよ」  「俺はもう少しやってから帰るよ」  「秦の快気祝いです。行きましょう」  その言葉に、坂本はサインしていた手を止めた。秦が撃たれた胸をぽんぽんと軽く叩いて見せる。やれやれ、という感じで坂本はペンを置いて立ち上がった。  「そんなこと言って、狙いは俺の財布だろう」  「さすが班長、勘が鋭い」  男たちの笑い声が響く。  「よし、行くか」  「よっしゃ、班長の奢りだって」  「そんなことは一言も言ってないぞ」  「はいはい、もう店は予約してるんで」  坂本に小突かれながら嬉しそうにしている秦たちの後ろを、壮介と陽大が笑いながら歩いていく。  「瀬那ちゃんには迷惑かけたな」  「まったくだ。怪我でもしてたらおまえを一生許さなかったぞ」  「俺だって苦渋の決断だったんだ」  「ま、瀬那が怪我する確率よりあのエロ親父が怪我する確率の方が高かったけどな」  「確かに。けど、本当に無理に巻き込んで悪かったよ」  「これは貸しだからな。夏休みの旅行と二つ、俺に大きな貸しができたんだから覚えとけよ」   「はいはい。クリスマスに返せばいいんだろ」  「その前にハロウィンだな」  「いつからそんなもんに興味を持つようになった」  外に出ると、昼間の暑さがようやくやわらぐような心地よい風が吹いていた。  前を歩く仲間たちの賑やかな笑い声に、自然と陽大の頬も緩んでいく。この何気ない日常にいられることが当たり前だと思っていたけれど、その日常が予期せぬ形で奪われてしまう人もいる。それら全てを防ぐことはできなくても、少しでも救えるのならそれが自分のやるべき仕事だと陽大は思った。  ポケットの中でスマホが振動し、見ると蒼空からのメッセージが入っていた。  ――飲みすぎないように。  ホテルに向かう車の中で、蒼空が流した涙を思い浮かべる。  俺はずっとおまえのそばにいるよ。絶対におまえをひとりにはしない。  ビルの隙間に吸い込まれるように、夕陽が沈んでいく。そうやって今日も一日が終わっていく。そしてまた始まる新しい朝がすべての人に訪れることを願いながら、陽大は壮介の肩を抱き、前を歩く坂本たちの後を足早に追いかけていった。  ――Dusk Till Dawn.

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