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面倒臭い迷いの中

「今回もいい成績だったな。このまま頑張りなさい。これなら犀星高校は安泰だ」  父親の雪春(ゆきはる)は、中学2年最後の期末テストの成績表を見てそう言った。  犀星高校とはこの地域の一番校で、偏差値は73とも言われる難関高である。  稜は、ありがとうございます、と頭を下げ父の書斎から辞した。  稜の家、葛西家は父親は地方裁判所の判示、上の兄は検察官、下の兄は弁護士を目指して現在法学部に在学中という法曹一家である。母親もまた弁護士の資格を有していて、自分の事務所も構えているが今は子育てという名目で、重い仕事はしていない。  稜の下にも妹がいて、妹も母に倣い弁護士を目指していた。  稜は検察官を目指して毎日勉強を頑張ってはいるが、兄妹の中では要領がいいのか優秀な方で、部活などもこなしながらの成績でもいつでも上位に位置している。  そんな稜を両親は誇りに思い、他の兄妹よりは目をかけていた。  部屋に戻りベッドに身を投げると、天井を見つめ大きなため息を一つつく。  勉強は嫌いじゃない。やればやっただけ結果が出るのは楽しいし、どんどん先に進めていく開拓する感じが好きだった。でも、何か自分の中に理解できないことがあって、それが理解できないこと自体が小さなストレスとなって稜を苛んでいる。  今現在思春期真っ只中の身である自分が、性に興味を持つのは当たり前だと冷静に思っていた。  …が、先日学校の友達と友達の家で見たAVに自分は1mmもときめかなかったし、もちろん股間も何も反応しなかったのだ。  女優のわざとらしいカメラ目線の喘ぎ声が勘に触ったのもあるが、無修正の映像のアップにされた女性器も結合部分も、気持ちが悪くなるような眩暈を感じたほどである。 「僕はどこかおかしいのかな…」  そう稜が思ってしまうのは無理もない。AVをみて吐き気すら催すのに、同じ剣道部の先輩の着替えを見てときめいてしまったのだ。 「医者に行こうにも、何科?っていうか医者にいくことなんかな…」  テレビで活躍しているいわゆる『ゲイ』という人種ももちろん知っていたが、興味もなかったし、普通に面白い人たちくらいにしか見ていなかった。  しかしその人たちがグッと身近に感じられたのだ。 「ゲイ…ねえ…」  右腕で両目を覆い、先輩の筋肉質な上裸姿を思ってみる。  その先輩は剣道部の先輩として稜が憧れていた先輩で、先輩として好きだなと思う人だった。だからその人に性的なものは感じてるつもりはなかったが、ときめきを感じてしまってからこっち、その姿を思い浮かべるだけで股間が反応するようになってしまった。 「あ〜もう…一体なんなんだよ…」  膨らんでしまった股間はそのままに、またひとつため息を吐いて目の上から腕を外す。  思春期には難しい性癖となってしまった。    春になり、その先輩も卒業して剣道部も、稜たち新3年生が引っ張ってゆく体制となった。  新1年生も4名入り、順調な滑り出しである。  中総体へ向けて、厳しい練習が始まったがそれも鍛錬の一環と捉え、稜以下部員たちも頑張って食い下がっていた。  そんなある日の練習終わりに、稜はたまにはと思い防具の手入れを始めた。  明日は休みだし、早く終わったことも手伝って今のうちにと思ってのことだ。  部のバケツ一つに洗濯用の液体洗剤を溶かしたものと、ただの水を入れたものを用意して、剣道部の部室で始めた。  面の顔がつく部分と肩の分は、汗が染み込みやすく、練習終わりに毎日拭いてはいてもどうしても匂いが出てしまう。  稜はまずそこを重点的にやろうと、タオルではなく部で用意してある手拭いにまず洗剤を溶かした水をつけて、優しく拭い始めた。  まあ綺麗にするには限界があるが、匂いが少しでもまともになればいいなと丁寧に拭う。  拭った後は別の手拭いに水をつけて、洗剤を落とすように拭っていく。  これを面、こて、胴の裏とかやっていくのだから少々面倒ではある。ので、今日は面だけと決めていた。 「先輩、一緒にいいですか?」  2年の坂下が面を持ってやって来る。 「いいよー、坂下のも匂っちゃった感じ?」  笑って言うと、 「そうなんですよー俺なんか練習後の拭き取りもいいかげんだったせいかキッツイキッツイ」  そう笑って、ー嗅いでみます?ーと言ってきた。 「嫌だよ、臭いの嗅がせんな」  と大袈裟に身体を避けて、2人で笑い合う。 「ああ、そこ縫い目に沿って拭かないと、割れるから気をつけて。って、坂下ももう2年目なんだから、そこは覚えておこうよ」  と今度は少々呆れて見せた。 「先輩って…」 「ん?」 「表情豊かですよね」  教わった通りに肩の部分を拭きながら、坂下が言う。 「そうか?別に普通じゃない?」  反対の肩に移って、稜はそうかなぁと首を傾げた。 「坂下もよく笑うし、よく喋るじゃん。同じだと思うけど?」  坂下は黙って今度は水拭きをする。 「そう言うことでもないんすけどね、先輩は顔も可愛いからみんなにそんなことしてると勘違いされますって言いたかったんす」  可愛い顔とは昔からよく言われてはいた。確かに女顔だし、無意味に唇が赤い。そんな顔は自分は気に入ってはいないが、人はそう言う風に言ってくるし、そう言う風に見てくる。 「いや〜…まあそれはよく言われるけど、俺は嫌なんだよなそれ言われんの。別に男にわざわざ可愛いとか言う必要ある?嬉しくないしさ」  言い方が少し拗ねたようになった自覚はあった。でも正直な気持ちだし、坂下は入部当時から可愛がってた後輩でもあるから、その子から言われるのは嫌だったのである。 「そういう言い方が、また誤解を招くんですよねえ…」  はあ、とため息をついて坂下は面を床に置いた。  その動作に、稜はどうしたのかなと顔を坂下に向けた時である。  坂下の顔が間近にあり、そして唇が合わさってきた。  ぶつかるような…まるで事故のようなキスだった。 「え…?」  一度離れた唇は、伸びた坂下の手が後頭部を押さえて再び合わさってくる。 今度は優しく重ねられ、しかも不器用な舌が唇を舐めてきた。  稜は咄嗟に面を置き、坂下の頬を叩いてしまう。 「なっなに?なんだよいきなり!」  気持ち悪いとかばかじゃねーのとかいう言葉は出てこなかったが、自分を見透かされたようで恥ずかしい気持ちになってしまった。 「可愛い事するから…」 「な…にもしてな…」  と言いかけたが、その時にはもう坂下は部室を走り去っている。 「おい!」  一度呼び止めたが、呼び止めてそこでどうしたらいのかわからずに、稜はそこで呆然と座ったままになってしまった。  15分後、剣道部の顧問が部室へやってきた。 「坂下がほっぺた腫らしてたけど…叩いたの葛西(かさい)か?」 「あ…いや、あの…」  まさかキスされたからとも言えず、でも部活の『かわいがり』で叩いたと思われるのも嫌だったので、何も言えずに言葉を濁す。 「今はうるさいから、あまりそういうことしてくれるなよ…。坂下も何も言わないし、部室に行くのは知ってたから来てみたら、いるのお前だし。何もしてないんだな」  何もしてなくはないが、何かされたからしただけなんだと言いたくて仕方がなかったが… 「なんで何も言わないんだ?」  稜は黙るしかない。 「はぁ…まあ、坂下も大ごとにする気はなさそうだし、腫れてると言っても赤くなってるだけだからな。坂下が家に帰って親御さんが騒がなければこのままでいいんだが…」  今のご時世、教師という職業も大変なのだ。  こういった生徒同士の問題は、生徒同士ですめば御の字で親が出てくると途端にややこしくなってゆく。 「明日、何もなければ無罪放免だ」  結局疑ってるじゃん…とは思うが『疑い』ではないところが稜には痛いところだ。  でも… 『男にキスされて、咄嗟に叩いちゃうのは仕方なくね?』  と理不尽を感じているのも事実である。 「あ〜めんどくさい…。明日何事もありませんように…」  しかし、人生はそんなに甘くなかった。  次の日の朝イチから坂下の母親から学校へ電話が入り、稜と坂下は校長室へと呼び出される。  隣同士で座らされ、目の前には校長を挟んで稜の担任、坂下の担任がすわっていて、その傍にはスチール椅子を持ち込んだ剣道部の顧問も座っていた。  母親が来ていないことは救いであった。 「何があったか話してくれないか?」  坂下の頬はもう全然赤くもないし、腫れてもいない。過保護な母親が暴走しているだけなのだろうが、理由を聞かないと納得しない人種だ。  2人は押し黙ったまま下を向くしかない。全てなんて言えなかった。 「何か言えないことなのか?」  担任が問うが、何も言えない。校長が問うてきても何も言えない。  教師たちはため息をつくしかなかった。  親御さんにはなんと言えば…。  しかし稜はこんな空気に耐えきれなくなった。  叩いたのは事実だし、これが母親の暴走で明るみに出たら中総体どころではないし他の後輩にも迷惑になってしまう。だから… 「…叩いたのは事実です。でも理由は言えません。だから、僕が部活辞めますので、坂下のお母さんにもそう伝えてください。それなら部にも迷惑かかんないですよね」  そう言って顧問を見ると、気まずそうに咳払いをした。  坂下は驚いて稜の顔を見たが、稜はその顔を一瞥もせずに正面の校長の顔を見ていた」  感情が込み上げてそうなったんだろうとか、自分も男にそんな気持ちになったことがあるからとかの理解じゃない。  そういう行動に出たら誰かが犠牲にならないと収まらないということを知れ、という態度を示したかった。 「でも葛西は中総体の個人戦優勝がかかってるんじゃあ…」  担任がそう言ってくるが、 「僕の個人の成績より、部の存続が先でしょう。叩いたのは事実なので、隠蔽っていうと言葉は悪いですが、先生方にご迷惑をおかけするついでに理由はふざけて手がぶつかっただけとでも言ってください。坂下のお母さんが騒いでこの事が世間に出る前に示談と言うことにしないと、剣道部の存続に影響が出かねません。もし金銭的に必要なら僕が親に言います」  と理路整然と言ってのけた。そう言われてしまうと、教師たちもぐうの音も出ない。 「お前はそれでいいのか?」  担任は食い下がってくるが、 「叩いたのが事実である以上、僕が取る責任はこれしかないので」  個人戦優勝は、高校進学にも有利になるので取っては置きたかったが、勉強の方で点数は足りているのでそんな不利にもならない。 「ご迷惑をおかけいたしました。あとは先生方にお任せいたします」  立ち上がって礼をする様を、坂下はずっと見ていた。  どんな気持ちなんだろう、何を考えて自分を見てるんだろう。  稜は冷静にそう考えていたが、自分が持て余していた同性への憧れや恋慕をあんなにストレートに出してきた坂下のことは、ちょっと羨ましくもあった。  まあそれで自分の剣道人生は終わるわけだけど、部活でしかやってないからそんな未練があるわけでもないし…と割り切って、もう一度座り直す。  教師陣は顔を見合わせあって相談を始めたが、ー葛西がそれでいいなら…ーと言うことになり、坂下の担任は職員室へ戻り坂下の母親に連絡をとりにゆき、稜と坂下は教室へ戻るよう言われ戻っていった。  その際も稜は坂下の顔は一切見ずに校長室を出る。その態度にずっと坂下は戸惑っていたが、それは稜の知ったことではない。  放課後部室の私物を取りに行かなきゃだなあと漠然と考えながら、稜は教室へ戻った。    帰り道、稜はとある公園のベンチに座っていた。  放課後に部室へ行かなきゃと考えてはいたが、今日の今日でめんどくさくなり、いつだっていいやと放課後すぐに学校を出たのである。  4月の半ば。5時辺りはまだ少し明るい。  だから公園もまだお年寄りのお散歩や、買い物帰りのお母さんと小さい子が歩いてたりするところにはなってたが、実はここは夜になると地元で有名な所謂『ハッテン場』となり、同性の相手を探す人達がやってくるところだった。  まだ14だし、ここで相手を探す気も勇気もなかったが明るいうちにどんなものかと寄ってみた。  坂下の勇気ある行動のおかげで、稜も少しだけ踏み出そうかなとか考え始めたのもあるし、放課後がまんま空き、元々その時間は勉強にあてていなかったからこう言うのもありかなと思ったのも本当。 『どのくらいの時間から賑やかになるんだろう…』  未だ普通の人が通りすがる公園で、稜は1人その人々をながめていた」  部活をやっていたら帰るのは午後7時。その時間に家に帰れるリミットまでいようと思った。  今日探すわけじゃないけど、様子を見てみたい。  なんとなく退屈で、携帯を持ち出し英単語をやっていると、ある一定時間を過ぎた頃から嫌に視線を感じるようになってきた。  携帯の時間を確認すると、午後6時を過ぎている。そして周りを見回すと、いかにもな格好の人や、普通の服装、人によってはスーツ姿だったりする男性がずいぶん増えていた。 『なるほど…』と雰囲気に押されながら、肌で感じる圧。  稜は注目の的になっていた。  それはそうだろう、見た目可愛げな男の子が1人で座って携帯を見ている。格好のご馳走だ。ただ制服をきているために、皆手が出せないでいるのだ。  微妙な空気を感じ、今日のところは帰ろうと思い立ちあがろうとした時に、1人の男性に話しかけられた。  座った態勢で見上げると、髪をワックスで後ろへ撫で付け上質なスーツを着た男性が立っている。年齢は、ぱっと見40歳くらい。 「こんな所に君みたいな子がいたら危ないよ?」  本当に心配そうな顔で立ったまま話しかけられ、 「あ、今帰ろうと思った所です」  といって、稜は立ち上がった。  場所が場所だけに、きっとこの人もそうなんだろうなと思い少し怖くなる。 「うん、それならいいけどここがどんな場所か知らないで来てたなら、暗くなってからここに来ちゃダメだよ?」  男性はそう言ってくれて、早く帰りなさい、と促してくれた。…が、そう言われると少し興味も湧いてくる。 「あの…実はそう言うことで悩んでいて…」  興味というか、なんだかここでこの人と別れて見知らぬ人に戻るのも惜しい気がした。せっかく話しかけてくれたし、心配もしてくれたみたいだから…というのもあったかもしれない。  自分の中のモヤモヤを誰かに話したくていた稜は、なんとなくこの人なら聞いてくれそうな気になった。  男性は、制服姿を上から下まで見て、 「あ〜、うん…そういう事か…」  思春期っぽい男子が『そう言うこと』で悩むのは、ここに来ている自分にも覚えのあることだ。 「私に話してみたいと思うかい?その君の心の中さ」 「ちょっと色々あって…まだいっぱいいっぱいにはなってないですけど…そうなってからだと自分で手に負えなくなりそうだから」  何で初対面の知らないおじさんにこんなこと言ってるのかわからないけど、とにかく聞いてくれる人を渇望していたんだなと自分を理解した。 「じゃあさ…今日はもう遅いから、君がよかったらだけど明日の5時頃に新市街の「モンクレール」っていう喫茶店に来られるかな。怪しい店じゃないよ。心配しないで。そこなら静かで、人に聞かれないで話ができるからさ」  そう言って男性は名刺をくれた。そこには市内でも有名な会社名が書かれていたが、何より驚いたのがその肩書き。代表取締役専務 となっている。  思わず顔を見てしまうが、 「嘘じゃないよ。帰ってから調べてもらってもいいし。怪しいおじさんじゃないって信じて欲しいからさ」  そう言ってその肩書きの隣に書いてあった名前『棚橋(たなはし) 司』さんは、笑った。 「あ…僕は葛西稜です」  相手の名前も聞いてしまったので、自分も名乗らなければととりあえず名前だけ伝える。 「よかったのに。でも教えてくれてありがとう、稜くん。じゃあ明日待ってるね。気をつけて帰りなさい」  手のひらをひらひらして稜に向けると、稜も頭を下げて帰路についた。  しばらく気のせいかもしれないが視線を背中に感じて、それがなんだか嬉しい気持ちになってすこし軽く感じた足取りをすこし早める。  明日が楽しみになった。

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