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信じあう奇跡を
次日の夕方。学校帰りに病院へ寄った。
病室には美奈子がいて、稜を見ると立ち上がってくれた。
「今日ね、棚橋がいつも行っていた喫茶店のママさんって言うのかしら?が来てくれたの。叱咤激励していたわね」
薄く微笑んで美奈子は口元に手を当てた。
「優しくて強い良い方です。聡子さん」
ーそうねーと言って美奈子はいつものように、2人にするべく部屋を出ていった。
稜は今日もベッドサイドの椅子に座る。
「司、具合はどう?痛かったり寒かったり苦しかったりしたら、ちゃんと言わなきゃダメだよ」
手を取って顔を見つめる。
「昨日ね、聡子さんといっぱい話ししたよ。僕たちの事知ってる人と話すのは初めてだったけど心強かった。司がそう言う風にしてくれてたんだね。ありがとう」
だいぶ腫れの引いた頬にも手を当てた。
「腫れ引いてきた。いつもの良い男っぷりが出てきたよ」
笑って手の甲にキスをする。
「僕ね、今日話があって来たんだ。ちゃんと聞いててね」
握った手を口元に当てたまま、体に直接言葉を入れるような体勢になり
「昨日聡子さんと話をして決心したんだ。明日から僕はもうここには来ないようにする」
そう言ってから司の様子をみる。
ーまあ動かないよねー苦笑して言葉を続けた。
「来年3年生だし、大学は一応夢は大きく東大を目指してはいるんだ。頑張ってみるね。今の所B−で苦戦中だし」
ーそれでもB判定はすごいなーと言ってくれそう。
「でね、ここからが一番言いたかったことなんだけど…」
手にもう一度キスをして、じっと顔を見つめる。
「司が『綺麗だ』って言ってくれた僕は司のものだから、これからは誰にも見せないことにしたんだ」
ー嬉しい?ー とも聞いてみた。
「僕が綺麗だって言ってもらえるのは司がそうしたんだからさ。司しか見ちゃダメなんだよ」
司との色々を、うっとりとしながら思い出す。
「じゃあどうするのかって思うでしょ?だってあんな欲しがりにしたのも司だもんね、気になるよね」
笑って手を恋人繋ぎに変えた。
「僕は今日から『タチ』をすることにする。できるかできないかじゃないの。そうしないと司のための僕が犯されちゃうからね。僕を犯して良いのは司だけだから。そしてね、こんな有り余る欲しがりを解消するのにね、僕Boy’s Barに行くことにした。良いところがあるって聡子さんが教えてくれてね、会員制で無理なお客さんいないんだって」
昨夜聡子に聞いたこととはまさにこの事だった。
聡子は少し渋ったが、それでもここなら…と言うところを紹介してくれたのである。
「売るっていうと聞こえ悪いけど…僕はただの解消だと思ってるから。そこでバーテンしながら気楽にね…」
稜は腰を浮かせて、司の頬にキスをした。
「司、ありがとう。司のおかげで、勉強にも身が入るし、僕の性癖の落とし所が見つかった。最初に会った日の僕をきちんと回収してくれて本当にありがとう。あ、それと来なくなるって言ったけど、司が目を覚ました時には真っ先に飛んでくるからね。そして僕を抱きなさい」
司の好きだった満面の笑みで、言ってやる。
「それまでバイバイね。絶対に目を覚ますんだよ。待ってるからね、絶対ね」
もう涙はない。絶対に目を覚ますと確信しているから。
稜はもう一度頬にキスをして立ち上がった。
今日は長く居ないつもりで来た。いつまでも未練をひきづっているのが辛いから。
「え、あら…もう帰るの?」
美奈子が慌ててベンチから立ち上がってきた。
これから長い時間を過ごすであろう彼女は、編み物を始めている。それをベンチに置いてやってきてくれた。
「はい。司に僕の決意を伝えたのでもう大丈夫です。それと美奈子さんにお願いがあって」
稜は美奈子をベンチへ促し、編み物しながらでいいから聞いてほしいと座る。
「まず、あのマンションは、僕の名義になってしまったのならありがたく所有させていただきます。でもあそこは思い出が多すぎてまだ僕にはちょっと辛いです」
ーそうよね…ーと編み棒の手を止めて、美奈子も床に目を落とした。
「成人したら…もっと気持ちが落ち着いたら利用させてもらうことにしますね。それと積立金とか管理費がかかるんですよね、マンションて。その名義も僕にしてください。バイトを始めようと思うので何万かは大丈夫ですから」
昨日までの稜とは打って変わって整然と話す姿に、美奈子は少し驚いていた。
笑ってはいたけど、どこか張り詰めてつつくと身体中から涙が溢れてくるんじゃないかという感じだった稜が、すごく理知的に事を進めようとしている。
これが司の愛した『稜』くんなのね…と美奈子が涙をこぼした。
こんな賢くて、そして綺麗な子を夫は愛していたんだと。
今更稜に嫉妬してしまう。
「美奈子さん、どうしたの?泣かないで」
稜はハンカチを取り出し美奈子に渡した。
「貴方が…稜くんが昨日と全く違う人で…びっくりしちゃったの。でもマンションの経費は棚橋が…」
「司の部屋だったところの責任を持ちたいんです。そしてお願いはもう一つあります。僕はもうここへは来ないつもりです。だからマンションの固定電話に留守録をセットしておきますので、司が目を覚ました時に連絡をください。僕、週1で確認に行きますから。これは絶対にお願いしておきたいです」
美奈子は今回の事故をきっかけに、好きだった男性とはお別れをしていた。
もし司が目覚めた時に稜を呼べば、また司は行ってしまうかもしれない。いや、『かもしれない』ではない。絶対だ。そうしたら自分は1人になってしまう…
だからこの稜の頼みはどうしたらいいか一瞬考えてしまった。
「この事故は…私達が勝手気ままな夫婦をやって来た代償だと思ってるんです。だから私は…棚橋と添い遂げようと決めました」
稜はその言葉を静かに受け入れた。
「でも…|添い遂げる《それ》自体にも代償が伴うと思うの。私は棚橋に添い遂げる覚悟をしたけれど、棚橋にそれを強制はしません。だから、周りくどい言い方をしてごめんなさい。連絡は入れさせてもらいます。絶対に」
みっともないことをするところだった。これみよがしに『妻』を強調してしまった。口から出た言葉は取り返せない。稜くんは怒っただろうか、傷ついただろうか…。
「ありがとう、美奈子さん。今、僕がここにいること自体が美奈子さんを苦しめているのは解ってるんです。昨日までの自分はそれを解っていても司に会いたかった。でも美奈子さんも、穏やかな夫婦の時間を過ごすべきですよね。こんな形になってから、しかも僕が言うのは変ですけど、お二人の時間を大切に。あ、お子さんも一緒にですね」
美奈子はハンカチで目を覆ってしまった。
この子には勝てない…。こんな良い子を夫は愛していた。自分は棚橋の子供を産めるということしか勝てるところがない。
「連絡が、早くくることを願っています。僕も会いたいけど美奈子さんも会いたいですよね。1週間くらい連絡遅れても大丈夫ですよ」
笑ってそう言って稜は立ち上がった。
「じゃあ、美奈子さんもお身体に気をつけてください。今度会うときは、司が目を覚ました時ですね。お元気で」
美奈子は目をハンカチで覆ったまま動けなかった
きっとすごく良い顔で笑っているのだ。それを見たらもう完全に負けてしまうと思ったから。
「ごめんなさい…涙止まらなくて…」
「大丈夫です」
美奈子はそれでも顔をあげられなかった。
「美奈子さんは優しい人ですね…僕の前で司のことを『棚橋』って呼んでくれてありがとう。気を遣わせてしまいました。ごめんなさい」
そう言われて、漸く美奈子は顔をあげる。
そこには美奈子にはわからないが司が好んだ笑みがあった。
「じゃあ、僕はこれで」
稜はそう言って病室の中の司を見た。相変わらず寝たままで稜を見送っている。
「またね」
病室に向かってそう言って、稜はその場を後にした。
結構清々しい気持ちだ。
そしてその足で、新市街へと向かっていく。
新しい一歩を踏み出さなければ。
昨夜、聡子が電話をしてくれて今日の面接を取り付けてくれていた。
その為に、途中ファッションビルで、家から適当に持って来た服に着替える。
「何でこれにしちゃったかな…」
ダメージの入った長Tは、黒一色の前面下部が網目のようにほつれたデザインで、パンツはストレッチの効いたチノパン。これも黒。
「ああ…真っ黒…で、パーカーが白か…今日からはダメそう…」
白パーカーとはいえ、グレーやピンクの差し色(?)は入っていたが、なんとなく物騒な配色。
今日からでも店に立つ気でいたものの、初めて店に立つにしてはあんまりな格好なので諦めることにした。
そして最後に鏡の前で、司にもらったイヤーカフとダイヤのピアスをつけた。
初めて結ばれた日に誕生日プレゼントに貰ったピアスは、その日のうちに2人で苦労しながら穴を開けたと言う思い出がある。
これならずっと司と一緒にいられると思い、持って来たものだった。
誕生石の翡翠は、司が目が覚めたら貰おうと決めている。
ファッションビルを出て、高校入学時に買ってもらったスマホで地図を確認しながら、とあるお店に辿り着いたが入り口はお店のしかない。
蔦の這った壁に、鉄の格子が絡みついた木のドアがある。
ドアには小さなプレートで『バロン』と書かれていた。
ここから入っても良いのかなぁ…とドアの前でウロウロしていると
「お店に何か御用ですか?」
と声をかけられた。
振り向くと結構背の高い、それもめっちゃ綺麗な男性が立っている。
「あ、面接で…」
「ああ、聞いてます。じゃあこちらからどうぞ」
男性はすぐ脇の路地裏に入り込み、ーこっちが裏口なんですよーとドアを開けて先に入り促してくれた。
茶色い髪を前半分だけ長くして、後頭部は短めのウルフカットのストレート。
稜はこの人はこの店のBoyさんだとすぐに判ったが、やはりこう言う仕事の人は綺麗なんだなと男性の後ろ姿を眺めていた。
男性はドアを入り薄暗い通路を数歩歩くと、すぐ右のドアを開け、
「柏木さーん、今日の面接の子来ましたー」
と中へ入りながら声をかけた。
「おう、なんだ丈瑠知り合いか?」
奥の壁のデスクの中で、オールバックの目つきの鋭い柏木と呼ばれた男が立ち上がった。
「ドアの前で戸惑ってたんですよ。連絡の時にちゃんと入り口教えなさいよって言ってるじゃんよー」
「いや、聡子さんからの紹介なんだよ連絡も彼女でさ」
「じゃあ聡子さんに言えば良かったんじゃないの?」
まあ…そうなんだけどな…とゴニョゴニョ言って、柏木は奥の事務デスクから出てきて
「店長の柏木です」
と、目の前のソファを稜に示した。
柏木さんと言う人は、丈瑠さんと言う人に弱いのかな…そんな考えが簡単に浮かぶ構図。
稜は言われるままに座って、履歴書を渡す。
柏木はそれをみて、
「犀星高校?優秀なんだなぁ。大丈夫?」
と少し戸惑った。
「大丈夫です、バレるようなヘマはしません」
ニコッと笑って、サラッとそんなことを言ってのける。
案外使えそうな子だなあ…と柏木はその気風の良さを買って値踏みをする。
「それで、え〜…裏の仕事はできる…のかな」
毎度ここは聞きにくいことなのだ
「はい、そのつもりで来ましたから。バリタチでいかせてもらいます」
『バリ』を強調するには稜なりの意味があるのだ。それにはそばにいた丈瑠と呼ばれた人物も声を上げるほどだった。
「え?君…ええと葛西くん…?タチ希望なの?」
流石に面食らった柏木が、不躾を承知で稜の上から下までを舐めるように3回上下して
「ネコじゃなくて…?」
と聞いてくる。
「はい、『バリ』タチで」
適当な服に着替えて来たので、あまり綺麗な格好はできていないはずだが、それでも…
「え〜?もったいないねえ」
丈瑠がコーヒーを持って来てくれながら、そう言ってくる。
「まあでも…このギャップが売りになるかもしれないし…最近増えてるんだよな、攻められたい紳士は…いいかもしれん」
そう言って無理やり自分を納得させた柏木は、
「採用しましょう。いつから来られます?」
入れる日に丸つけてと、シフト表のようなものを渡した。
「明日からでも大丈夫です。今日は格好がちょっと地味なので、恥ずかしいから」
そう言う格好も、それほど地味ではないのだが、と2人は思ったが本人がそう言うなら
「じゃあ明日からお願いします。定休日は日曜日で、稜くんはバーテンも希望ということだから、明日、そこの丈瑠と組んで店に立ってもらうね」
「はいよろしくお願いします」
と、柏木に頭を下げ、そして立ち上がって丈瑠にも
「よろしくお願いします」
と頭を下げた。
これが、これから『なあなあ』で『ずるずる』な、変な親友関係を続けることになる2人の出会いだった。
次の日、稜は店に入り丈瑠に仕事を教わりながら色々話をした。
「ねえ、稜くんは絶対にネコにはならないつもり?」
「はい、『絶対』にです」
強調するじゃん…
「丈瑠さんはどっちなんですか?」
「俺はリバだよ。どっちでもいける。需要あったらどうぞ」
稜は思った。
『このチャラそうな人を、自分のタチの最初の相手にできないか…』と。
いきなりお客さんをとって、急にタチができるかというと、あまり自信があるわけではない。
稜は丈瑠にターゲットを絞って、初店はお客はとりませんスタイルで終わらせ、そして、店が終わった時…
「丈瑠さん、これからご飯でもどうですか?色々聞きたいこともあるし」
人好きのする笑顔で丈瑠を誘う。
パソコン越しにそれをみていた柏木は
「えらい人材が入ったな…おっかね…」
と、今日の丈瑠の運命に祈りを捧げた。
「お、いいね。行こうか〜」
鴨ゲット、と稜が思ったかはわからないが、稜は進み始めた。
いつか司が目覚めるまでは、自分を守らなければならない。
それにはタチの技術も磨かなければいけなくて…
しばらくは練習台にこと欠かなそうだな〜と、浮かれスキップで食事に向かった稜の左耳に、ダイヤが2個輝いていた。
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