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気持ちの整理

 病院から出ると外はもう暗くなっていて、時間をみたらもう午後8時になりかけている。  9月も終わりになればそんなものか…と思うほど景色は真っ暗だった。  頭がふわふわとして、自分がどこを歩いているのかも、なにをしてたのかも思い出せないほどに、ふわふわと歩いていた。  こうやって歩いてれば、司が車でーこらこら、暗くなってから1人で歩くんじゃないーと過保護に言ってくる気がする。  マンションに行けばー食事行くぞーって言ってくれる気がする。  ご飯食べたら…抱いてくれる気がする… 稜は無意識にバス停に来ていたが、バス停の端で膝を抱えて座り込み、声を殺して泣いた。  まだ少し利用者の多い時間帯で、バスを待つ人は少なくなかったが、皆が見ないふりで『いてくれた』 『どこに行ったらいい…僕はバスに乗ってどこに行こうとしてる…』  体が震えて仕方ない。涙も止まらない。どこにも行けない。  稜はしばらくそこに(うずくま)って泣いていた。  だいぶ経って…バス停でバスを待つ人もいなくなった。  稜はベンチに座りぼんやりと行き交う車を眺めている。 家に帰るか、マンションへ行くか…散々迷って、家に帰ることにした。  泊まる偽装工作も面倒臭いし、今は自室で眠りたかった。  マンション(あの部屋)は司の匂いがありすぎる。  無意識にバスに乗り、無意識に乗り換えをし、ふわふわとしたまま家に帰ってきた。 「遅かったわね、ご飯は?」  母親が迎えてくれ、もう22時を回っていたのだが成績さえ維持していれば、親は何も言わない。 「食べて来ちゃった、ごめんね、ありがとう」  母親にはそう言って笑えた。まだ自分は大丈夫だと思った。 「ちょっと今日はね、こんな時間まで橋本に引っ張り回されちゃったから疲れちゃった。もう寝るね。お風呂は朝シャワー浴びるよ」 「あらあら、楽しんでることね。わかったわ、おやすみなさい」  楽しみたかった…学校帰りに寄ったマンションで、少しの間でも会って司と触れあいたかった。  取り敢えず洗面所で顔と手を洗って、顔を拭ってから階段を昇る。  階段を昇りながら溢れそうになる涙を堪えて、走って部屋へ飛び込んだ。  ドアを背にして閉めた瞬間、涙が溢れてくる。 制服を脱ぎ、下着一枚づつでベッドに潜り込んだ。  自分で自分の身体を撫でまわし、司の手…と思い込みながら色々なところを触ってゆく 『そう言えばここ、まだ手付かずだったな。これから開発するぞ』  と言っていた乳首…自分で触っても気持ちよくなんかない。  これは司の手、これは司の手と言い聞かせて触れると、 「あ…」  声が出た。  乳首をいじり倒し、布団の中でタオルケットを噛みながら小さく声を漏らし、快感に打ち震える。  司が開発したがった乳首(ところ) 「気持ちいい…司…きもちいぃよぉ」  立ち上がったペニスも握り、擦り上げると乳首と相まって快感が増す。 「司…そんなにいっぺんに…」  妄想で司とセックスした。 「早く…司の欲しいよ…はやく…」  だが、それだけは叶わない… 布団の中で丸まって泣いた。  声を殺して泣いた。  早く目覚めてほしい…命があるだけよかったと思わなければだけれど…触れられない…  痛々しい傷も頭に蘇り、寝入りそうになった頭を目覚めさせてくる。  小津絵先生の言うように、司は今寝てくれたかな。明日また僕の声聞いてくれるかな。  それだけを(よすが)に眠りたい。  また明日、司に会いに行く。      稜はその日から毎日病院へ通った。  次ぐ日は学校を休んでまで病院へ赴き、看護師さんに嗜められる。  昨日の一件で、稜は病棟の看護師さんに『気をつけるべき見舞い客』とでも認定されたのか、やたらと看護師さんが話しかけてきた。  美奈子も不思議がっていたが、みんなが優しく声をかけてくれる。 「学校休んでまで来て、棚橋さん喜ぶんですか?」  そう言われると厳しかった。  成績を落とすことはダメだと厳しく言われて来ているから、きっと今日は怒ってるかも。  と、昨日の椅子に座り話しかけ続ける。 「今日サボっちゃった。明日はちゃんと学校行くから」  そのまま手を握り、再びその場から動かなくなった。 「司…起きて…僕ここにいるから。最初に顔見てね」  病院にいる間は稜は落ち着いていた。  お昼ご飯も、美奈子が持ってきてくれた手作りのお弁当をいただく。  この、美奈子が作ったご飯は司も食べていたご飯なんだと思うと、少し嬉しくて食べることができた。  夜7時になって病院を出ると、途端に稜は涙が出てくる。  今度は病院を出たところのベンチでしばらく泣いた。  気が済むまで泣いて、そうしてから無意識にバスに乗り無意識に家に帰ると言うのがルーティーン化して、同じことの繰り返しで1週間が経っていた。  稜は美奈子が持って来てくれるお弁当以外は水分以外何も口にせず過ごしている。だから平日はほとんど何も口にできていない。  学校へ持っていっているお弁当さえ口にしていなかった。  自分では気づかないが、頬はコケ、目の周りもクマが酷く、元の稜を知っている人は、何があったのか心配をするほどだ。  先に名前の上がった橋本くんは高校で知り合った友達だが、その子も稜の痩せ具合を心配した。  司のことはもちろん言ってないので話すこともできないが、心配をしてくれる人がいると言うことは少しだけ嬉しい。  そんなある日、またひとしきり泣いた後バス停でぼーっと座っていると、顔を覗き込んでくる人がいた。 「稜くん?」  聡子だった。  司とよく行く喫茶店『モンクレール』の女将さんの聡子だ。 「あ…」  稜はやっと聡子に焦点を合わせ、 「こんばんは…」  と言った。  聡子はーこんばんはーと返したが、ちょっと尋常ではない様子に 「お店にくる?」  と言ってみると、稜は素直にうなづく。 「じゃあおいで」  と優しく稜を立たせると、ーこっちねーと背中を押して、道を促してくれた。  稜は1人になると、もうぼんやりとしかしていなくて、ずうっと司のことを考えている。  聡子が連れてきてくれたのは、喫茶店ではなくバーだった。 「夜はこっちのお店をやっているの」  と、店を開けて中へ入れてくれる。  中はカウンター席のみで、カウンターは5席中2席埋まっていた。  カウンターの中の人に声をかけて、聡子はカウンター脇のドアを開けて稜を入れてくれる。  どうやら事務所らしかった。  10畳ほどある部屋には、事務机と書斎机が置いてあり、向こうの壁際には応接セットが置かれてて、稜はそこへ通される。 「私は紅茶が好きでね、紅茶でいい?」  と聞かれたので、 「はい…ありがとうございます」  と応えた。  簡素な部屋だった。  特に絵が飾ってあるわけでもないし、言って仕舞えば色気のない部屋。 「どうぞ」  紅茶を持ってやってきた聡子は、よくよく見ると昼間あの喫茶店でみる顔とは別人のように綺麗で、きっちり化粧をして髪をアップにしている様は昼間見る『おばちゃん』と言う様子は想像できなかった。  稜は自分で『よく聡子さんだとわかったな…』と驚くほどだ。 「それでどうしたの。そんな痩せてしまって…何かあった?」  紅茶を一口飲んで、心配そうに顔を覗き込んでくる。 「あ…つか…棚橋さんが…」 「棚橋さん?うん。よく一緒に来てるわね」  そこまで言って、涙が溢れてしまった。  聡子はティッシュケースをとりに行き、テーブルに置く。 「棚橋さんがどうしたの?」 「事故で…大怪我を負って…命は…平気だけど目が覚めない…」  その言葉に聡子も驚いた。 「え、棚橋さんが?」  聡子の脳裏にも、いつもニコニコと優しそうな顔で入ってきて、コーヒーおねがい、と人懐こそうに言ってくる司が想起される。ミルクはいつもたっぷり用意してた。 「そうなのね…それで凌くん…」  ティッシュで涙を拭う稜を、本当に可哀想だと見つめる。 「私は…2人の関係を知ってるのよ」  聡子は2口目を口にして、そう言った。  稜の顔が上がり、聡子を見つめる。 「私もずっとお水畑の人間でね、そう言う人はたくさん見てきたし、棚橋さんもバイセクシャルだって私には話してくれてたの。そんな時に連れて来たのが稜くんでしょ?私思わず聞いちゃったのよね」  懐かしい日の話に、稜も少し顔が緩んだ。 「あなたあの子どうする気なの?ってね。最初は、青少年の性の悩みを聞いてあげるんだよなんて言ってたんだけど、何回か来てくれるうちに2人の関係性に私気づいちゃったのよ」  稜も紅茶をやっと口にした。暖かくて甘かった。 「そうしたら棚橋さん、臆面もなく『稜の事を今までにないくらい好きになった。大事にしたい』なんて言ってきて」  そう言ってコロコロと笑ったが、ーそんな棚橋さんがねえーとしんみりとため息をつく。 「何度もモンクレールに来てくれるのを見てて、関係性が進展してゆくのをみるのは楽しかったわ…高校に入ってから凌くんが爆発的に綺麗になったのよく覚えてる」  聡子は紫に近いピンク色の唇の口角をあげて稜をみる。 「あなたすごく綺麗になったもの…愛されていたわよね」  そう言われて司との日々が一気に頭に蘇り、ポロポロと涙が溢れ稜は声をあげて泣いた。 「聡子さん…ぼく…ぼくどうしたらいい…のか…」  考えてみたら、声をあげて泣いていなかった。  声を押し殺し、タオルを噛んだり布団に押し付けたり、声を出して泣いたらいけないと思った、 「うん…うん稜くん…今は泣いてればいいのよ。たくさん泣きなさい。いっぱい泣いて、いつ起きるかわからない棚橋さんを呼び続けなさい」 「さとこさん…ううう…うああん…」  目からこぼれ落ちる涙を気にせずに、稜は子供のように泣いた。 「司が…司がいないと…僕は…ううう…ううっ」 「稜くんをそんなにして寝てるなんて、だめな人よね。早く起こしてお説教してあげよ?」  聡子が隣に座って肩を引き寄せてくれた。 「聡子さんの服が〜汚れちゃうぅぅ」  泣きながらそういう稜に、聡子は笑って 「そんなこと気にしないで泣きなさい」  と頭を胸に抱きしめた。  柔らかい胸を感じて、いつもならそんなにいい気持ちはしないはずだが、今はそれが心地いい。優しさで満ちている。  稜は聡子に抱きついて大声で泣いた。  今まで司との関係を知ってる人がいなくて、話せなくてそれが苦しかったことに気づいた。  美奈子には話せないことも多いから… 「司は、僕の初恋で大恋愛でこの世で一番好きな人なんです」  胸に抱かれて顔が見えない分、素直に言える。 「そっか」  聡子は髪を撫でてくれた。 「いろんな事教わって…人としてもそうだし…勉強もサボらないようにちゃんと言ってくれたし…何より……」 「エッチなことも随分教わったみたいね」 「あは…」  本当に14歳からの自分は、司でできていると言っても過言ではないと思う。 「もう本当にエロい人ですよあの人。14の僕にすることじゃないことしてきたし」  一個一個思い出せる。 「そんな人に見えないけど、でもそれだけ稜くんに歯止めが効かなかったのね」  稜はこんな話をしているうちに、段々と思考が甦ってきた。  ふわふわした感覚が、徐々に無くなっていくのがわかる。  こうやって、人と話すと本当に感情が整理できるものなんだな…とまた学んだ。  そして、何だか忘れていたことに気付く。 「聡子さん」  稜は起き上がって、聡子をまっすぐにみた。 「司は死んでないんですよね。寝てるだけなんだ…」 「うん、そうね」 「だから悲観しなくたっていいんですよ…。明日しれっと起きるかもしれないんだし」  司との関係を知る人と話せたことが、稜の本来の落ち着きを取り戻させた。 「そうよ。また行って、声をかけてやんなさい。私も一度お見舞いに行かせてもらうわ」 「うん。司喜ぶよ」 「そしてあなたは食事をしなさいね。こんなに頬こけさせて…。明日棚橋さんが目覚ましたらびっくりしちゃうわよ」  稜の頬を撫でて、そこは心配そうに言ってくる。 「食べると吐いちゃって…」 「吐いてもね、1%くらいの栄養は残るの。食べないよりはマシなのよ」  そう言うものか…とは思うが… 「でもね、聡子さん。司の奥さんが作ってくれるお弁当は食べられるんだ。だってそれは司が普段食べていた食事だからね。そう思うと食べられたんだ」  この子は本当に棚橋さんでできちゃってるわね…とある意味同情を禁じ得ない。  こんな風にまでして、1人眠りこけてるなんて許せないわよ…棚橋さん…。 「棚橋さんの奥さんのお料理じゃないけど、少し食べていきなさい。今日サービスで出そうと思って作った野菜スープがあるのよ。それなら今のあなたのお腹にもきっと優しいわ」 「え…でも吐いちゃったら失礼…」 「それでもいいの、少しでも食べて」  聡子は一度部屋を出て行った。  ソファにポツンと座って、色々考えた。たった今は司のことを考えても涙が出ない。少しスッキリした気がした。  そう、司は死んではいない。そこに行けば息をして眠っている司に会える。  稜は晴れた思考で考えた。どうしたら司に、そして自分にとっていいことなのか。  そして一つの結論を、うっすらとだが固め始める。 「明日行って、司に話してこよう。これからの事とか僕の事とか」  言葉に出して宣言のようにして、朧げに固まり出した2人の結論を言う決意をした。 「お待たせ。熱いから気をつけてね」  スープカップに結構多めに盛られたスープ。それを稜は美味しそうだと思った。  一口飲んでも美味しかった。今までは何を食べても味がしなかったのに… 「美味しいです…すごく美味しい」  スプーンで掬ってふうふうしながらゆっくりと食べてゆく。 「食べられるだけでいいからね。食べたら少しゆっくりして、吐かないようならもう帰りなさいね。おうちの方心配するから」 ーはいーと応えて、稜はスープを掬った。 「聡子さん…」  スプーンを一旦止めて、稜は顔を上げて聡子と向き合う。 「うん、なあに?」 「もし知ってたら教えて欲しいことがあるんだけど…」  その後に続いた稜の言葉に聡子は驚きを隠し得なかったが、稜の目の本気度と今まで聞いた話を鑑みれば、聡子の力が及ぶことならしてあげたいと思ってしまった。  聡子はその場でどこかに連絡を入れ始め、稜は聡子の良い返事を聞いて、安心して再びスープを口にし始める。  野菜たっぷりのコンソメスープ。  今度聡子さんのスープ一緒に飲もうね、司。  いつだって司のことを考える、これは仕方ないことだ。  それはいつか落ち着くまで付き合おうとも決めた。  自室のベッドで色々考えた。  今自分ができることとか、やらなければいけないこと。  聡子のところで朧げに固まりかけていたことが、徐々に具体的になってきた。 『明日、司にちゃんと話そう。きっとわかってくれる』  目を瞑り、司とのことを考えた。  色っぽいことだけではなく、行った場所、見た景色思い出はいっぱいある。  これだけあれば、司が目を覚ますまで大丈夫。  稜はその日、久しぶりに深く寝入っていった。 

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