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僕はここにいるよ
平日の学校帰りだった。
司のマンションに、少し宿題でも…と思って寄った時、キッチンカウンターに置かれている固定電話が鳴り出した。
今までなかったことで、稜は戸惑う。電話の表示画面には『美奈子』の文字。
「女性…」
ここ数日司と連絡が取れず、急な海外出張でも入ったのかなと思ってはいたが、色々な感情が渦巻いていないと言えば嘘になる。
稜はなんとなくこの名前が、司の奥さんであるような気がした。
司と連絡が取れなくて、奥さんがここに電話をかけてくる…嫌な予感がして、稜は受話器を持ち上げる。
「はい…」
目の前には包帯で巻かれた足を釣られ、頭にも包帯、布団がかけられた体もテーブルのようなものが中に置かれているらしく四角く上げられており内臓を守っているように見えた。
目を引くのは顔の腫れ。右頬が赤黒く腫れ上がり、右の眼には分厚いガーゼが当てられていて、傍には心拍・呼吸数・酸素飽和度などを測るベッドサイドモニターが置かれていた。
それが電話で言われた病院の個室に来た全容だった。
そしてそれを装着されているのが…司だった。
稜はベッド脇に佇み、何が何だかわからないと言った顔で司を見つめている。
「1週間ほど前…交差点で信号無視をしてきた暴走車が横断歩道を渡っていた棚橋を跳ねたそうです。運ばれた時点から自発呼吸もできているんですが未だ昏睡状態で…」
稜の後ろでそう伝えてくれているのは、電話の主『美奈子』さんで病室に迎え入れてくれた時に、やはり妻だと名乗ってくれた。
声もかなり疲れていて、彼女もまた憔悴しきっている。
「稜さん にご連絡したくても、主人の携帯は壊れてしまっていたし、どうにもできなくていたんですが、思いついたのがあの部屋の電話でした。1週間も連絡できずにごめんなさい。何度もかけてましたが…タイミングが合わずに…。繋がってよかった…」
美奈子は淡々と話しているが、稜にはどうして自分のことを知っているのかが判らない。
が、今の稜にはそこまで頭が回らず、目の前の事実をただ見つめ、どうにか頭の中で整理する事に没頭するしかない。
「なんで…」
涙も出なくて、ただ目の前に事実がある。事実 を認めたくなくて立ち尽くすしかできなくて…そして稜はその場に崩れ落ちた。
目が覚めたのは、病院の処置室と言われている部屋だった。
点滴が左腕に刺されていて、一瞬なぜ自分がここに…と考えてそして思い至る…
「司!」
声を出して起き上がると、カーテンの向こうの看護師が顔を出しきた。
「目、覚めましたか?神経調節性失神と診断されましたので、少し安静になさっててくださいね。難しい名前ですが、立ちくらみのようなものですのでご安心ください」
そう言ってまたカーテンを閉めてしまったが、稜はそんなことしている暇はないと腕から針を引っこ抜き、ベッドを降りて司の元へ行こうと歩き出す。
「あ、ちょっとあなた!ダメですよ、また同じ事になるし少し安静に」
「僕のことはいいんだよ。司のところに行かないと!」
稜らしくなく看護師を振り払って、走り出した。
病棟ってどこだろう、司のいる個室はどこにあるんだろう…様々な患者さんや病院関係者がいる廊下を走って探していると、前から歩いてきていた1人の医者に
「はいストーーップ」
と、腰から抱えられ止められる。
「ちょっ!離して!離せってば」
止められた稜は暴れて、その医者の腕を離そうとムキになるが、ついには抱え上げられて、近くの長椅子に降ろされた。
「院内は走っちゃダメですヨ。急いでるなら連れて行くから、きちんと言ってみて下さい」
若いと言っても30ちょっと過ぎくらいの人だった。
「個室に入院してる、棚橋司さんのところに行きたいんです。その個室どこにありますか?」
言われて素直に聞いてみるが、返事を聞く前に追ってきた看護師が
「中川先生、ありがとうございます。その方お見舞いに来られて失神された方なんです。点滴引っこ抜いて脱走されたのでせめて点滴終わるまではとお伝えしたんですけど」
稜はバツが悪そうな顔をするが、身体はすぐにでも走り出したくて足を立とうと張ってはいる。
しかしそれは中川といわれた医師に止められている。そんな中も中川は稜の顔色等を見て
「失神っていうと、そんなに元気ならば反射ですかね。急ぎたい気持ちもあるだろうけど、取り敢えず点滴は終わらせないと。多分生食でしょ?」
と看護師に確認すると、看護師はうなづいた。
「離してっ、行かないと!行かないとだからっはなせっ」
中川医師は、少し強めに手首を握って稜の身体を止めているが、その手を剥がそうと稜は自分の手首にすら爪を立ててくる。
「失神の原因は?」
その手を気にしながらも看護師にそう問うと、看護師が中川の耳元で告げた。
「そうか…まあこんだけ元気なら大丈夫だと思うけど…また原因に会うんじゃなぁ」
中川はそう言って少し考えた。
そんな呑気なやりとりをジレジレと見ていた稜は
「そんなのいいから、行かせてほしい!病棟はどこですか」
と捲し立てる
中川医師はそんな稜の様子を見かねて、
「じゃあ、僕がこの子連れていきますよ。なんかあったらすぐに処置するんで」
その言葉に稜の動きが止まった。
そう言いながら稜の背中に片手を当て、まだ用心に手首を持ったままー立てる?ーと聞いてゆっくりと立たせた。
「先生の予定は大丈夫なんですか?」
「うん、さっき外来終わったとこでね。今日はもうなにもないから」
ーじゃあお願いしますーということで、稜は中川に預けられ司の病室へ向かう事になった。
1人で闇雲に走り回っても埒が開かないことはわかっているから、連れて行ってくれるなら…と稜は中川に従う。
中川は名前で病棟を調べて稜を部屋まで連れていってくれた。
手を離された稜は
「ありがとうございました」
と一礼して、それでもゆっくりとドアをスライドさせる。
しかし中川は病室へは入らずに、稜が中へ入ったのを確認すると外で待機するのかと思いきや、それきりどこかに行ってしまった。
あの剣幕だったら、きっと何かあるんだろうな…は察せられる。
中川は立ち入らないように去っていったのだろう。
今の稜に、中川の配慮が届いているかは判らないが、切羽詰まった稜に同情してくれたのは確かだった。
病室には美奈子がいて、心配そうに立ち上がる。
「大丈夫ですか…」
「はい…お見苦しいところをお見せしました…」
先ほどよりは幾分冷静になったようだが、司の姿を見ると胸が締め付けられ心臓が跳ね上がった。
「お話を…聞かせてもらってもいいですか…」
本当は聞きたくない…聞いたってどうにもならないのもわかってる。でも司がこうなった真実は知る権利はある…と思う。
「さっき話した通り…暴走車に撥ねられて…怪我は酷かったんですけど、自発呼吸はしているので命自体には関わらないと…先生はおっしゃいました。でも…」
美奈子は司を見た。
「目を覚さないんです…」
頬に涙が伝った。
「お医者さん は、原因がわからないと言っています。幸運にも脳に損傷はないんですが、目を覚ましません。1週間ずっとこうなんです…。先生曰く、明日にでも目覚めるかもしれないし、5年後かも…10年後かもしれないと…」
傍にあったティッシュを慌ててとって、美奈子は涙を拭う。
その話を聞いて稜も愕然と言葉を失い、司を見つめながら知らず涙を流していた。
司の声が頭に聞こえてくるような気がする。
でも目の前の司は、ピッピッと鳴る機械に生きている証明を預けているだけで、身動きもしない。
「僕のことは…なぜ…」
連絡がついてよかったと思う反面、なぜ美奈子が自分を知っているか…。さっきもちらりと思ったが判らなかった。
「しゅじ…棚橋が…事故に遭う前日にあなたのことを話してくれました。お聞きになっているかはわかりませんが。私たち夫婦はお互いに自由に生きていた夫婦です。子供はしっかりと夫婦として育てていましたが、それ以外はあまり干渉し合わない夫婦でした。それなのに急に私にあなたのことを話し始めて、そしてこれを…用意していました」
美奈子は稜が来たら渡そうと思ってたのか、少し大きめな茶封筒をベッドサイドの引き出しから出して手渡してきた。
「棚橋のカバンに入っていました。その話はその時に聞いていたのですが、私の関知するところでもないのもあって、あなたにお預けしようかと…」
受け取った茶封筒を開けてみると、中にはマンションの譲渡証明が入っていた。
思わず美奈子を見るが、
「ずっと…貴方とご一緒するつもりだったんでしょうね。25歳も…離れているから自分に何かあった時にあなたが困らないようにと…若いあなたに名義を変更しておいたと言っていました」
未成年なので後見人として司の名前が記してあったが、司に何かあった場合マンションの権利が稜に行くようになっていた。
「こんなことするから…」
稜の手から書類が落ちた
「こんなことしてるからこんな事になるんだよ!司!」
稜は司に歩み寄り、寝ている司を揺さぶった
「起きてよ!起きろ!目を覚まして僕を見ろ!マンションなんかいいんだよ!僕は困らないよ!あんたがいないのが一番困るんだ!わかってるくせに!」
美奈子は両手で顔を覆って泣き、稜も泣いていた。
「起きろよ…起きて…」
司の手を握り、頬擦りをする。
「手を握ってよ…こうやって強く掴んで…」
泣きながら手を握って、もう片方の手は頬を撫でていた。
美奈子は密かに部屋を出ている。
2人にしてあげたかった。
「こんなに腫れちゃって…いい男台無しだよ…」
痛々しいほどまでに腫れ上がった頬を、労りながら撫でて
「ねえ…起きてよ…」
と呼び続ける。
「司…起きて…またキスしよう。いっぱいしよう」
涙も拭わずに唇に触れて、うわごとのように司に話しかけた。
「司…」
司にかかっている布団に顔を埋めて稜は泣いた。
なんでこんなことに…なんで…涙は止まる事なく流れ、布団から司に浸透するように…流れつづける。
「司…つかさぁ…」
言葉なんか出てこない。いっぱい名前呼んで引き戻さなきゃ。
『ごめんな…』
司の声が聞こえた気がした。咄嗟に顔を見たが、変わらず無表情で眠っている。
「なに謝ってるんだよ…そんなこと言う間に目を覚ませ」
泣き笑いで額の髪を撫で上げた。
「どうしたらいいんだよ…僕は…もう司なしで生きて行ける気がしない…」
司の顔を見つめて、そんなことを呟くが、そう言っても司は動かない。
顔を撫でて、手を握って…稜はずっとここにいたかった。しかし反面、動かない司を見ているのも辛くて逃げ出したい気持ちもあって…複雑な感情が渦巻いている。
考えてみたら…自分には誰も周りにいなかった。司だけをみてきたから…こんな時に話せる人が1人もいなかった…
でも自分は大丈夫。1人でも乗り越えるし、司だって死んでしまったわけじゃない。気持ちが混沌としていた。
崩れそうな気持ちを、どこか自分で支えようとするのだろうがそれも何だか余計に感情を掻き混ぜてゆく。
稜はベッドサイドの椅子に座り、ずっと司の手を握り顔を見ていた。
なにか話しかけながら、時々髪を撫でたり頬を触ったりしてずうっとそばで顔を見続ける。
館内放送が、お見舞いの時間の終了を告げたが、そんなのは耳に入らない。
ずっとここにいて、ずっと手を握っていたい。
司が目を覚ました時に、一番最初に見るのは自分じゃなければ嫌だとさえ思う。
面会終了は午後7時。
15分経った頃、看護師が見回りに来てドアのところで美奈子と『もう少しいさせてあげることは…』『規則ですから』などと話した声が聞こえたが、そんなのは知らない。
ここにずっといる。早く目を覚まして。僕はここに居るから。
「すみません、面会時間終了です。また明日会いに来て差し上げてください」
看護師さんも優しく言ってくれるが、稜は
「ここに泊まらせてください。個室じゃないですか…ここにいたいんです」
と、駄々をこねるように言い募るが、看護師さんはご家族すら付き添えない規則になっている、と肩をそっと掴んで立たせようとするが、それをも振り払って司に縋る。
「ここにいたいここにいたいここにいたい」
布団に顔を埋めて、立ちあがろうともしない。
看護師はため息をついて、ー後15分だけですよー と言って、一旦部屋を出ていってくれた。
こんな様子をきっと、看護師の間で面白おかしく話されるだろうことはわかっていたが、それでもそばにいたい。
自分が起こしたい。
30分になって、今度は1人の男性がやって来た。丸いメガネをして、天然なのか充てたのかモジャモジャの髪の毛をしているちょっと丸い体型のお医者さん。
「面会時間は過ぎてますよ。一度帰りませんか…」
ベッドサイドでじっと司を見つめている稜に、それは優しく話しかけてくれた。
「棚橋さんね、眠っているようで脳は起きているんですよ。あなたがそうやって話しかけるのはとってもいいことなんです。きっと聞いてくれてるでしょう。でもね、脳だけで覚醒しているととても疲れるんです」
その医師の言葉に、稜は上半身を上げて医師を見上げた。手は離さないが。
「なのでね、夜は休ませてあげましょう。貴方が話しかけると棚橋さん、眠れませんからね。負担になってしまいます…」
もう一度司に視線を戻してみる。
気のせいではあるだろうが、最初に見た顔より穏やかに見える。
「また明日、お声をかけにいらしてあげてください。彼には聞こえてますから、沢山声をかけてあげましょう。それには貴方も眠らないと」
眠れる気はしなかったが、その医師の言葉に稜はようやく手を離した。
先ほどの看護師が、稜の様子を見てカウンセリングを行う心療内科の医師をよんだらしい。
強引に引き離すことも出来なくはないが、それでは可哀想だと思ったのだろう。
この医師は、見た目も優しそうだが多分、院内でもこういったときに頼りになる人なのだろう。
稜もその優しい言葉に、ほんの少し癒される。
その医師が気になって、稜は胸のプレートを見た。
そこには『小津絵』と書いてあり、内科だと書いてあった。
「お名前…なんて読むんですか…」
稜の口から、司以外の言葉が出た。
「私は『おづえ』と申します。私とお話ししてくださるなら、内科の中の神経科までいらしてくださいね。でも貴方には必要ないでしょう。お強い方ですから」
にこっと笑って肩を掴んでくれて、司が疲れてしまうなら休ませたいと稜は立ちあがる。
「うん、お強い。棚橋さんは、きっとまた明日待っていますから」
2人で司の顔を見て、稜は
「はい…」
とうなづいて、部屋のドアへ歩き出した。
部屋を出ると、美奈子がベンチから立ち上がってそばへと来てくれた。
「もう少し、お話がしたいんですが時間もありませんし、今のあなたでは私と話すのも辛いでしょうから…また…棚橋に会いに来てくださいね…棚橋が待っているのはあなただから」
言われなくたって来るよ、と思ったが、そんな言葉は口から出せなかった。
辛い思いは一緒だから。
美奈子は自分よりも長く司と暮らしてた人なんだし…
稜は小津絵と美奈子に礼をして、部屋を後にした。
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