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第1話

「綺麗な月ですねぇ、お前さん」  新歌舞伎・躍進座の女形、二代目銀杏白帆(いちょうしらほ)は、黒繻子(くろしゅす)を衿に掛け、家紋を白丸に抜いた薄納戸(うすなんど)色の着物を着て舞台の上にいる。 「こんな月が見えるなら、ここもそんなに捨てた場所じゃありませんよ」 道具方が造作した縁側に腰かけ、隣に座る立役(たちやく)をゆっくり団扇(うちわ)で扇ぎながら、遠くを見上げて切れ長な目を細めていた。 「あら、蛍。ねぇ見ました? こんな月夜にも蛍って飛ぶんですね。ほら、あっちにも! すうっと、音もなく飛んでいく……」 白帆が片手で袖を押さえながら、細長い指をすうっと横へ動かすと、それだけで客席には夏の夜の(とばり)が下りて、蛍の静かな光が飛び交い、草の青いいきれがむんむんとする。  二階席の一番後ろで左肩を壁に預け、腕を組んで芝居を観ている舟而(しゅうじ)まで、夏の夜の湿気が首に絡みつくような感覚に襲われる。 「大化けしやがって」  舟而は片頬を上げる。  白帆が舟而のもとへ転がり込んでから三年が経つ。白帆は数え十八歳になり、観る人が息を飲むほどの美しさと、演技の幅の広さを身に着けて、名前で客を呼べる看板役者の一人になっていた。  舟而も新聞連載した小説『芍薬幻談(しゃくやくげんだん)』を始め、新歌舞伎の脚本『夢灯籠(ゆめどうろう)』、『人魚姫泡沫恋歌(にんぎょひめうたかたのれんか)』など、幻想的な世界を借りて人間のなまの姿を写す作品に定評がつき、今ではその特徴を持つ作品は『幻談もの』と一括りに呼ばれるまでになっている。  さらに最近では、舟而の作品を求める人を指して『幻談中毒』という言葉まで生まれていて、舟而もまた名前で客を呼べる脚本家、小説家になっていた。  チョン、と()が鳴って、始めは間遠に、次第に早く調子を上げて柝が鳴らされると、客席からは大きな拍手と屋号を呼ばう声が飛び、幕が閉まり始めるにつれて段々に柝の音は間遠になって、幕が閉まるのと同時に音が止んで幕切(まくぎれ)となった。 「僕は『幻談中毒』で駄目なんだ。分かっていても騙されて、幕切にぼんやりしちまう」 「僕なんか、『幻談中毒』に加えて、白帆中毒だもの、重症だよ」  白帆が磨いてくれた革靴の先を見ながら、客席で話される声を耳で拾っていたら、不意に話し掛けられた。 「渡辺舟而先生ですか」 「あ、はい」 うっかり返事をしたのがよくなかった。  気づいたときにはどこから湧いて来たのか、矢羽根の女学生から、黒い羽織を着た年増まで、多くの女性に押し迫られて、舟而は壁を背に爪先立ちをする羽目になった。 「今日の脚本もよかったですわ」 「噂通り、本当に色男でらっしゃるのね」 「『日本之中学生』に連載されている小説も、弟から借りて読んでいますの」 等々、女たちは口々に何かを言うが、誰も彼も甲高い声でかまびすしく、舟而の耳は上手く聞き分けられなくて、やたら耳鳴りがする。  舟而に向けて口をぱくぱく開くさまは、さながら池の鯉が餌を求めて陸に半身を乗り上げてくるようにも見えて、少々恐怖心を伴う。 「ありがとうございます、この後もお楽しみください」 舟而は薫風吹き抜ける笑顔で挨拶し、女性たちが頬を染め、小さく唇を開けた隙をついて逃げ出した。 「白帆、ご苦労さん」  『銀杏白帆丈江(いちょうしらほじょうへ) 贔屓寄利(ひいきより)』という文字と、鶴の広げた羽が銀杏の形をした銀杏鶴紋が白く染め抜かれた楽屋暖簾をくぐると、既に白帆はかつらを外し、地毛を押さえる羽二重も外して、化粧を施した顔にコールドクリームを塗りたくっていた。 「あら、先生。ご苦労様です」 鏡越しに切れ長な目を細めて見せる。  舟而は楽屋の隅に、白帆が専用として置いてくれている座布団へ胡座をかいた。  化粧を落として着替える間にも、ありがとござんした、こんちは、お先に、ご苦労さんと、いろんな人が声を掛けて来て、白帆は声だけだったり、身体の向きを変えたりしながら対応する。 「白帆兄さん、ありがとうございました」  声変わりで掠れた声をした少年が銀杏鶴紋様の浴衣姿で挨拶にやってくると、白帆は身体ごと向き直って切れ長の目を細めた。 「はい、ご苦労さま。目線、とてもよくなってた。ただ、今度は手の振りが気が抜けちゃったね」 白帆が笑い掛けると、少年は膝の前に手をついたまま、気まずそうに俯いた。 「ふふふ。曲に合わせようとして慌てちまったかしらん?」 少年は顔を真っ赤にして頷く。 「目線も、形も、何もかも全部気をつけながら曲に合わせるのは難しいけど、明日から落ち着いてできるようになりましょう」 「は、はい」 「ちょっと一緒にやってみましょうか」 少年が楽屋の真ん中へ招じ入れられて、袖を持って立つところから、白帆は口三味線をつけ、手の振りを付き合ってやった。 「親指を内側にして、中指の先まで気を付けて。……そう、チン、トン、チン、トン、シャン、シャン、シャン。そう、できましたね。その調子で明日も頑張りましょ」 さっと袂を払い、少年は三つ指をついた。 「ありがとうございました」 「はい、ご苦労様。また明日ね」 微笑む白帆の顔を見て少年は小さく口を開けてぼんやりし、白帆が小さく首をかしげたのをきっかけに我に返って、畳に額が触れるほど深くお辞儀をして、そのまま顔を上げずに後ろへ向いて楽屋から駆け出て行った。  今度は「ご苦労さん」と声を掛けて来た立役を追って白帆が楽屋から駆け出る。 「あ、兄さん、ご相談が! 二場(にば)板付(いたつき)なんですけどね、もうちっと寄り添ったらどうかと思うんですよ。肩に手を添えたらしつっこいでしょうか」  立役と廊下で実際に小さな身振りと台詞で試してみて、白帆は立役の肩に頭を寄せて胸のあたりへ手を置くと決めて「また明日」と別れ、頭を乗せる角度など考え考え楽屋へ戻ってくる。  化粧を落として真珠のように深い場所から艶めく肌が露わになると、口の中で台詞や清元を小さく紡ぎながら、矢鱈縞(やたらじま)の紬の着物に着替え、竹を編んだかごを持ち、足袋を履いた足を繁柾(しげまさ)の下駄に滑り込ませた。 「先生、お待たせ致しました」 「あいよ」 舟而も白帆に向きを直して揃えてもらった革靴へ足を滑り込ませた。

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