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第2話

 躍進座の前には、舞台の定式幕(じょうしきまく)と同じ、黒・萌葱(もえぎ)色・柿色の三色を縦に並べたのへ、役者の名前を大きく書いた(のぼり)がずらりと並ぶ。  白帆(しらほ)舟而(しゅうじ)と共に楽屋口から出ると、『二代目 銀杏白帆』と書かれた幟の下をすたすたと歩く。  向かい側の映画館は演目を書いた幟と、その一場面を描いた看板絵が掲げられ、隣の寄席の前では法被(はっぴ)姿の男が威勢よく客を呼ばう。  道行く男性は洋装も和装もカンカン帽を被り、単衣の着物を着た婦人は日傘をかたげ、袴姿の女学生は肩をぶつけあって笑い合いながら、右へ左へ小屋の演目や番組を見て歩く。  白帆とすれ違う人は必ず何かを感じて振り返るが、化粧を落として、(つむぎ)の着物を着て、買い物かごを片手に、足に馴染んだ繁柾(しげまさ)の下駄で歩く姿に、あの二代目銀杏白帆とは確信が持てないまま、その後姿を見送って、狐に摘ままれたような顔をして首を傾げ、再び前を向いて歩き始める。  二人は混雑する浅草の街を抜け、吾妻橋を渡る。  橋の中程まで行くと白帆は足を止め、隅田川を吹き渡る初夏の風に黒髪をさらりと揺らした。 「はあっ、風が気持ちいいですね」 「川の上には遮るものが何もないからな」  足を止めて振り返る浅草には、通称十二階と呼ばれる、鉛筆のように先端が尖った八角形の煉瓦造りの塔があり、橋の下を流れる隅田川では、風をはらんだ帆掛け舟が荷を運び、蒸気船がぽんぽん音を立てて人を運んでいる。  白帆は景色を見渡し、風に吹かれた黒髪を小指の先で頬から剥がす。舟而はその姿に目を留めた。  向かい風に細められる切れ長な目、目尻へ行くほど長い睫毛の影、黒髪の先が触れた赤い唇、僅かに首を傾げて髪を剥がす小指。 それらは白百合の雌蘂(めしべ)を連想させる。 清げなふりで甘く誘う香りと、知らず指を伸ばしたくなる透明で粘度を持った湿り気。  白帆の姿に、舟而は喉の渇きを癒すように唾を飲んだ。 「……か、先生?」  舟而は肩を震わせ、背筋を伸ばした。 「あ、ああ。ごめん、聞いていなかった」  白帆は赤い唇でふふふと笑って言葉を繰り返す。 「今日のお夕飯、何がいいですか?」 「ああ。白帆が作ってくれるものなら、何でも馳走だ。任せるよ」 弓形に目を細めると、白帆はまた赤い唇でふふふと笑った。 「もう、先生ったらいつもそうおっしゃるんだから! さ、八百屋のおかみさんに聞きに行きましょ!」  白帆は笑って、舟而の背中を両手でぐいぐいと押す。  舟而は軽く頭を振ってから、白帆に押されるまま橋を渡り切り、本所区(ほんじょく)へ足を踏み入れた。  白帆は八百屋の前で足を止めると人懐っこく挨拶する。 「おかみさん、こんちは! 今日はどうしようかしらん」 新鮮な野菜がずらりと並ぶのを、頬に揃えた指先をあてて白帆は小さく首をかしげる。 「いい冬瓜(とうがん)が入ってるよ。葛がけはどうだい。仕上げに茗荷(みょうが)を入れるとさっぱりして美味しいよ。残りは次の日に短冊に切って塩で揉んで三杯酢か胡麻酢もいい。先生と白帆ちゃんの二人じゃ食べ切んないようなら、半分にしたげようか」 子供の頭を可愛がるように深緑色の冬瓜を叩いて見せられ、白帆は切れ長な目を細めた。 「じゃあ、冬瓜半分と茗荷をくださいな。……先生、今夜は冬瓜の葛がけにしますね」 振り返って舟而を見る白帆に、舟而は目を弓形に細めて頷く。 「ああ、楽しみにしてるよ」 冬瓜と茗荷を買い、舟而は重くなった買い物かごを預かって、今度は肉屋へ行く。 「こんちは、おじさん! 豚肉(とんにく)(きん)くださいな」 「あいよ。白帆ちゃんは今日も別嬪(べっぴん)だね、おまけしとくよ。八〇銭ね」 「ありがと!」  白帆は舟而の藍色のがま口から慣れた手つきで銅貨を渡し、経木(きょうぎ)に包まれた肉を受け取った。 「日本広しと言えども、芝居小屋から買い物かごを提げて出る役者なんて、白帆くらいなものだろうな」 買い物かごを担いだ舟而が弓形に目を細めると、白帆も切れ長な目を細めて笑った。 「ふふふ。毎日浅草でご馳走を食べるなんて暮らしは、私には合わなくって」  帰宅するなり、白帆は幅の狭い前掛けを締め、左肩から斜めに片襷(かただすき)をして右の袖だけを軽く押さえて、夕飯の支度に取り掛かる。 「そう言えば、お前さんは割烹着を着ないね」  舟而は土間と廊下の段差に腰かけ、組んだ足の膝を両手で抱えて、夕陽に真珠色の頬を光らせる白帆に話し掛ける。 「冬の雀みたよに膨らんで身体に沿わない感じが、どうにも落ち着かないんですよ」 白帆は包丁を手に冬瓜の翡翠色を見たまま微笑んだ。 「一本気な性質は、そんなところまで出るのかね」 「どうなんでしょ。三つ子の魂百までなんて言いますし、身に染みてるかも知れませんね」  刃が触れるより先に食材が二つに割れるような鮮やかな包丁捌きで冬瓜を小さくして、煮出汁へ入れ、文火(とろび)でくつくつと煮込む。 「美味そうだ」 「豚肉の醤油漬けも、冬瓜の葛がけも、じき出来ますからね」 舟而は立ち上がると、白帆の背後に立ち、腰に手を回して、肩に顎を載せる。 「白帆はいつ出来上がる?」 耳に唇を触れさせながら、白帆に問うた。 「ふふ。夜更けでございます。先生に(りょう)って頂かなけりゃ、ね」  白帆は頬を赤らめて笑い、舟而はその赤い頬へ接吻する。 「今すぐに食べたい」 白帆の首筋に頬をくっつけながら、白帆が刻んだ茗荷を入れ、葛粉を水に溶いて流し込んで、焼麩を入れて、瓦斯(ガス)の火を止めるのを待ってから、舟而は白帆の胸の合わせ目へ右手を差し込んだ。

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