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第8話

 上野松木町、寛永寺近くの銀杏家の隣に白帆が新築した家は、流行の「文化住宅」と呼ばれる和洋折衷の住宅だ。 六角形を縦半分に割ったような形の張り出しを持つ洋館を、玄関脇に組み込んだような造りになっている。  間取りも流行の(なか)廊下で、玄関と台所をつなぐ東西の廊下を中心に、北側と南側の両方へ部屋を置く。  白帆は南側へ居間と次の間、洋間の応接室を置き、北側に水道管節約のため、台所や洗面、内風呂の水回りをまとめた。 そして、台所の向こうに女中部屋、水回りの手前に茶の間と内玄関、そのさらに手前に季節や時間に影響されない安定した光量を望む舟而の書斎を配した。 寝間は書斎脇の階段を上がった先の二階に設けている。 「それにしても、たったのひと月で家を建てるかね」 廊下との段差がない板の間の新しい台所で、舟而は新しく置いた丸椅子に腰掛けて、組んだ脚の膝を両手で抱えながら苦笑する。  土地は舟而が購入し、建物は白帆が采配したのだが、白帆は子供の頃から地道に積み上げてきた貯金を惜しみなく使い、職人を多く雇って工期を大幅に短縮させた。 「だって、一刻も早く銀杏の家を出て、先生と二人きりになりたかったんですもの」  力強い夏の光が、大きく取った天窓の磨り硝子を通って柔らかく降り注ぐ中、白帆は西瓜を切り分けながら、いたずらっぽく肩を竦めて笑う。 「嬉しいことを言ってくれるね」  切った西瓜を縁側に持ち出すと、梅雨明けを待ち望んでいた蝉たちが力強く羽を震わせる音に包まれる。 二人は盥に張った水に足を浸け、身を乗り出して西瓜を食べた。 法律で許される目一杯まで高く築いた塀の内側で、甘い汁に濡れた唇を触れ合わせ、白帆は切れ長な目を細める。 「先生、この家は気に入っていただけましたか」 「もちろん。遠慮なく住みつかせてもらうよ」 二人が目を細め、もう一度西瓜の味がする唇を重ねようとしたとき、勝手口から声がした。 「お嬢様ぁ、コロッケをたんと作ったんでお裾分けですぅ!」  宣言通り、塀を高く築いたとはいえ、家には出入口が必要で、新居にも玄関、内玄関、勝手口の三つの出入口がある。 「白帆。到来物の生卵だよ! 身体にいいから飲みなさい!」 「白帆ちゃーん、バニシングクリーム買って来たから、お風呂上りに使いなさい!」 「お嬢様、白瓜の印籠漬です。いえいえ、いいんです、いいんですよ、たんと漬けましたから。先生と召し上がってください」 「お掃除を手伝わせていただきます。お嬢はどうぞそのままで。また倒れるといけませんからね。お勝手させていただきますよ」 「今日は洗濯日和ですね。はい、ちょいと(たらい)を拝借」  銀杏家の人々が白昼堂々、正当な用事を持って入って来るのを防ぐ訳にはいかない。  しかし、白帆が何の後遺症もなく、しかも早期に快復できたのは、何より銀杏家の人々の暑苦しい愛情と手厚い世話によるものだ。 さすがの白帆お嬢様も多少は飲み込むようになっていた。 「ありがとね、とても助かる」 「あああ、そんなお礼なんていいんですよ! お嬢様が舞台の上で、お客さん達を喜ばしてくれたら、それでいいんです!」  人の手を借りるようになって、白帆の負担は軽減し、演じる役についての勉強や稽古に割ける時間も、読書をしたり、舟而と語り合う時間も増やすことができた。  壁に本棚を作りつけた書斎の窓際で、白帆は膝の上に哲学書の定番『善の研究』を広げてい、舟而は執筆に励んでいたが、半時も過ぎると原稿用紙のマス目を埋めるのに飽きて、白帆へ話し掛けた。 「小説も、芝居も、腹が膨れるものではないのに、どうしてこんなにも僕たちは真面目に続けているんだろうな」 「さよ(左様)ですね。でも、この世だって地獄ですから、一刻の憂さ晴らしはございませんと」 「なるほど僕たちはその憂さ晴らしに、躍起になっているということだな」 白帆は深く頷いた。 「いい仕事だと思います。辛くて苦しいことの方が多い毎日を、少しでも楽しくするお手伝いができるんですから」 「そういうお前さんは、どうやって憂さ晴らしをしているんだい? 芝居を観たって、自分の芸が気になるだろう?」 「芝居を観るのは、どうしてもお勉強として拝見する心持ちになっちまいますね。でも、先生がいらっしゃいますから大丈夫です」 「僕が憂さ晴らしなのかい?」 「ええ」  白帆は切れ長な目の端をほんのり赤く染め、その目の端で舟而を見て、そっと細める。その意味は舟而に伝わって、舟而も悪い気はせず、目を弓形に細めた。 「はい、ちょいと失礼致しますよ」 襖は簡単に開けられて、窓も開けられ、両襷をした門人がぱたぱたとはたきを使い始める。 「お嬢様、難しい本を読んでいらっしゃいますね」 「先生に教わりながら読んでいるんだよ」 「へえ。先生に教わったら、読めるようになるものなんですか」 白帆の膝の上にある本へ顔を近づけ、臭い物でも嗅いだような顔をして首を左右に振る。 「そんな顔をしなくても、読みたいと思えば、誰だって少しの助けで読めるようになるよ」 舟而が笑いながら声を掛けた。門人はゆっくり首を左右に振った。 「まずは難しい本を読みたいって思うところから始めなけりゃなりませんね。もうそれが難しいや!」 舟而と白帆に背を向けて、鴨居をはたきでぶっ叩く。 「そうかい。あなたは読書に興味がありそうに見えるけど。僕にできることならいつでも助けるよ」 「あっしは小学校もろくに出てませんで、こんな漢字なんて読めませんや」 本棚に並ぶ背表紙に向かってはたきを動かす。 「結構じゃないか。平仮名と片仮名が読めるなら、本の半分以上は読める計算だ。僕が読み仮名を振ってあげるから、読んでごらんよ」 すると舟而の顔を見て、それから俯き、小さな声で言った。 「先生の『芍薬幻談』が読んでみたいんです。皆が、面白い、面白いって。たまに読んで聞かせてもらうんですけど、話が長いから、全部は読んでもらえなくって」 「それなら、喜んで読み仮名をつけるよ」  舟而は早速、本棚から『芍薬幻談』を取り出して、鉛筆を片手に読み仮名を書き込み始めた。 「本当に読み仮名を書いて下すってるんですか」 「まあね。僕の話を読みたいって言ってくれているんだもの。そのくらい造作もないさ」  門人は羽根箒で机の上払いつつ、作業する舟而の手元を様々な角度から覗き込む。 「夕方までには持って行くよ」 「楽しみだなあ!」 門人は長唄を歌いながら掃除に精を出し、書斎の中を清めると、部屋を出て行きしなに振り返った。 「ところで話は変わるんですがね、先生。日本刀を扱うご趣味がおありなんですか。二階の寝間に置いてある香油、刀の手入れに使うものでございましょう?」 舟而は弓形の目を細める。 「うん、まあ、大太刀なんてものじゃない、合口(あいくち)くらいなものだけどね」  白帆は頬を赤くして目を逸らし、窓の外に咲く向日葵の花を見た。

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