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第10話

 舟而は音が鳴り始めるのと競争するように目覚ましを止め、細心の注意を払って身体を起こす。  すぐ隣に寝ている白帆は、出会った頃より大人びた顔立ちになったが、汗ばんだ頬に黒髪を貼り付け、薄く唇を開けた寝顔のあどけなさは変わらない。 「可愛い奴め」  舟而は片頬を上げると手を伸ばし、頬に張り付いた髪を指先でそっと剥がしてやった。 「さて、渡辺舟而たるもの、白帆を疲れさせた責任の一つもとろうではないか」  布団からそっと抜け出て、洗面を済ませ、身なりを整えると、割烹着へ袖を通した。  白帆が使いやすいように図面を引いた台所に立ち、ボウルの中へ米を一升量って流しへ運ぶと、水道の水を一気に注いで捨ててから、改めて水を入れ、手のひらを押し付けて米を研ぐ。  銀杏家の人々が群がって教えてくれて、瓦斯(ガス)炊飯器の使い方を身につけてからは、舟而でも失敗なく米が炊けるようになった。  さらには前の晩から鍋に張った水へ、頭とはらわたを取り除いた煮干を入れ、一晩置いて出汁をとるという方法も教わって、味噌汁まで作れるようになった。 「ちか子先生を非難するつもりは無いが、あんな不親切な本を読むより、直接教わるほうが身につくのは早いな。味噌の分量だって、このくらいと目に見えて教わることができるんだから。百聞は一見にしかずだ」 首を振り振り、舟而は(しじみ)が口を開けた汁の中へ、味噌を溶き入れた。 「ふむ。僕はなかなか飲み込みのいい性質のようだ」  味見をして満足していたら、勝手口の扉が叩かれた。  開けると、長兄が経木の包みを差し出してくれる。 「おはよう、先生。豆腐屋へ行ってきたから、ついでに油揚げのお裾分け」 「ありがとうございます」 「白帆は元気にしてる?」 「はい。そろそろ起きてくる頃だと思いますけど」 舟而が廊下の方を見遣るのを、手を振って押し止める。 「いいよ、いいよ。寝かしといてやって。今月も面白いお役をもらって楽しそうにしてるの、ちゃんと観てるから」 「観て頂いたんですか、ありがとうございます」 「白帆には内緒にしとくれ、また怒られる」 夏の朝の光に目を眇めながら笑い、長兄は片手を挙げて帰って行った。 「銀杏座の看板役者はひと睨みで家が建つって言うけど、本当かも知れないな」  油揚げも焼けるようになった舟而は、ちゃんと湯を沸かして、笊に並べた油揚げの上へ熱湯をまわしかけてから、焼き網の上に油揚げを置く。 「おはようございます、先生」 「ああ、おはよう白帆。よく眠れたかい」 襟元を固く合わせた白帆が台所へ顔を出したときには、焼いた油揚げに刻んだ茗荷まで添えられていた。  八月は大御所の役者が軒並み夏休みで、若手にとっては日頃手の届かない大役を演じたり、あるいは意欲的な作品を上演したりする絶好の機会となる。  白帆もこの八月が楽しみで、若手仲間と何か月も前から話し合っていた。 「世話物の喜劇なんてやってみたいね」 「白帆ちゃんの好きな『身替座禅(みがわりざぜん)』をやるかい?」 「あれは前にやったもの、それよりもっと意味の深い、泣き笑いできる喜劇がいい」 「どこにそんな脚本があるんだい?」 「えーっと……」 白帆は目の端で伺うように舟而を見る。舟而は目を弓形に細め、素直に肩の高さに両手を上げた。 「いいよ、書いてやろう。躍進座だから大負けに負けておくよ」 「わーい!」 胸の前でぱちんと手を合わせて白帆は笑う。 「僕もたまには思い切った喜劇を書いてみたい。八月の舞台に掛けるならちょうどいい」  外題(げだい)は『紅屋夏夜騒(べにやなつのよのゆめ)』で、主役は白帆扮する若い女の幽霊。化粧が好きで、紅屋の若い番頭の枕元に夜な夜な現れる。  幽霊は白い顔へ白粉(おしろい)を塗り、さらに鼻筋を高く見せようと、鼻の上へこてこてと刷毛を動かし、番頭は幽霊の顔を覗き込んだ。 「お前さん、もともと白い顔だのに、白粉なんか塗ってどうするんだい?」 「生きてた頃はりんごみたよな真っ赤な頬で、野暮ったくて、大層嫌だったんですよ。死んでようやく白い顔になったんです。嬉しくって! お化粧のしがいもあるってもんですよ」 「そりゃ、血が通ってないんだもの、白くもなるだろうけどさ。そんなに白粉を塗りたくったら、幽霊の上塗りだよ。少しは紅も差しなさい。……いやいや、そんな塗り方をしたら、折角死んだのにりんごのほっぺに逆戻りだろう」  世話を焼いてやるうちに、若い番頭は夜が待ち遠しくなる。  幽霊も、まだ人が寝静まる前から紅屋の中をうろつき始め、隠そうとする番頭と、出ようとする幽霊のバッタン、バタバタ、天井から出ては壁に消え、すっぽんから現れ、背中に隠れ、仏壇から顔を出す。  あまりのケレン味たっぷりな脚本に幽霊も黒子も移動が追いつかず、壁を背に後へ倒れ込むようにして消えるつもりが取り残されて、お淑やかなはずの幽霊が、つま先を外に向けて歩き、大道具の裏をのぞき込み、 「ちょいとあんた、しっかりやんなさいよ。嫁さんもらったばかりだからって、浮かれるんじゃないよ。しっかりおし、しっかり!」 声変わりした男の声でどやす。  女と男、幽霊と白帆、舞台の表と舞台の裏、様々な虚と現実が入り乱れ、気付けば舟而の思惑通り、幻の世界に入り込んで、観客たちは幽霊の身の上話に袖を濡らす。 「行かないでくれ! 俺も幽霊になる! 今すぐ死んで幽霊になるから、一緒に連れて行ってくれ!」 「何を言ってるんですか、番頭さん。紅屋の稼ぎ時は一年中ですけど、幽霊の稼ぎ時は夏の夜だけ。ちっとも儲かりませんよ、お止しなさい」 幽霊はお守り袋を番頭に渡し、井戸の中へ消えて行く。  番頭は幽霊にあれこれ化粧法を教えたことで腕が上がり、顧客の要望に細やかに応えられるようになって、店はますます繁盛したのだった。 「おおい! いつか、また、お前に紅を差してやるからなあ!」  幽霊はその言葉を物陰で聞き、すうっと姿を消した。

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