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第11話

「結局、渡辺舟而の脚本にはやられるんだ」 「若手ばかりの芝居でも、ああも白帆に出てこられちゃおしまいだよ」 拍手喝采、笑い声も泣き声も芝居小屋に充満する。  舟而は二階席の一番後ろで腕を組み、左肩を壁に預けたいつもの姿勢で声を拾うと、そっと客席を出た。 「ヤア、これは、これは、舟而君じゃないか。元気かい」  桑色の麻の着物を着流しにした五〇絡みの男性が、舟而に向かってステッキを上げて合図する。 「森多(もりた)先生!」  舟而は大股で駆け寄って、肩の力を抜いたあどけない笑顔を見せた。 「ご活躍だね。なかなかいいホンだった」 「恐れ入ります。先生の作品も折々拝見しております。ご挨拶は遠慮してしまって、申し訳ありません」 「いやいや、きみは筆まめに感想を書いて送ってくれるじゃないか。私こそ筆不精で返事も書かずに悪いね」 「とんでもない。ますますお元気でご活躍の由、何よりです」 「上野山の松木町へ引っ越したって? ご出世だな」 いきなり高級住宅地へ引っ越した舟而を明るく呵々(かか)とばかり笑うのに、舟而も一緒になって笑った。 「はい。縁あって銀杏座の若旦那から相場より安く土地を譲っていただきまして、銀杏家の隣に住んでおります」 「なるほど、あの住所は寛永寺の辺りになるのか」 「ええ」  そこへ突然、森多の腕に若竹色の駒絽(こまろ)に枝垂れ柳を染め抜いた着物姿の女の手が絡んだ。 「森多先生、みーつけた。さ、参りましょ」  反対側の腕には、カルピスの包装紙のようなワンピースを着た耳隠しの女のふっくらした腕が絡む。 「もっともっと森多先生のお話を伺いたいわ。ね、カフェーへ行きましょうよ」 森多に群がる女は舟而が数えただけでも五人はいた。 「舟而君も一緒にカフェーへ行こうじゃないか」 「申し訳ありません、僕は楽屋を見舞わないと」 「そうかい。ぼくはカフェープラタナスにいるから、あとからでも来給えよ。躍進座の役者も連れてさ」 「のちほど伺います」  森多は両腕に女をぶら下げながら去っていった。  銀杏鶴紋の楽屋暖簾をくぐると、すぐに白帆が声を掛けてくれる。 「先生、ご苦労様です」 「今、脚本家の森多孝弥先生に会ったよ」 「まあ、森多孝弥先生が。よござんしたね」 白帆が向かう鏡台の鏡に自分の顔を映しながら話すと、白帆は鏡越しに目玉だけ舟而へ向けた。髪を上げて目だけを動かすと、大きな瞳を持っていることがわかる。 「うん、それであとでカフェープラタナスへ来いって。白帆も一緒に行かないか」 「よろしいんですか、私なんかまで」 「躍進座の役者も連れて、と」 「まあ嬉しい。先生の恩師にお会いできるなんて楽しみです」 白帆は鏡越しに目を細めて見せた。  白帆は大急ぎで風呂まで入ってさっぱりし、麻の襦袢に陽炎のように薄く透けた紺青色の紗の長着と羽織を合わせると、急に清げな青年の姿になるから、舟而はうっとのぼせてしまう。 「先生、参りましょ」 「あ、ああ」 隣を歩く白帆の、丁寧に剃刀があてられ、糠袋で磨かれている白いうなじが、舟而の目の端に入って仕方がなかった。  カフェープラタナスの一番奥のテーブルに、森多はいた。白いエプロンをつけた女給よりも華やかで、賑やかな女たちに囲まれていて、女給たちの出番はなさそうだ。 「こちら、躍進座の銀杏白帆丈です」 「やあ、おきゃんな幽霊チャンだね。いや、よかったよ。舞台いっぱい飛び回って、思い切ってたね」 「ありがとうございます」 「こうやって近くで見ると、一層迫力があるね。毎日怠ることなく芸を磨いていると分かる」 「恐れ入ります」 「決めましたよ、ぼくはあなたに惚れた。脚本家を惚れさせるのは、役者の大切な才能の一つだ。今度、機会があったら白帆丈で一本書かせてもらおう」 白帆は舟而を見て、舟而が頷くと笑顔になった。 「ありがとうございます。楽しみです」 森多は、舟而と白帆の小さなやりとりを見、白帆の答えにくしゃっと目を細めて見せた。  煙草を取り出すと咥えてテーブルに頬杖をつき、隣にいた女がその先に火をつけるの吸って、煙を吐き出すと同時に話し始めた。 「ぼくと舟而君とはね、彼が中学生の頃、当時私が主催していた同人に小説を送ってくれたのがきっかけで、そこからの付き合いなんだ」 タバコの先を赤くして、ふうっと紫煙を吐くとまた目を細める。 「驚いたねぇ、中学生だからこそ向う見ずに書けるのか、それともすべてを分かった上で書いている早熟なのか、すぐには判断できなかった」 「さよでしたか」 「ご実家まで会いに行ったら、大きな病院のご子息で、この辺で見かける中学生よりも、ずっと洗練された身なりをしてるんだ」  森多が白帆や取り巻きの女たちに話して聞かせる昔話を、舟而は苦笑しながら聞いて、小さく首を左右に振っている。 「先生、僕は野暮天です」 「この色男が野暮天はないだろう。なあ、そう思わないか?」 取り巻きの女たちは明るく笑って、口々に感想を言う。 「破滅型に見えますわ。ちょっと危険な香りがする」 「一緒に死んでくれって耳元で囁かれたら、情死してしまいそう」 はきはき話すのにどこか香水のような余韻を引きずる声で、女たちは口々に言う。 「そんなふうに見えますか? 参ったな。これでも地に足をつけて、日々文学に取り組んで暮らしているんですが」 舟而は人差し指で頬を掻いた。 「随分落ち着いたものだな。昔は毎朝違う女の隣で目を覚まして、シャツのボタンも自分ではとめず、足袋も靴下も自分では履かなかったのに」 背中につうっと冷たい汗が流れるのを感じながら、舟而は笑顔を作る。 「寮や下宿にもちゃんと帰っていましたよ」 「その下宿に包丁を持った女が何人も押し掛けてきて、誰と一緒に死んでくれるのかと騒がれ、挙句に下宿を追い出されて、しばらくぼくのところで寝起きしていたじゃないか」 「さあ、どうでしたか……。何分、昔のことですので」 隣に座る白帆から冷気が漂ってくるのを感じつつ、舟而は頑張って苦笑した。  その後は、互いの仕事の話、同人で一緒だった人たちの消息、小説とは何か、脚本で描くべき人の姿とは、など真面目な話も存分にしたのだが、白帆から漂ってくる冷気が収まることはなかった。 「では、そろそろ」 「自宅も近くなったし、遊びに来給えよ。白帆丈もぜひ一緒に」 カフェーを出て一町ほど黙って歩いてから、舟而はそっと白帆の横顔を見た。 「ええと、白帆さん……?」 「先生、私は今、とってもアイスクリームが食べたいですっ」 「いただきますっ!!!」  硝子の器に盛りつけられたアイスクリームの真ん中に銀の匙を突き立て、いきなり半分ほども削り取ると、大きく開けた口の中へいっぺんに押し込んだ。 「白帆さん、頬張りすぎでは……」 舟而は口の端の溶けたアイスクリームを指で掬い取って、自分の舌で舐めたが、白帆は舟而を無視した。  白帆は腹を空かせた仔猫のようにがつがつとアイスクリームを食べ、口の中のアイスクリームを飲み込むと、女給を呼び止めた。 「アイスクリームください! 三つ!」

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