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第32話(最終話)

 抽斗の中の原稿は遺稿として、舟而の渋みのある笑顔の写真や、編集長の日比の追悼文、舟而の遺作となった世話物『終の女房』で女房役を演じたときの白帆の舞台写真と共に、日比が発行する雑誌に掲載された。  葬儀は言い渡されたとおりに、白帆が喪主を務めて執り行われた。  白帆は凧糸を十文字に絡げた古いキャラメルの箱を、切れ長の目を細め、鳥の雛を撫でるように柔らかくした指先で何度も何度も撫でてから、左前に着せられた白い着物の懐深くへしっかり納めた。 「懐かしいですね。よく戦争にも焼かれずに」 「ええ。先生は防空壕へ入るときも、必ずこのキャラメルだけは持っていて下さいました。 『白帆が僕のところへ来てくれるように』って……。 慰問にまわっているときに、機銃掃射で汽車が停まって夜の線路へ衣装の入った箱と一緒に転がり出たときは、さすがに先生と離れ離れになったと思いましたけど、私は線路とは全く違う道を歩いてしまったのに、駅に立つ先生のところへ辿り着くことができました。 あのときもこのキャラメルがあったから、私は先生のところへ帰ることができたんだと思います。 これは一蓮托生を叶えてくれるキャラメルなんです、きっと」 白帆は指先で目尻を拭いながら、少しだけ微笑んだ。  通夜でも告別式でも、紋付袴姿で立つ白帆は凛々しく、堂々としていて、挨拶も立派だった。集まった新聞社のキャメラにも動じることなく、しっかりと務め上げた。  しかし、葬儀が済むと、祭壇の前に座ってぼんやりと遺影を眺める時間が多くなった。四十九日に近所の谷中墓地へ新しく建てた墓へ納骨すると、墓碑へ日参してなかなか帰って来なかった。  舞台はすべて降板し、あれだけ楽しそうに作っていた食事も一切作らなくなり、掃除も洗濯も読書もすべて興味を失って、遂には床から起き上がらなくなった。 「旦那、テレビを観ましょうよ。オリンピックですよ。バレーボール、ソ連との決勝戦ですよ!」 弟子が誘っても気だるそうで、 「お前たちだけで観なさい」 と素っ気ない。  見かねた弟子たちが掃除や洗濯をして、食事を作り、家の中に泊まり込んで世話をしていたが、床に臥せったまま、遺影を眺めているだけの生活は変わらなかった。  食もみるみるうちに細っていって、何を出しても二、三口で箸を置いてしまう。重い衣装を着て何時間も舞台に出ずっぱりで耐えていた身体だったのに、骨が浮き、肉が薄くなって、寝間着の裾を引きずった。 「白帆さん、せめて栄養の注射一筒だけでも」 日比の言葉も聞き入れてはもらえなかった。 「要りません。私よりもっと必要な方に打ってあげてください」 枕の上でさらさらと髪を横へ揺すった。 「白帆さん、眠くなって、気持ちが穏やかになる薬です」 「もう眠いし、穏やかだから要りません」 「舞台に立てなくなります。舟而先生が呼び掛けてくださって、観たいと思っているお客さんがたくさんいるんですよ」 「私は先生が観てくれない舞台に立つつもりはありません。毎日、先生が観てくれたから立っていただけです」 「毎日?」 「ええ。先生は毎日私の舞台を観てくれました。どんなに忙しくても、私が出る幕だけは見に来てくれたんです。ひと目だけでも観てくれた。私はそれが楽しみで、舞台に立っていたんですよ」 「今も、これからも、ずっと空の上から見ていてくださると思いますよ」 白帆は首を横に振り、銀杏鶴紋の手拭いを胸に抱いた。 「私は自分から死ぬつもりはありません。でも生きるつもりもありません。気が済むまで寝込んだら、どうにかなるかも知れないし、ならないかも知れない。わからないけど、そっとしておいてください。 先生が亡くなったという事実は、私には耐え難くて、思い出すことがたくさんありすぎて、その思い出は全部幸せなんです。 後生ですから邪魔をしないで、ゆっくり思い出させてください。 先生は、もう思い出の中にしかいらっしゃらないんですから、せめて思い出の中の先生に会わせてください」 半月後、白帆は肺炎を起こした。抗う体力はなく病に圧されっぱなしに圧されて、取り囲んで懸命に励ます人たちが、何の巡り合わせかほんの一瞬目を離した隙に、すっと一人で旅立って行った。  墓は舟而の隣に建てられた。  葬儀を手伝う者が引き上げて、誰もいなくなった台所へ日比が足を踏み入れたとき、蛇口から流しへ水滴が垂れて小さく音を立てた。  その瞬間、日比は天窓から差し込む光の中に、片襷と前掛け姿で流しの前に立つ白帆と、椅子に座って組んだ足の膝を抱えた舟而が笑顔で語らう幻を見た。 「キャラメル……」  日比は初めて顔を覆い、床に膝をついた。

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