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梗介がいれば

*  美術室から抜けた廊下を、柚弥はまだ梗介に手頸を掴まれたままの状態で足早に歩を進めていた。  室内にいた時は後ろ手だったが、いつしか前に向き直り、頭上にそびえる梗介の広い肩に向かって呼びかけた。 「…………梗介(きょうすけ)、——梗介……っ!」 「梗介、あの、彫刻刀は、まじやめて……! 怖いよ……っ」 「……」 「多分、瀬生(せのう)さん、避けないし……っ」 「……」 「梗介にも面倒なことになったら、嫌だよ……!」  梗介は不意に歩みを緩め、柚弥の手頸を放るように離し、立ち止まった。  振り返った、冷えた鈍色を思わせる眼で、柚弥を見据える。  思ったより、そこに怒りは感じられないと柚弥が見て取った時だった。 「"俺は今でも"、何だって?」 「…………っ、」 「誰にも彼にも股を開きやがる。反吐が出る……」  辛辣な言葉の割に、梗介の表情は平素と変わらぬ、皮肉めいた空気を漂わせていた。 「…………言い訳はしない。瀬生さんのところに行ったのは、嫌だったね。……ごめん」 「……」 「でも、本当に、そういう変な意味で、行った訳じゃない……」 「どうだか」  そう漏らしながらも梗介は傍らの窓辺に体を預けた。  どうやら言い分を聞いてくれると見られるその姿勢に柚弥は安堵し、彼に歩み寄った。 「本当だよ。ちょっと、…………クラスのことで悩み事があって……。切羽詰まって、瀬生さんしか思いつかなかったから、行った……」 「……」 「瀬生さん、何だかんだ『先生』で、そういうの聞いてくれるし……。…………一応、——"おにいさん"だし……」 「……」 「俺には、もうそんな存在いないし……」  口調にやや翳りが滲み、梗介は柚弥に視線を向けた。柚弥も顔を上げ、梗介(かれ)に視線を合わせる。 「梗介には言うほどじゃないと思って……。一応授業中だったし。でも、きっともっと困ったら、梗介にも言ってたよ」 「……」 「はは、でもどうかな。梗介にはきっと、凄くくだらない事だと思うよ。『くだらねえ。そんなことで悩める脳の構造を誇った方がいいぜ』で、終わるかもね、きっと」 「……」 「非難してるんじゃないよ。むしろ逆。何にもに揺らがない梗介が、俺は羨ましい」 「……」 「俺は、梗介みたいに強くなれない……」  自嘲的に呟き、窓外を見つめる柚弥の話を、終始無言だが梗介は一応の受け止めを持って耳を傾けている。  一つはまたか、という呆れだ。感情の揺れがちな柚弥がいつもの癖のように梗介(じぶん)を過剰評価していることへ、だ。  そして、悩み事があった、というのはきっと本当なのだろうと。  自分が椋田(くらた)に抱いている感情はさしもの柚弥も肝に据えている。図らずもあらゆる方向に必要以上な接触を持ちがちな柚弥だが、そこまで軽薄ではないと梗介も踏んでいる。  そして自分には相談しづらいと判断する繊細な悩み事を、ごくたまに椋田にしているのも、過去の経緯上やむを得ず黙認はしていた。  最後の方しか聞こえていなかったが、美術室での会話は無論聞き捨てならない。  柚弥が椋田に抱いている感情は、——蓋を開けて仕舞えば義兄以上のものがあるのは知っている。受け入れ難いが、事実として。  そこはもう深く考えない。受け入れもしない。  詰ろうとすればいくらでも出来る。柚弥も今更繕うことはしない。いくらでも梗介にその身を曝して責めを受けるだろう。  梗介もそれは求めない。現に柚弥を眼の前にしていると、その気はもう失せていた。言い分があったのは理解した。  お互い、互いを前にすると他の雑多なことはどうでも良くなる。  うやむやにしがちではあるが、求め合うことを何より優先とする結果、二人の関係はここに在る。  お前の自嘲は聞き飽きた、とでも返してやろうかと梗介は柚弥を窺ったが、彼は窓外を見たまま、浮かべている笑みを隠すよう唇に指を触れていた。 「…………何笑ってやがる」  こちらを向いた上目遣いの瞳は、宿っていた陰は消え、持ち前のどこか悪戯な色が馴染んでいた。 「いや……。本当は、美術室なんか来たくなかっただろうに、来てくれたと思ってさ……」 「ああ?」 「嬉しいよ。梗介が瀬生さんのこと嫌なのはよく知ってる。でも、他のどんな奴と何しても平気な顔してるのに、わざわざ大嫌いな美術室まで来てくれてさ……」 「…………おい」 「ちょっと嫉妬してくれたみたいで、嬉しい」 「あほかお前は。そもそも、尚史(たかし)が気付いて気にしてたから来ただけだ。寝言は寝てから言え。 くだらねえ話が済んだなら、もう行くぜ」  梗介の言う通り、嫉妬などといった他者の存在から発動する感情は、基本彼には存在しない。超然とした自己の感情のみで動いている。  それが柚弥には、たまらなく焦がれる。  柚弥は笑って、梗介の手頸を握り彼を見上げた。 「ねえ、これ結構つけてくれてるね。……気に入った?」  柚弥が見上げた梗介の首元には、鎖に繋がれた燻し銀のマリアが、輪の中で艶然とした長い羽根を広げている。柚弥が昨年の聖夜に梗介に贈ったものだ。 「別に……」  気が凪いだのか、梗介はポケットの中へ紙箱を探っている。 「別にじゃないだろ。結構つけてる。てか何で煙草……。もう少しで昼休みなんだから、我慢しなよ」  柚弥はポケットの中へ梗介の指を抑え、反対の手で梗介の鎖骨に指を添わせた。 「よく似合ってるよ、これ。超かっけえー……」  ネックレスと梗介を交互に見て、柚弥は誇らしげに笑っている。  煙を吸い込みたい欲は、目の前の笑顔とポケットの中のその滑らかな甲の骨を撫でることでやり過ごした。 「…………何か、あったのかよ」  『何か』が指しているのは、自身が先程漏らした『悩み事』であることを、柚弥は梗介の眼を覗き込む内に汲み取った。  他人から見れば変わらぬ酷薄なそこに、あらゆる色が深く沈んでいるのを柚弥は知っている。  柚弥は微笑んでポケットの梗介の指に自身のそれも絡めた。 「…………別に、何も……。何もないよ。 ——梗介といると、他のことなんか、どうだって良くなる……」  つい先程、同じ感情を梗介も胸内で感じていた。  柚弥が顎を上げたのと、梗介が顔を俯けたのはほぼ同時だった。  だから柚弥は、彼が深く屈み込まなくてもいいよう、鎖骨にあった指で彼の肩に掴まり、爪先を上げて背伸びした。 「口が物寂しいなら、俺にしときな……」

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