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夢の国の王子は停止をリフレインさせる

 柚弥が洗面所を使用している間、一階に彼と母の二人だけにしておくのは若干の不安があったが、彼の荷物を運んでおいた方がいいだろうと思い直し、僕は二人分の荷物を持って先に二階へと向かった。  階段を上りきる途中、さり気なく階下を覗いたら、程なく廊下に柚弥の小さな白金の頭が現れ、軽快に階段を踏む音に振り向こうとしたら、 「ばあ、」と頬を人差し指でつん、と()つかれた。 「裕都君、バッグ有難う。わあ裕都君ち、綺麗でいいなあ! 一戸建てだし、新築のいい匂いがする、」 「うん、リフォームなんだけど。夏休みの間に引っ越して来たんだ」  行く先に瞳を巡らし、二人になった柚弥の口調は、清流のせせらぎには違いないけど、どこか子供が足でばしゃばしゃ遊んでいる風情に戻っていて、それは少し安堵した。 「ねえ、裕都君のお父さんも、後から帰ってくる?」 「あ、お父さんは今日、たまたま前のS市に出張で、泊まりなんだ。明日の午後には、帰ってくると思うけど……」 「そうなんだ、会えなくて残念。ねえ、今日の夜ご飯オムライスだって! さっき華乃(はなの)さんが言ってた」 「……何で下の名前知ってるの!?」 「え、さっき下で『お母さん、新しいタオルおろしてくれて有難うございます』って言ったら、『……柚弥君? 私はあなたのお母さんじゃないのよ? 華乃という、一人のの名前があるのよ……』って教えてくれたから……。ああそうか、大変失礼しましたと思って」  何故、『一人の女』の名前を教える必要があるのか。そしてそれを再現した柚弥の口調も、どうにも母の特徴をよく捉えていて、どちらにも頭を抱えたくなったが、とりあえず「……ごめん」と呟いたら、 「えっ、素敵な名前じゃん。お花じゃない、華やかの華」なんてのどかに答えるので、何か返そうとしたら、玄関からドアの開く音とベル、そして「ただいまあーっ」というもう一人のの声が鳴り響き、僕は思わず天を仰いだ。  しまった。には、まだ何一つ報らせてもいない。  家に連れてくるからには、母への連絡が必須で、その関連の心配ばかりしていたが、もしかしたら柚弥にまつわる懸念は、母以上に、の方が厄介を上回るかも知れないのに。  でも、もう成るようにしか成らない。  遠くを見つめ、急に黙り込んだ僕へ、柚弥が不思議そうにその瞳を開いている。    玄関先が途端に騒がしくなり、「おかえりなさい、ちょっと、先手洗って! 今日はお客さんが来てるのよ!」「ええっ? だって荷物、重いんだもおん!」  きんきんとした声が分解して、一方の足音が、迷いなく階下へ向かっていく。  ここに来る——。無意味だったけど、母の時には張っておいた予防線も何もない。僕はもう、きっと観念してそこに来る存在を既に待ち受けていた。  当たり前に、見慣れた黒のショートヘア、黒目がちの余計幼く見える瞳がバスケ部のバッグを重そうに背負って現れ、自室への通路に立つ僕らを認め、奴は止まった。  そして僕は、血が繋がっている因縁だからか、脳裏に、のなかで再生されていると想像出来る映像が、何故か僕にも、投影するようにのだ。  柚弥が振り向く。金糸の髪が緩やかに揺れ、それに併せて孤を描くシルバーのピアス。  振り向き終わる寸前に、何故かもう一度、スローで巻き戻される、夢のように見覚えのある、雲母に似た粒子が降り注ぐ、振り返りの繰り返し(リフレイン)——。  リフレインの後に、現れた『もの』については、最早説明するまでもない。  振り向いて、脳裏の雲母が現実にも瞬いているのか、『柚弥』という存在が五感に落とし込まれたらしい彼女は、電源を外されたように、 停止した。  瞳はたちまちに全開。ぽかんと口も、半開きの状態まで開いて、止まる。  つい先ほど見た気がする。三秒間の、停止の既視感(デジャブ)。  仕方なく、外された電源をそっと挿すように、僕は口を開く。 「あの……。隣になった、柚弥君……。今日、泊まるから……。 ——妹の、彩奈(あやな)……。中二……」  後半は、柚弥に振り返って告げた。  たちどころに、本当はないはずの雲母が、降り注ぐような華やぎを見せて、多分本人は意識していないのだ、 僕でさえ夢の国の王子様かと錯覚するきゅっと上がる魅惑の口角、その雲母の噴水(シャワー)の中に、柚弥は極めつけの笑顔を追加した。 「今晩わあ、お邪魔してます!」 「…………へえっ……!?」    人の顔見て、へえって何だ。  雲母の洪水を、直で浴び受け止めきれなかった彩奈は、そのまま、背後の壁へのけ反り、ごんっ、と頭を衝突させた。 「あ、頭……」大丈夫……? という柚弥の呟きは、運良く傍にあった彼女の自室のドアノブに手を掛け、バタンッ、と閉じこもる音に掻き消された。  三秒、また沈黙が積もる。そっと、ドアノブが回転される。  糸のような隙間から、やはり柚弥の存在を再確認した彩奈は、猛然と扉を開け、脱兎の如く僕達の間をすり抜けた。本来、置いてくる筈の通学用鞄を、手にして部屋を出ていた。 「挨拶しろよ……!」思わず出た咎めの声は、小岩が烈しく落石していくみたいな、階段を駆け降りていく音に飲み込まれていた。 「お母さん、おかあさあんっ!!」  落石の流下が、キッチンへ駆け込んでいく。 「お母さんっ、何かいた! 何か漫画みたいな、アイドルみたいな、人間じゃないみたいな、 男か女かよく分かんない、えっ……! 嘘でしょっ、…………彼女!?」  馬鹿ねえ何言ってんの、お兄ちゃんのお友達よお! でも、気持ちは解らないでもないわよう!  全てが筒抜けの不協和音に、僕はただ顔を手のひらに埋める。隣の柚弥の、 「うーん。嘘ではないけど、とりあえず漫画でもアイドルでも人外でも、落ち着けば声も服装もお兄ちゃんと同じ、彼女でもないつまらない存在(もの)だったけど、良かったかな」  あっけらかんと笑う、風格さえ漂うその笑顔に、いっそ全てを託してしまいたかった。

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