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とばり降りつつ

 柚弥が我が家にやって来てからの大いなる大混乱(カオス)。  一日の営みが終わりへ差し掛かるにつれ、それもいよいよ最終局面の様相を見せ始めていた。  これが、最後になると切に願ってやまない。  それは、入浴——。 「柚弥君、柚弥くうん? シャワーとか、お風呂の温度とかね、大丈夫かしらあ? シャワーはシャワーの絵の方を上げるのよ、お湯はね、温かったから左の赤いハンドルを上げるのよ? 判らなかったらね、私が直ぐにでもそこに駆けつける、心構えはいつでも出来ているのよお?」  洗面所の扉を開けて、食い気味にしつこく浴室へ話し掛ける母の、背に庭球魂と書かれた裾を僕は引っ張った。  「ちょっ……、そんなのは、大体見れば判るだろ、落ち着いて入れないから、もう離れろよ……! 何だよ心構えって……っ」 「あ、大丈夫ですう、多分判りますー、いやあ良ーいお湯だなあー」浴室から聞こえる間伸びした柚弥の声を背に、母を引き摺り出すと、 キッチン兼ダイニングで、彩奈が充血した目に握りしめた両手を口に当てて待ち構えていた。 「ねえ、ねえ……! あのお湯には、一体誰が次に入るの……っ!」 「ふふふ……。いつもはお母さんが大体最後だけど、今日のところは、全ての家事を投げ打ってでも、お母さんがこの後に入ろうかしらね……!」 「ええやだあっ! あたしが入りたあい! ……てゆうか柚弥先輩が浸かったお風呂に、あたしが入るのお!?」  ああああと、頭の中で何を炸裂させているのか知らないが、茹でた苺みたいな顔を手で覆いながら、彩奈はキッチンの床を烈しく跳ね始めて、非常にうるさい。 「家事投げ打つなよ、じゃあもう入るなよ! 僕が入るから……っ」 「ええっ、やだあ! お兄ちゃんが入るの、何かやだあ! 今日は入らないでっ!」 「何でだよ! じゃあもういいよ! 今日はバスタブ使わないから!」 「あっ……! 思い出したあ! 柚弥先輩、何か漫画好きの友達がこそこそよく見てる、イケメンとか綺麗な男の子が何かあやしいことしてる表紙の本の、そういうのに何か似てるんだあっ!」 「変なのと一緒にするなよっ!」 「——お風呂、ちゃんと入ってよ」  ずむ、と頬に指が沈み込む感触がして、芳香な湯気に包まれる気配に振り返ると、 柚弥がもう濡れた髪をタオルに含ませながら、まさに匂い立つような艶と、洗いたての清らかさに満ちた肌と微笑みで浴室から出ていた。 (多分、うるさくて落ち着いて入れなかったんだ……)  母と彩奈は、背景(バック)に電流を浴びた形相で一瞬凝固したが、即座に彩奈が「湯上がり! 湯上がり! 駄目、早く動画にしなきゃ!」と泣きそうにながらスマートフォンを激しくタップし、 「すみません、ドライヤーを貸して頂けたら……」と呟く柚弥に、 「勿論よ、柚弥君! 彩奈早く! 湯上がりの柚弥君の肌が冷めてしまう! 髪を乾かす姿も忘れないで! 撮れたらお母さんに即共有っ!」「了解っ!」  急に俊敏な口調で歩を合わせる母娘(おやこ)に、もう何を言っても無駄のつぶてで、何だかんだ二人が柚弥と触れ合いたいのは、充分が過ぎるほど身に染みたので、 何の需要も持たない僕は、まだまだ落ち着きの終着が見えないキッチン周りを後にし、部屋で粛々と待機することにした。  折戸(おりど)君の、化粧品を語る流暢な喋りには中々目を見張るものがあった。  もしかしたら来週、僕も出演? するかも知れないため、彼が配信する美容チャンネルを何気なくタブレットで観ていたら、 柚弥が出演している回が再生回数の上位を占め、トップの「ユッキーと☆色んなカラコンを着けまくる」の回がやはり面白く、 「これブルベさん大勝利ですね、そこまで盛りたくないけど、色素薄いハーフ系カラコンに挑戦したい方におすすめでえす」  これまた流れるような口調で喋る柚弥の、その美しい顔が上目遣いで覗き込み、にこっと瞳をほそめる画が大写しになると、 『尊死する からやめて』『初めて信じもしない神に感謝した』『何故だろう、涙がとまらない(´;ω;`)』とチャット一覧が昇天の倍速と化し、 その内にコスプレ系レンズにも挑戦し始め、 「ちょ、折ちん、やば、明日それで学校来てよ」「すげえディスってる! 明日日直だよ、横やんが目え合わせてくんないよ」  あはははと、ラグの上を転がる柚弥の横から「なああああ」、まるやんと思われるふくよかな猫が不機嫌そうにフェードインし、 思わず笑みを零していたら、 「裕都君、お風呂有難うー」  折戸君のチャンネルを爆上げしつつ、チャットを歓喜と破壊の渦に沈める堕天使(救世主)の、明るい声でドアが開いた。

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