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信じたいと願うもの

 他愛のない会話を続ける彼等の声は、決して苦痛などではなかった。  静かに抑えられていたし、波にも似たそのささやかな音の満ち潮は、闇と眠りの世界に違和なく(いざな)ってくれそうでもあった。  元より、その音に僕が持つ関わりも、関われる繋がりも、持ち合わせている筈もないのだ。  また、眠りに落ちてしまえるだろうか。  そう思うけど、一度冴えた眠気が再び来てくれる気配はなく、身じろぎもしないまま、僕はわずかに開けた瞼のなかを、正面の図集の背文字に預けながら、彼等の会話を聞き過ごすに任せていた。 「うん……。明日、帰るよ……。もう今日だけど、お昼頃には……。 ——……つか謝ってよ、今日のこと」  不意に変わった声の流れに、僕の瞼は確かに振れた。  柚弥も、心に残して本当は、早い段階にけりをつけたかったことらしい。  つい周り道をして濁していたらしいのが、その声の透りを増した静けさから、窺い知れるようだった。 「…………どうしてああいうことした? もう、やめて。幾ら何でも、らしくないよ。……正直、びっくりした」 「……」 「うん……。解るけどさ、多少は……。俺も、今ここに居ることは謝るよ。でも、()ったのは謝らないよ。 だって、言ってくれたんだから。 友達なんだから、裕都(ひろと)君は」 『友達(ともだち)』。  真摯に告げられた彼のその言葉が、胸を()つ。  友達。そう、認めてくれた、彼の言葉を一文字ごと反芻する度、僕の胸は熱くなり、 息を呑んだ音が漏れてしまわないように、上下した胸の震えが伝わらないように、 瞳が揺れるのは止められなかった。  だから僕は、これ以上顔が歪むのを防ぎたくて、この暗がりが、全てを覆い隠してくれていると願いながら、強く唇を引き結んだ。 「…………うん。そうだよ。うん……。 俺は、俺はこんなだけど、こんなでも全部知ってもいいって、かまわないって、そう言ってくれたんだから……。…………悪い?」 「……」 「……うん。そうかも知れない……。…………うん。でも、大丈夫。 大丈夫だよ、 きっと裕都君は」  大丈夫、なんかじゃないきっと。  無垢な声で、どうしてそんなに信じてくれる。  そんな風に信じて貰えるほど、僕は強くもないし、 今、情けない顔で、これまでも、これからもきっと、ずっと揺らいでばかりいるんだ。  でも、大丈夫だと僕を信じてくれた、柚弥を僕も信じたい。  その言葉だけで、僕を覆う揺らぎは、確実に鎮めることが出来る気がした。  何かを怖れるそれは感じていなかった。  僕は、開いていた右の掌を、静かに深く握りしめた。 「うん。だからもうしないでよ。うん……。 …………ほんっと素直じゃないなあ。俺も()った件は保留だから、まあお互い様ってことで……」  ふふ、と忍び笑いを漏らし、荒れた波は立たずに、静かな余韻を残しながら、二人はその話題を仕舞いにしたようだった。  電話の先の、『彼』も、間違いなく思うところ、知るところ、いくらでも詰めるところがあったし、出来た筈だと思う。  だけど、思うほどに柚弥を深く追及する空気は感じられなかった。  やはり、『彼』は遠くからでも柚弥や、その周りのことを抑えて静かに見据えることの出来る、 『大人』の眼をしているのだ。 「はあ…………、」  抱えていた緊張が緩まったのか、柚弥は解れたような息をついた。  しばしの沈黙が、そのあしを地に落とす。 「…………初めてじゃない? 夜、こうやって離れて過ごすのは。 多分、一緒に住むようになってから……」 「それにしても、ほんと凄いよなあ、裕都君は……。 俺達の間でこんな、さ……」 「はいはいごめん、もう言わないよ……。 …………で、どうだよ。久しぶりの離れ離れの夜は……。…………寂しい?」 「……ふん。可愛くないなあ……。そんなとこだろうと思うよ、やっぱりね……。期待を裏切らない強靭さだよ。…………俺? 俺は、寂しいよ」

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