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きみの沈黙、僕の沈黙

 柚弥のふるえの癒えを僕がただ祈る間、見えない回線の先で『彼』は、何か柚弥に言葉を掛けたのか、 それともその細い繋がりを通して言葉をなくとも、彼を鎮めさせる温もりを伝えたのか、判らなかった。  いずれにせよ、しばしの無言の空間が立ち籠めたが、柚弥の唇から、もうそれ以上のふるえはもたらされなかった。  僕の部屋(ここ)は、最奥に迫った、彼の感情(こころ)やほとばしる渇望をあらわにさせる場所(ところ)じゃない。 「…………はい。別に、平気。 夜中に他人(ひと)んちだろうがお構いなしに電話してくる、どこかの地味な寂しがり屋とは、俺は違う」  馴染んだ悪戯な響きが、戻って来ている。 「…………ふふ。つうか、夜中の公園で喫煙とか、職質されないように気をつけてよ。 あんまり見つかったら宜しくない仕事(バイト)も、ばれて取り上げられたら哀しいでしょ。とっととしたい卒業が、出来なくなる……」    進学は考えていない。そういえば柚弥は、そんなことを口にしていた。 「…………うん。じゃあね。……あ、ラップは買っておくから……」 「……うん」 「…………」 「…………あ。……ねえ、」  柚弥が駆けて、広い肩を見上げ、わずかに振り向いた横顔と視線を繋ぎながら、しなやかな腕にその指を絡める残影(すがた)が、 ふたりを被う霞んだひかりのなかで視えた気がした。 「梗介(きょうすけ)…………、」  涙の欠片(かけら)みたいな声だ、と想った。  この部屋に来て、きっと、一番美しくて、なにものもまじらない、澄んできれいな、儚さにみちた音だ、と。  恋。こい。  繋がっているのに。間違いなく。  ひとを恋する、愛する、その名を呼ぶ響きは、どうしてこんなに、美しいのに切ないふるえをして、 人の心にやさしく深く楔を刺すのだろう。   「愛してる。梗介しか、いらない」  澄んだ音色は、夜の(とばり)のなかに、(ほど)けて消えた。  確認は出来なかったが、通話を終了するボタンを押したのだろう。  音は漏れない。無音が、辺りに降り立ったままでいる。  柚弥の身体が、わずかでも振れる空気は感じられなかった。  身動ぎもせず、何もない隅に向かって、いや、『なにか』に向かい合ったまま、柚弥はその場にしゃがみ込んだままでいるようだった。  柚弥が今、その胸に一体何を抱えているのか、僕には何一つ推し量ることも出来ない。  重苦しい無数の空気の粒子が部屋を支配するなか、  僕達は、それぞれの沈黙をひとりで抱えていた。  空気が動く揺れを感じて、柚弥が立ち上がり 、足元へ歩いてくる気配が近付く。  僕は、そっと開けていた瞳を閉じた。  ベッドを出た時と同様、逆さ戻りで、空気の揺れ以外の音を立てずに、柚弥は羽毛のようにその身を上の寝台へ沈み込ませた。  僕は、そっと寝返りをしていて、ベッドに背を向けていた。  柚弥も、きっと壁を見つめたまま身体を横たえている気がした。  僕達は、背中合わせ。  背でも、重なればその温かみを伝わることは出来るかも知れない。  だけど、きっと交わらない。  眠りが、訪れてくれるだろうか。  彼にも、『彼』と逢うまでの癒えの眠りが、訪れてくればいいと祈るように(ねが)う。  僕と柚弥の間に生まれたものは、何なのか。  出逢って、本当に零れる欠片を拾うくらいにしかその存在に触れていないのに、 彼のためにもたらされた衝動、焦燥、溜め息、 微笑み、あたたかみ、嬉しさ、諦め。  それは、僕にとって、彼が『何』と呼べる存在のために生まれる感情であるのか、僕には解らない。  そして柚弥と梗介の間に咲いている花のような楔は、どれ程の熱さと深さで二人の心臓(むね)に刻まれているのかも、僕には未だ測り知れない。  測り知れないけれど、こころが沈む間もなく、僕はもう、眠らなければならない。  眠って、起きて、朝が来たなら、彼に「おはよう」と明るく声を掛けなければならない。  彼が朝陽の眩しさに睫毛を瞬かせるなら、昨日は、遅くまで引き留めてごめん、と笑って謝らなければならない。    朝陽のなかのまだ見ぬ彼を想って、僕を瞼を閉じた。  眠りが、緩やかにその(すがた)を連れて来てくれる気がした。  今度は、もう彼の夢は視ないだろうと確信の揺らぎのように悟っていた。  僕にずっと、夢見たままでいさせて欲しいと、(いざな)うような彼の甘い夢。  けれど、失望はない。  彼は、僕を"友達"だと認めてくれた。  僕しかなり得ないかも知れない、存在だと信じて、僕の伸ばした手を握ってくれた。  その掌の確かさと、緩められた瞳と唇が、僕には揺るぎないひかりだった。  糸はない。でも、消えない線のような何かで、僕と彼との間に繋がりが引かれたような気がしたんだ。  夜が明けたなら、()が醒めたなら、 いきた光のなかで佇む君がいる。  瞳の前の彼は、白昼夢なんかじゃない。  僕は、暗闇でも、目を背けたくても、たとえ血みどろの塊りを指から零してわらう君でも、 まだ、本当に僕の知らなくて、その虚無に僕のこころも膝を墜としそうになっても、 ただ、ありのままの、君を瞳に映すと決めたんだ。  であったとしても、行き着く先で、 きっときみは、"無垢"に微笑む。  夢を超えて、また、ひかりのなかで、僕はきみに逢いに行く。 fin.

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