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Year 9 / Summer Half Term Holidays 「ラングフォード家」

 ロンドンの北西部、セント・ジョンズ・ウッドは緑の多い落ち着いた街並みの、治安の良い静かな地区である。  あのビートルズのアルバムジャケットで世界一有名になった横断歩道と、アビイロードスタジオがあるのもこのセント・ジョンズ・ウッドだ。ハイストリートには通好みのブランドショップや小洒落た商店が軒を連ね、煉瓦造りのアパートメントのエントランスには制服姿のガードマンが立っている。  そして、その閑静な街の通りに並ぶ高級住宅のなかのひとつが、ハーフターム休暇(ホリデイ)のあいだテディが世話になる、ラングフォード邸であった。 「さ、どうぞ。遠慮しないで、自分の家だと思って楽にしてくれていいのよ」 「……おじゃまします……」  クレア・ラングフォードは大きく立派な扉を開けてテディを促し、入ってすぐ正面に見える階段を指して「あなたの部屋は階上(うえ)に用意したわ。右に二回曲がって奥の突き当たりの部屋がそうよ」と云った。そして自分は階段をやり過ごし、左側にあるドアを開けて持っていた買い物袋とバッグを置いて、すぐに行くから先に上がっててちょうだいと付け足した。  クレアはテディの祖父の弟の娘――従叔母(いとこおば)にあたる。この家には夫のデニスと息子のダニエルの三人で住んでいて、プレパラトリースクールに通う九歳のダニエルはおにいちゃんが来るの、と喜んでいたと車のなかで聞かされた。  そろりそろりと階段を上がっていき、云われたとおり右に二回折れた先にあるドアの前で、テディは肩にかけていたダッフルバッグを廊下に下ろした。 「――あら、先に部屋に入っててよかったのに」  少し遅れて上がってきたクレアがそう云って、テディの顔を見ながらドアを開けた。  正面に出窓があり、右手にワードローブとベッド、左の壁際にデスク、シェルフと必要なものが設えられた、(ハウス)の部屋よりも少し広めのゆったりとした空間がそこにあった。 「バスルームは向かい側の、真ん中のドアよ。私とデニスは寝室にバスルームがあるから、そこはダニエルしか使ってないの。要るだろうと思ったものは揃えておいたつもりだけど、もし必要なものがあったら云ってちょうだい。バスルームの右隣はダニエルの部屋で、その向かい側……ここの隣は私とデニスの部屋よ。あいだにウォークインクローゼットがあるから物音は聞こえないと思うわ。バスルームの左隣の部屋は空いてるけどゲストルームとして使っているので、いちおう入らないでね」  クレアが階下(した)に戻ったあと、テディは簡単に荷物を片付けて出窓を開け、街路樹の並ぶ通りを見下ろした。  通りの向う側はアパートメントらしく、ジャガーやベントレー、BMWなど、高級車がずらりと並んで駐められているのが見える。ついさっき学校からここまで乗ってきたクレアの愛車はランドローバーだったし、祖父の家にあったのはベントレーとロールスロイスだった。  テディは幼い頃から母親の都合だか気まぐれだかで居を転々とし、その所為か家のなかにはいつも必要最小限のものしかなかった。殺風景で豊かな生活とまでは云えなかったけれど、それでも食べるのに困ったことはないし、ごく普通に欲しいものが買える程度の小遣いと、新しい靴や自転車などもちゃんと与えられていた。  偶の休みなど、機嫌の良いとき母はチャイナタウンへ連れていってくれて、好物の中華料理(チャイニーズ)を腹一杯になるまで食べたりもした。帰りにちょっと値の張るスイーツを買って帰ったこともあった。  しかし、特別だと思っていたそんなことは、この辺りではごく当たり前にある日常なのだろうなとテディは思った。自分の家が貧しいと思ったことはなかったし、他人の家を羨んだこともなかったが、それはを知らなかったからだ。  そろそろ陽が朱に染まり始めようかという頃、初夏の軽く汗ばむ気温はピークを過ぎ、外は気持ちの良い風が吹いていた。窓を細く開けたままテディは椅子に腰掛け、デスクの上に積んだノートやGCSEのリビジョンガイドを眺めた。  ハーフタームという、イギリスの学校特有の学期途中にある休暇は一週間ほどで、別に宿題がでているわけでもないが、他になにをすることもなさそうなので持ってきていたのだ。いちおう、さっきクレアがスーパーマーケットに買い物に寄ったとき、近くにあった書店で未読だったグレアム・グリーンの〈Brighton Rock(ブライトン ロック)〉のペイパーバックをみつけて買ったが、それ一冊では三回読み返しても休暇の半分も潰せない。  CDプレイヤーなどもバッグに入れてはきたけれど――そこまで考えて、テディはふとあのコンピレーションアルバムのことを思いだした。そんなことは思いつきもしなかったが、頼めばルカは、貸してくれただろうか。  そんなことを思っていると、吹きこむ風が外から車のドアが閉まる音と、子供の声を運んできた。しばらくするとばたばたと部屋のドアの向こうで足音がして、さっき聞こえた子供の声がもっと近くで響いた。こんこんというノックの音にテディは「はい」と返事をしながら立ちあがり、ドアのほうを向いた。  すっとドアが開くとそこに利発そうな男の子と、紙袋を抱えた中背でがっしりとした体格の男が立っていた。年齢はクレアと同じくらいか、少し上に見えた。その男はテディの顔を見ると「やあ、はじめまして。君がセオドアだね」と爽やかな笑顔で云い、「ほら、挨拶して」と男の子の肩に手を置いた。 「……こんにちは、はじめまして。僕はダニエル、ダニーって呼んで」  何度も繰り返し練習したまんまのようなその言葉を並べると、ダニエルは恥ずかしそうに男の後ろに隠れてしまった。それがあまりにも可愛らしくて、特に子供好きというわけではないテディも、さすがに笑みを溢して膝を折った。 「よろしくダニー。俺はテディ。これから学校がお休みのあいだだけ、このおうちにお世話になるのでよろしくね」 「よろしくテディ……と、僕も呼ばせてもらうよ。僕はデニス、クレアの夫だ。ケーキを買ってきたんで夕飯前にお茶にしようってことになってね、呼びに上がってきたんだよ。甘いものは好きかい?」 「あ、はい……」 「そりゃよかった。じゃあこれも……勉強のお供にでもしてくれ」  紙袋を渡され、途惑いながらなかを開けてみると透明な円筒形の容れ物がふたつ入っていた。 「ジェリービーンズと、ビスケットとチョコレートの詰め合わせだよ。ダニーが選んだんだ。……もっとも、ちゃっかりと自分のぶんも買わされたがね」  ちゃんと忘れずに歯を磨くって約束したもんな、とデニスとダニエルが視線を交わして頷き合う。テディは「ありがとうございます……」と紙袋のなかを覗きこんだまま云って、あらためてダニエルの目を見ながらもう一度「ありがとう、ダニー」と微笑んだ。 「さ、クレアがお茶を淹れて待ってる。リビングへ行こう」  紙袋をデスクの上に置くのを待って、デニスは部屋を出るテディの肩に手を置き、一緒に歩きだした。  先を行くダニエルが何度も振り返ってははにかんではしゃいでいて、階段を転げ落ちないかとテディが心配になるほどだった。

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