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Year 9 / Summer Term 「報復」

「よーし昼飯だー!」  授業の終わりを知らせる鐘の音を聞くと同時に大きな声でそう云ったエッジワースに、ウィンストンはこほんと咳払いし、苦言を呈した。 「エッジワース。気持ちはわかるが、せめて私が締めの挨拶をするまで待てなかったのかね」  生徒たちがどっと笑う。ウィンストンは英文学を担当する年配のベテラン教師だが、ユーモアがあり授業もおもしろくわかりやすいので、生徒たちにとても人気があった。 「では、この続きはまた次回。次の章を読みたければ図書室に行けばみつかるだろうが、図書室に行ったならどちらかというとシェイクスピアでも読んでもらったほうが、私としては嬉しい。これは教材としてはまあ、悪くないが、作品としてはあまりおもしろくないのでね」 「え、おもしろいと思うけどなあ」 「っていうか先生がおもしろくないって云っちゃっていいの?」 「うむ……なぜこれが教科書に載せられているのか、考えてみるのも一興だね。そして、衝撃を受けるほどおもしろさを感じるものというのは、得てして自分が理解できるよりほんの少しレベルが高いものだ。だから、より良いものを求めて私たちは勉強し続けるのだ。――では本日はこの言葉を以て授業は終わり(クラス イズ オーヴァー)」  教室を出て、ぞろぞろと生徒たちが食堂に向かう。ルカとテディ、エッジワースとオニールも連れ立って駄弁りながら廊下を歩いていた。  日中でも薄暗い古い校舎を出ると、真昼の陽光に一瞬目が眩む。 「そういえば、おまえら七月からの休みはなにか予定があるのか?」  初夏の眩しい日差しからの連想だったのだろう、エッジワースがそう尋ねると、ルカは複雑な表情をした。 「うーん、俺はまだ特にない」  ルカの答えを聞いて、先頭を歩いていたオニールが歩きながら振り返った。 「僕も特にはないね。サウサンプトンの家に帰って、ゆっくりエルシーと過ごすだけかな」 「エルシー? 彼女か!? デックス、おまえ真面目そうな顔して彼女がいたのかよ!」 「ああ。とってもキュートで最高にスウィートなレディだよ。緑色の瞳(グリーン アイズ)で、ブラウンタビーがとても美しいんだ」 「ちっ、このやろ……ん?」  エッジワースが首を捻ったところで、ルカが笑って云った。 「猫だよ」 「猫の話かよ!」  偶々だったが、オニールのおかげでテディにまで質問が及ばず、ルカはほっとした。  長い夏休みのあいだには家族と一緒に旅行に出かける生徒が多く、そんな話はなるべくならテディの前でしたくはなかった。おそらくひっそりと広がっているテディに関する噂話は、陰でこそこそするのが嫌いなエッジワースの耳にまでは届いていないのだろう。オニールはひょっとしたらそれを知っていて、わざととぼけた返答をしてくれたのかもとルカは思った。  そんなことを考えているあいだに、何故か話題は猫からホラー映画へと移り変わっていた。  ぞろぞろと食堂へ向かう生徒たちの波を少し外れて芝生の上を歩いていると、波のなかからひとりが飛びだしてきて、こっちへ向かってくるのに気がついた。 「おーい、ヴァレンタイン――」  呼ばれているのが自分の名前であることにテディが意外そうな顔で足を止めると、ルカたちも立ち止まり駆け寄ってきた同じクラスのハマーストランドのほうを向く。 「……捜したよ、ヴァレンタイン。ウィンストン先生が、なんか渡すものがあるのを忘れてたらしくって、呼び戻してくれって頼まれたんだ。教室で待ってるってさ」 「渡すもの……?」  テディはなんだろうと首を傾げた。 「どうせなんかの本だぜ。あの先生そういうことするもん。君にはぜひこれを読んでもらいたいと思ってね……とか云ってさ」  エッジワースがウィンストンの口調を真似てそう云うと、それがあまりにも似ていたので皆、声をあげて笑った。  一頻り一緒に笑ったあと、ハマーストランドは「じゃ、伝えたよ」と片手をあげ、食堂のほうへと走り去っていった。 「なんかよくわからないけど行ってくるよ……先に行って食べてて」  ルカに云って踵を返し、テディはひとり校舎に戻っていった。  今日のランチのメインはコテージパイだった。人気のメニューの日はなんとなく、いつもより食堂内に活気が満ちる。  テディと一緒に食べるようになってから、ビュッフェボードからいちばん遠い位置にある、あまり混雑しないところのテーブルがルカたちのいつもの席になっていた。今日もトレイを持ってそこに坐り、「今日の糧とそれを与えてくれた人たち、それを分かち合う良き友がいることに感謝します。アーメン」と祈りを捧げる。 「分かち合う友ひとり足りねえな」 「トビー、私語は慎まないとまた怒られるよ」  小声でどうでもいい話をしながら食事を始め、半分ほど食べたところでルカは、テディはまだだろうかと入り口のほうを見やった。――そして、ふと眉をひそめた。  入り口近くのテーブルに、ウィンストンの坐っている後ろ姿が見えた。ウィンストン自身の影になってトレイの上は見えなかったが、同席しているゴードンや他の教師のトレイの上のコテージパイのかけらは、もう食事が終わりかけていることを示していた。  ルカは怪訝な表情でしばし見つめ――突然はっとして、椅子から立った。 「なんだ、どうした?」  辺りをきょろきょろと辺りを見まわしながら、ルカは云った。 「ハマーストランドはどこか捜してくれ」 「ハマーストランド? あいつならシカモアの連中と固まって食ってるだろ……ほらあっちだ」  ルカたちのテーブルからさほど離れていないところに、捜している人物はいた。エッジワースの云うとおりシカモアズ(ハウス)の留学生たちが集まっている国際色豊かなテーブルに、ルカはつかつかと近づいていき、それに気づいて顔をあげたハマーストランドに尋ねた。 「さっきの、テディを……ヴァレンタインを呼んでこいって、ウィンストン先生に云われたのか?」 「え……違うよ。僕は伝言を頼まれたんだ」 「誰に」 「コネリーに」  その名前を聞いた瞬間、全身が総毛立つのを感じた。  食事をしながらその様子を眺めていたエッジワースが、突然駆けだしたルカに驚いて声をかける。 「なんだおい、どこへ行くんだルカ!」 「テディがやばい、あいつら仕返しする気だ!」 「仕返し――」  それを聞いてピンときたのかエッジワースもがたんと椅子を蹴って立ち、ルカの後を追った。        * * * 「――ほら、早く謝れよ。もう二度とボールをぶつけたり暴力をふるったりしませんって。おまえはマコーミックにひどいことをしたんだぞ、謝るのが当たり前だろ」  ランチタイムの人気(ひとけ)のない校舎のトイレで、テディはコネリーやマコーミックたち数人に囲まれていた。  廊下にひとり見張りを立て、入り口を塞ぐようにして固まって立っている四人が、コネリーたちがテディを吊るしあげるのをにやにやと眺めていた。マコーミックは威圧的な態度で至近距離からテディを見下ろし、逃げる隙を与えないよう壁に手をついている。 「……あんたたちが俺になにもしてこなきゃ、俺もなにもしないよ」 「なんだその態度は。謝れって云ったんだぞ」 「育ちだけじゃなくて耳も頭も悪いのか」  笑い声がタイルの床に反響する。コネリーはテディの髪を掴むと、ぐいっと引っ張り頭を壁に押しつけた。 「なんだこの泥水をかぶったような小汚い金髪(ブロンド)は。染めるのに失敗したのか? おまえほんとは黒髪なんだろう、チンチョンめ」 「おまえみたいな親なしのチンキーが来るところじゃないんだよ、この学校は」 「とっとと国へ帰ってカンフーの練習でもしてな」 「ほら、なんとか云ってみろチンチョン野郎」  テディはなにも云い返さず、ぐっと唇を噛み締めている。  反応が薄くつまらないと思ったのか、コネリーが「こいつのブロンドが本物かどうか確かめてやろうぜ」と云いだした。入り口のところにいたひとりがくっと笑い、「そりゃいいや、やっちゃえやっちゃえ」と囃したてた。一呼吸遅れて意味がわかったマコーミックが、テディの腕をぐっと掴む。 「いいぞ、マコーミック。押さえてろ」  はっとして逃げようと暴れるテディをマコーミックが背後から羽交い締めにし、入り口のほうにいた四人もテディの傍に集まり、腕や脚を押さえ始めた。 「いやだ、やめろ……!」 「暴れるなよ、わざわざ確かめてやろうって云ってるんじゃないか。それとも真っ黒なのがばれるから見られたくないのか?」 「まだ生えてないんじゃないか?」  くすくすと笑い声がするなかで、コネリーはテディのベルトに手をかけた。蹴り飛ばそうと暴れるテディの脚を両脇でしゃがみこんでいる生徒がしっかりと掴んで押さえる。かちゃかちゃとベルトが外され、トラウザーズの前が開けられようとしたそのとき―― 「コネリー、大変だ! エッジワースが――」  なかへ顔を出した見張り役の生徒が、そう云いかけてうわっという声とともに見えなくなった。耳に届く打撃音と、なにかが暴れているような気配に一同が凍りつきその方向から目を離せずにいると、「テディ!」と名前を呼びながらルカが駆けこんできた。  その後にオニールが続き、そこに立てかけてあった掃除用のモップを手にし、険しい顔でなかの連中を睨めつけた。そしてぱんぱんと手を払いながらエッジワースが現れ、見た瞬間にひっと息を呑む者がいたほどの怒気を露わにした表情で「てめえら……大勢でひとりを取り囲んでなにしてやがんだ、この卑怯者どもが!」と凄む。 「逃げろ!」  誰かがそう叫んだのを合図にしたかのように、コネリーたちが一斉にトイレから出ようとすると、そこに立ちはだかっていたオニールがモップで足許を薙ぎ払い、転んだところをエッジワースが殴りかかった。ぎゃっと悲鳴があがり、這うようにして逃げだすコネリーたちを蹴飛ばしながら「けっ、逃げるくらいなら最初からくだらねえことすんなっての!」とエッジワースが吐き棄てる。  そして周りに誰もいなくなり、ルカはその場にへたりこんだテディに駆け寄った。 「テディ、大丈夫か!? 悪い、一緒に戻ればよかった……まさかこんな」  肩に手を置いてそう云ったが、テディは反応しなかった。  荒く呼吸をし、どこでもないところを見つめているようなその様子が明らかにおかしいことに気づき、ルカは眉をひそめた。揺さぶっても話しかけても、テディは人形のようにまったく身じろぎもしない。 「テディ? ……おいテディ、どうした。もう大丈夫だよ、しっかりしろ」 「どうしたんだ、ルカ」  エッジワースとオニールもその様子に気づいて、声をかけながらテディの顔を覗きこむ。 「なんだか様子がおかしいんだ」 「おいヴァレンタイン、どうした、もうクソ共はいないぞ! ……ほんとだ、頭でも打ったのか?」 「なんだか……ショック状態みたいな感じじゃないか? よほど怖かったのかな」 「テディ、なあテディ、しっかりしてくれ」  不安な気持ちになりながらもずっと揺さぶり、声をかけ続けていると、ゆっくり目に焦点が戻ってきた。やっと自分を見たテディにルカは心底ほっとする。 「……ルカ?」 「そうだよ、俺だよ。もう大丈夫だ、コネリーとマコーミックはトビーがやっつけてくれたよ。デックスもいる。ごめんよ、気づくのが遅くて……でも、云ったとおりだろう。ちゃんとたすけに来たよ」  テディはその言葉を聞きながらじっとルカの顔を見つめていたが――ぽろりと涙を一粒零して、ルカに両手を伸ばして抱きついた。 「ルカ、ルカ……」 「おい、どうしたんだよ。そんなに怖かったのか? おまえそんなに弱っちくなかっただろ、しっかりしろって」  まるで小さな子供のように背中に手をまわして胸に顔を埋めるテディの姿に、ルカは途惑った。  コネリーに突っかかっていこうとしたり、マコーミックにやり返したりしたあのテディからは、想像もつかない姿だった――が。 「……可哀想に。落ち着かせてやりなよブランデンブルク」 「まあなー、俺でもこんなところで大勢に囲まれたらちょっと絶望するわ」  オニールとエッジワースがそう云うのを聞くと、やっぱりそうかなという気がしてくる。ルカはぽんぽんとテディの頭を撫でてやり、背中を擦ってやった。  テディは少し身を離し、「……大丈夫。ごめん、ありがとう……」とようやく顔をあげると、三人の顔を交互に見た。 「よし、ちょっとは落ち着いたか? 落ち着いたら早く食堂に戻らないとメシ食いっぱぐれるぜ」 「いや、もうないんじゃないかな……きっと誰かが片付けちゃってるよ。ほったらかして行ったと思って」 「えーっ、俺コテージパイ半分しか食ってねえ……」  エッジワースがそう嘆くのを聞いて、テディは申し訳なさそうに謝った。 「ごめんトビー、俺のせいで……」 「え、いや、なに云ってんだ。おまえのせいなんかじゃねえよ。あいつらのせいだろ」 「ま、コテージパイは無理だけどとりあえずお腹に入れるものなら部屋にあるよ。いちおう食堂を覗いてみて、なにも残ってなかったら寮へ寄ろう」 「うん、俺の部屋にもウェハースとチョコレートくらいある」 「俺はウォーカーのショートブレッドとハインツのスープ缶が常備してあるぞ」 「じゃあ早く行かないと……もう時間があまりない」  腕時計を見てそう云ったオニールが、ふとテディの恰好に気がついて云った。 「ヴァレンタイン、ズボンの前が開いてるよ」 「あ……」  テディは慌ててトラウザーズの(ボタン)をかけ、ベルトを直そうとした。それを見てエッジワースが顔を顰める。 「それもあいつらの仕業か? ほんとにクソだな、変態じゃねえか」  ベルトを締めていた手がぴくりと止まる。顔色を失って自分を見るテディに、エッジワースは笑った。 「なんだよその顔は。おまえが変態だって云ったんじゃないぞ。変態なのは男のズボンを脱がそうとしたあいつらだって」 「まったくなに考えてるんだろうね。さ、ほんとに早く行こう。昼休みが終わってしまうよ」  オニールにそう急かされ、ルカがテディを支えるようにして背中を押すと、四人はトイレを出た。  薄暗い廊下を歩き、さんさんと陽の光が降り注ぐ中庭に出ると――テディはその眩しさに思わず顔を背け、足許に視線を落とした。

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