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Year 9 / Summer Term 「Mother」

 ずっと弾かないでいると指が(なま)るので、ルカは土曜日の朝食のあとなど、偶に音楽室へ行ってピアノを弾くのを習慣としている。この日はもちろんテディもついてきて、ルカが弾くのを感嘆の表情で眺めていた。  しばらくするとテディは、少し退屈そうに音楽室のなかをうろうろとし始めた。  広い室内の隅にはたくさんの譜面台やスツール、パーカッションの類いがかためて置かれている。奥のほうにはオルガンや、弦楽器が収められているらしい大きなケースも立てかけられていた。それらを興味深げに見ながらテディは壁に沿って折り返し、廊下側の壁の前に何本も並べられているアコースティックギターの前で立ち止まると、一本選んで手に取った。  ギターを抱えたまま室内を横切り、スツールを一脚引っ張り出すとテディはそれに腰掛け、チューニングを合わせ始めた。それを見て、ルカは少し驚いた。 「ギターが弾けるのか?」 「え……ほんの少しだけだよ。ルカのピアノみたいにちゃんと習ったわけじゃないし……」 「ギターはガットギターでもないと、習うことなんてほとんどないだろ。ロックはみんな独学だよな。なあ、なにか弾いてみせてくれよ」 「うん……ほんとに、簡単なのをちょっと弾けるって程度だよ……?」  人前で弾いたことがまだないのか、テディは恥ずかしそうに脚を組んでギターを構えた。ルカはあとから気づいたのだが、このとき左利きであるテディは普通にネックを左にし、右利きの持ち方でギターを構えた。そしてピックは使わず、親指の腹で撫でるように控えめな音を出し始める。  E♭m(イーフラットマイナー)で始まった、ちょっと特殊なコード進行のその曲がなんなのか、ルカにはすぐわかった――ビートルズの〝 If I Fell(イフ アイ フェル) 〟だ。思わず音に合わせ抑えた声で歌いだすと、テディは一瞬手を止めてルカの顔を見つめた。ルカはそのまま弾けというように歌い続け、テディもまたすぐに弾きだしたが、いちばん盛りあがるところでミスをし、苦笑して弾くのを止めた。 「うまいじゃないか、すごい。かっこいいよ、ピアノを習ってた奴なんかはここじゃめずらしくもないけど、ギターが弾ける奴はあんまりいないよ……たぶんね」 「おだてないでよ……全然たいしたことないって、ちゃんとわかってるから」  そう云って、テディは恥ずかしそうに俯いてしまった。  確かに、本当のことを云えばそれほど巧いわけではなかった。が、ギターを奏でているときのテディの真剣な顔は、いま見せている少女がはにかんでいるような可憐な表情とも、編入してきた日の無愛想な顔とも違って本当の素の(かお)のように思えたし、なかなか様にもなっていた。  だがそれきりテディはギターを弾かず、元のところに片付けるとまたうろうろと歩きだした。しまってある楽器や、壁に飾られている偉大な作曲家たちの肖像画を眺めているテディを見て、ルカはもう少し聴きたかったなと思いながらピアノの演奏を再開した。  ショパン、ベートーヴェン、リスト――思い思いに鍵盤を叩くルカの指が、シューベルトが作曲しリストが編曲した〝セレナーデ〟を奏で始めたときだった。テディが目を大きく見開いて振り向き、なにか云いたげにルカの顔を見た。 「うん? どうかしたか」  手を止めてルカが訊くと、テディは「いや……邪魔するつもりじゃなかったんだけど」と云いながらもピアノに近づいてきた。 「今のって……なんだっけ、プラターズが歌ってた曲だよね……」 「プラターズ? ってコーラスグループの? それは知らないけど、今のは〝Ständchen(シュテンチェン)〟、〝セレナーデ〟って曲だよ。シューベルトの――」 「ああ、そうだ。〝マイ・セレナーデ〟だ……オリジナルはクラシックだったんだ、知らなかった」  再度ルカが〝セレナーデ〟を弾き始めると、テディはうん、これこれと頷いて、少し口遊んだ。 「そういうのも聴くんだな。俺、プラターズなんて〝オンリー・ユー〟と〝スモーク・ゲット・イン・ユア・アイズ〟くらいしか知らないぞ」 「家にヴァイナル盤が何枚かあったんだ。〝ハーバー・ライツ〟や〝エブ・タイド〟なんかのスタンダードナンバーが入ってるやつが好きで、よくママが歌って――」  懐かしそうに語っていた笑顔がすっと消え、まるで時間が止まったようにテディが黙りこんだ。  ルカは、身近な人間を亡くしたことがまだない。  ビデオを一時停止したように動かないままのテディを見つめ、ルカはどうしたらいいのかと考え――思いつくままに「なにか好きな曲を弾こうか。リクエストはある?」と云ってみた。ふっと現実に戻ったように、テディがルカの顔を見る。 「え……そう云われても、ピアノ曲なんて知らないよ」 「なんでもいいさ。俺が知ってさえいれば、適当にそれっぽく弾くよ。なんかない?」  殊更明るくルカはそう尋ねたが、テディはまた俯き加減に遠い目をして、しばらく考えたあと首を横に振った。 「思いつかないな……なんでもいいよ。そうだ。他にもなにか、実はクラシックが原曲の有名な歌ってあるのかな」 「うん? 結構あるよ。ベートーヴェンの〝悲愴〟はビリー・ジョエルが演ってたし、プロコル・ハルムの〝ア・ホワイター・シェイド・オブ・ペイル〟のイントロは確か〝G線上のアリア〟を元にしてるんじゃなかったっけ。他には、そうだな……」  ルカは少し考えて、明るく軽快な、テディから見ても簡単そうなメロディを弾き始めた。ピアノを始めたばかりの初心者が練習のために弾くようなそれは、特に音楽が好きでなくても一度は必ず耳にしている、有名な旋律だった。 「なんだっけ、これ……昔、音楽の授業でもやったことが……」 「バッハの〝メヌエット〟だよ。ははは、なんか懐かしいや。レッスンすっぽかして逃げだしてはすぐ捕まって叱られてた頃を思いだすよ」 「小さい頃?」 「うん、四歳くらいの頃」 「ふふ……なんか想像しちゃうな。で、この曲……誰かにカバーされたの?」 「ああ、このまんまじゃわかんないか?」  ルカはそう云うと、同じメロディをアレンジを変え、流れるようにピアノに歌わせ始めた。すぐにテディがはっとして「ああ! サラ・ヴォーンだ……」と呟く。 「うん、〝ラヴァーズ・コンチェルト〟だっけ。たったこれだけのアレンジなのに、全然違うよな」  ルカの奏で続ける、穏やかな光のなかにいるような暖かく美しいメロディを聴いて――テディは、ぽろりと一筋涙を落とした。  鍵盤の上に指を滑らせながらふとルカがそれを見て、驚いて弾くのをやめ椅子から立つ。 「ど……どうしたんだよテディ、俺またなんかまずいこと――」  プラターズで気が塞ぎそうだったのをなんとかしようと話題を変えたつもりだったのに、どうもサラ・ヴォーンもまずかったらしい。ルカはまた動かなくなってしまったテディに歩み寄りながらあたふたとあちこちのポケットを探り、ハンカチを取りだした。 「テディ、泣かないで……ごめん、今のもきっとなんか想い出があった曲なんだな。悪かった……」  おろおろとしながらルカが涙をそっと拭ってやり、そのハンカチを手に持たせようとすると――テディははっと我に返って、くるりと後ろを向いた。  ハンカチを握ったままのその手をテディの肩に置こうかどうしようかと、ルカが迷うように彷徨わせる。 「ごめん、驚かせて……目に(ゴミ)が入ったみたいだ。まだ……痛いけどすぐに治るよ――」  そんなふうに泣いているのをごまかすテディに、ルカはなぜだか胸が詰まるような苦しさと、歯痒さを感じた。  今、音楽室にはふたりきり、今日と明日は二日続けて休みな所為か、校舎内は静かで他にはほとんど人もいない。自分の前では素直に泣いてほしいと思ったのか、それとも泣かせておいて我慢させている自分に嫌気がさしたのか――深く考えようともしないうちに、ルカは口にしてしまっていた。 「――どんなおかあさんだったんだ?」  テディが背中を向けたまま、びくりと顔をあげる。 「綺麗な人だった? 優しかった? 得意な料理はなに、お菓子なんかも作ってくれた? ……話してくれよ、いろんなこと。聞きたいんだ。さっきの曲にどんな想い出があるのかとか……」  眼の前にある細い肩が震えた。  考える前に口をついた言葉だったが、ルカは後悔していなかった。こんなふうに我慢しているよりも、恥も外聞もなく声をあげて泣くほうがいいように思えた。想い出をじっと自分のなかに閉じこめておかず、誰かに話すほうが気持ちの整理がつくような気もした。  それが正しいかどうかルカにはわからなかったが、少なくとも、こんなふうに泣きたくなったときにぐっと堪えているのは、かえって悲しさを引き摺るだけじゃないかと思ったのだ。 「テディがどんなにおかあさんを好きだったか、話してくれよ」 「――……て……れ……かった……」 「え?」  嗚咽でかき消された言葉をルカが聞き返すと、テディは両手で顔を覆い、ゆるゆると首を振った。  ぐっと声を押し殺している様子を見て、ルカはまた間違ってしまったのだろうか、それとももっと踏みこんで吐きださせたほうがいいのだろうかと迷った。しかしあまりにもテディが辛そうに見え――自分のほうが耐えられなくなり、ルカは小さく震える肩を後ろから支え、優しく云った。 「ごめんテディ、悪かった……いいんだ。もう、話さなくていいから……落ち着いて」  ルカはぽんぽんと肩を叩いたり背中を摩ったりしながら、手で覆われたテディの横顔をじっと見つめた。  さっき、テディはなんと云ったのだろう。『――なかった』と聞こえたような気がしたが――喪ったことをまだ引き摺っているだけではなく、なにか後悔していることでもあるのかもしれない。  ルカはテディの髪を撫で、よしよしと宥め続けた。照れや邪な気持ちはまったく起こらず、家で妹たちにするような気持ちでごく自然にそうしていた。  そのまま何分経ったのか、ゆっくりとテディが振り向いてルカを見たとき、ルカはなにも云わずにただ黙って微笑んだ。  目は真っ赤だったがテディはもう落ち着いたようで、傍らのピアノを見やり、独り言のように云った。 「……ジャズを、歌ってたんだ」 「うん? おかあさんが?」 「うん……クラブとか、そういうところでだけど……」  ルカはなるほど、と思った。きっと〝ラヴァーズ・コンチェルト〟もレパートリーに入っていたのだろう。 「素敵だ。俺も聴きたかったよ、テディのおかあさんの歌うのを」 「俺も、ステージは一度しか観たことがないんだ……」  テディは懐かしそうにそう云い、そして目を閉じ俯いた。  瞼の裏に焼きつけた過去を見てまた泣くのだろうかと、ルカは思っていたが――予想に反して、顔をあげ自分を見つめたその口許には笑みが浮かんでいた。 「そろそろ戻らない? なんかお腹も空いたし喉も渇いた。お茶にしようよ」 「ああ、そうだな。そうしようか」  少し無理をしているような感じもしたが、ルカは頷いてピアノの前に戻り、フォールボードをそっと閉めた。

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