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Year 10 / Spring Half Term Holidays 「斥けられたNO」

 二〇〇三年二月十五日。この日、世界のあちらこちら――実に六十もの主要都市で、大規模な反戦デモが行われた。一九六九年のベトナム反戦運動以来の大きな波となったそれは世界中で一千万人もの人々が参加したといわれ、ロンドンでもBBC(英国放送協会)の発表によると百万人以上という、途轍も無い人数が集まった。  その溢れんばかりの人波が、ふたつの場所から思い思いにプラカードや横断幕、旗を掲げて練り歩き、ピカデリーサーカスで合流し、ハイドパークに集結した。前日からTVではイラク関連のニュースが引切り無しに放送され、トーク番組ではタレントたちが自分もデモに参加すると意思表明したりしていた。その所為というわけでもないだろうが学生のグループや家族での参加も多く、非常に大規模なデモ行進になったにも拘わらず、暴動や大きなトラブルもなかった。  アメリカからやって来ていた黒人公民権運動活動家、ジェシー・ジャクソン牧師はハイドパークでデモに参加した人々を讃え、キング牧師の言葉を引用したスピーチで集まった人々を感動させた。ハイドパークには他にも名立たる政治家や著名人が来ており、そのなかにはミック・ジャガーの元妻、ビアンカ・ジャガーもいた。 「――本当にすごい人出だったけど、なにか起こるとかいう緊張感はなかったわ。小さな子供や犬を連れている人もいたし、学生のグループもたくさんいた。みんな散歩でもしてるみたいにゆっくりと歩いてた。偶にちょっと人集りができてると思ったら大道芸をやってる人たちや、ラップで反戦を唱えてる人がいたりしてね。さすがにハイドパークに近くなるほど混んできて、ちょっと進めなくなったりもしたけれど……平和を望むにふさわしい、素晴らしい行進だったと思うわ」  まだ高揚した気分が残っている様子で、クレアは車を運転しながら助手席のテディに前日のことを話していた。ダニエルが行こうと云いだし、デモ行進にはデニスも含め三人で参加していたとのことだった。ダニーは友達から家族と参加すると聞いて影響されたみたい、とクレアは云った。 「まあなにも危険なこともなかったし、ダニーにとってはいい経験になったんじゃないかしら」 「学校でも話はありましたよ……。デモに行こうって騒いでた奴も何人かいたけど、学校のほうから厳しく外出禁止って云われて……」 「学校の対応はそれぞれいろいろだったみたいね。寮制学校(ボーディングスクール)の場合は普段から外出には厳しいし、参加は難しかったのかもしれないわね」  件のハイドパークを眺めながら車はパークレーンを北に向かう。途中で左折しテスコというスーパーマーケットが見えると、クレアはパーキングメーターの空きをみつけ車を駐めた。舗道には『Don't Attack IRAQ(イラク攻撃反対)』『Freedom for(パレスチナに) Palestine(自由を)』と書かれたプラカードを立て、ビラを配っている女性たちがいた。差しだされたそのビラを一枚受けとり、クレアはカートを押してついてくるテディに向き、云った。 「さぁて、今日のサンデーローストはビーフがいい? それともラムがいい?」  サンデーローストとはイギリスやニュージーランド、カナダなどで食べられる伝統的な食事のことである。なにもせずにゆったり過ごす日曜日の正午過ぎなどに、家族が揃ってローストした肉と付け合わせの何種類かの野菜を、グレイビーソースで食べる。肉はビーフやラム、ポーク、チキンなどさまざまだが、ビーフの場合はヨークシャープディングという、シュークリームの皮に似たパンのようなものが欠かせない。  この日、ラングフォード家のサンデーローストはローストビーフにヨークシャープディングとローストポテト、パースニップとブロッコリー、カリフラワーチーズという定番のメニューだった。  キッチン側の席にクレア、その隣にダニエル、テーブルの角を挟んでデニス。テディはなにか取ったりするときにすぐ手伝えるようにとキッチン側の、クレアの正面の席に坐っていた。いつも自分がいないときは、デニスはいま空いている隣の席に坐っているらしい。自分がいるときだけ側面の席に坐るのは何故なんだろうとテディは思った――隣に坐ってほしいわけではないが、食べているあいだ何度も視線を感じるのも結構厭なものだった。テディはなるべくクレアの話に頷いたり、ダニエルと目でサインを送りあったりしながら食べることで、気にしないように努めていた。  秘密を知られたくない人物がいるときに、なんでもないふりを装うことには慣れていた。こんなことが得意な自分をたまらなく厭だと思っても、それさえ顔にはださずにいられる。そして表面が崩れない代わりに、少しずつ少しずつ、内側でなにか黒く染まったものが剥がれ落ちて、澱のように溜まっていくのだ。  味などほとんど感じないまま、テディはカリフラワーチーズを口に運んだ。  食事が済むとテディは勉強するので、と云ってさっさと階上(うえ)へ行き、部屋に籠もった。ダニエルは一緒にゲームをしたかったようで残念そうな顔をしていたが、これ以上デニスと同じ部屋で過ごしたくはなかった。勉強をするというのを口実にはしたが、約三ヶ月後にGCSE試験を控えた今はまったくの嘘というわけでもなかった。  テディはリュックサックからリビジョンガイドやノート、ペンケースを出し、デスクに向かった。いつもの癖でCDプレイヤーも出そうとして中にないのに気づき、そういえばジェシに貸したのだったと思いだす。  しょうがないのでBGMなしで苦手な因数分解のおさらいを始めるが、どうも集中できず、テディは片肘をついて手持ち無沙汰なふうにくるくるとペンを回したり、落書きをしたりしながらゆっくり時間をかけて問題を解いていた。  そうしていったい何分が経った頃だろう――閉まっている窓の外から微かに聞き慣れた声と、車の音がしたような気がした。何故か気になってテディは眉をひそめ、立ちあがると窓のほうへ行き、外を見た。  レンジローバーが、どこかへ走り去っていくのが見えた。  この家には車が二台ある――一台はデニスのメルセデス、もう一台はいつものレンジローバー、クレアの車だ。つまり、クレアがどこかへ出かけたのだ。テディははっとして振り返り、ドアのほうを見た。  もしもクレアがダニエルを連れていったのなら、今この家には自分とデニスのふたりしかいない。またクリスマスの日のように――テディは眼の前が真っ暗になるのを感じ、ベッドの上に放ってあったピーコートとリュックサックを引っ掴んだ。  この家にいては逃げ場がない。デニスが来る前に、自分もどこかへ出かけてしまえば……そして、クレアの車があるのを確認してから戻れば。テディは上着の袖も通さないまま、急ごうと部屋のドアを開け――ひっと息を呑んだ。  そこに、デニスが立っていた。 「おや、どこかへ行くのかい? 今ね、クレアとダニーも本屋へ行くって云って出かけたんだよ。どうやら勉強を頑張っている君に感化されたみたいでね……ワークブックの新しいのを買いに行ったんだ。ダニーは君も誘ったほうがいいかなって云ったんだけどね、僕が勉強の邪魔をしちゃいけないよって、ふたりで行っておいでって云ったんだ」  足になにかが絡みついたかのようにその場から動けず、テディはデニスと見合ったまま顔を強張らせた。いつもとまったく同じ、愛想のいい笑顔を貼りつけて、デニスは続けた。 「そのかわりに、君の好きな甘いものを買ってきてあげたらって云っておいたよ。勉強が済んだらお茶を淹れて、一緒に食べたらってね。ダニーも喜んで賛成していたから、本屋のあとでどこかに寄って買ってくると思うよ。楽しみにしているといい」  デニスはそう云いながら一歩、自分に近づいてきた。テディはやっとの思いで足を引き摺るようにして後退った――デニスはまた一歩距離を詰め、後ろ手にばたんとドアを閉めた。 「それだけじゃかもしれないから、ついでに僕の靴下を新調してくれって頼んだんだ。だから、一時間くらいは帰ってこないと思うよ」  持っているリュックサックと上着をそっと取りあげ、デニスが床に置くのをテディはどうすることもできずただ目で追っていた。肩にぽんと手を置かれ、びくっと小さく躰が跳ねる。ベッドのほうへ促そうとする力にテディはようやく首を横に振り、一度大きく呼吸をしてから、絞りだすように言葉を吐きだした。 「もう……やめてください、こんなこと……! 部屋から出ていってください……出ていってくれないなら、クレアに云います……!」 「クレアに? まさか。そんなことができるのかい? そんなことをしたら君が困るだろう」  テディは顔をあげ、怪訝な表情でデニスを見た。 「え……、困るのはあなたでしょう? なにを云って――」 「考えてごらん? 君がクレアにどう云うつもりかは知らないが、クレアがもし君と僕がセックスをしたなんてことを知ったら……彼女はショックだろうね。ショックを受けて、嘆いて、ダニーを連れてこの家を出ていってしまうかもしれない。可哀想に、ダニーは父親のいない子になってしまう……」  テディは目を瞠った。 「そんな……だってそれは、あなたが――」 「テディ、君は頭もいいし、とてもいい子だ……そして優しくて面倒見もいい。ダニーは君にすっかり懐いて、最近じゃ本当の兄弟みたいじゃないか。君はそんなダニーを父親のない子にしても平気なのかい? そんなはずはないよね? ……それに、君だって実は愉しんでいたじゃないか。イヴの晩もその次の日も、あんなに可愛らしい声をあげて君は何度も達ったよね」  羞恥にかぁっと顔が火照る。テディは云い返す言葉をみつけられず、ぐっと唇を噛みしめた。 「しかし、残念だったよ……僕が一から手ほどきしたかったのに、初めてじゃなかったなんてね。おとなしそうな顔をしてるくせに、まったく驚いた。でも、安心していいよ――」  デニスはまるでテディを宥めようとするかのように肩を抱き、耳許で囁いた。 「君が男を銜えこむのに慣れた、あんなにいやらしい躰をしてるなんてことは、誰にも云わないでおいてあげるから。もちろん、クレアにもね。だから、、絶対にばれないよ」  滅茶苦茶な理屈だと頭のどこかではわかっているのに、あまりの羞恥と呼び起こされた過去の記憶に混乱し、テディはもうなにも云えず、動くこともできなかった。なんとか太刀打ちしようとする気概さえも奪われ、もはや為す術もない。  心に大きな傷を負った十五歳になったばかりの少年と、理屈を捏ねまわすことに長けた卑怯なおとなでは、とても勝負になどならなかったのだ。  がくりと項垂れたテディを支えるようにして、デニスはベッドの傍へと近づいた。 「さあ、テディ……僕と君だけの秘密だ。あまり時間がないから、僕の云うとおりにするんだよ。まず、そこに手をついて……そう、いい子だ。可愛いよテディ――」  後ろを向かされ、云われるままベッドに両手をつくとおぶさろうとするかのようにデニスが躰を寄せ、ジーンズの(ボタン)に手をかけた。そのまま下だけ脱がされ、性急に敏感な場所を探られる。テディはきゅっと目を閉じ、いつもそうしていたようにもうなにも考えず、なにも感じないように自分をからっぽにしようとした。  自分にできることはそれと、時間が過ぎるのをただ待つことだけだった。

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