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Year 10 / Summer Term 「Slipping Away」
陽が落ち始め、街がオレンジ色に染まる頃。化粧をし、ドレスアップをして仕事に向かう母を男が見送りに立つと、セオドアは急いでリビングから奥の寝室へと移動した。
ばたんとドアを閉め、サイドテーブルの灯りをつけてベッドに凭れるようにして床に坐りこみ、そこに置いてあった読みかけの小説を手に取る。〈The Nine Mile Walk 〉と旧い映画のロゴタイプのような文字でタイトルが書かれたペイパーバックの表紙を捲ると、セオドアは膝を立てて読み始め――否、読んでいる振りを装 った。
程無く、男が部屋に戻ってきた気配がして、寝室のドアが開けられた。
「セオ、また本か? こっちへ出てこい……一緒にTVでも視ていようや」
男がそう云うと、セオドアは顔をあげて首を横に振った。男は溜息をつき、苛立ったようにとんとんと開いたドアを指で叩いた。
「セオ、来いって。……俺の云うことが聞けねえのか? ひとりで飲んでてもつまんねえんだよ、おまえも菓子でも食ってりゃいいだろ、こっちへ来い」
「……おじさん、酔っぱらうと大きな声だして叩くから、いやだ」
「なんだと? そりゃおまえが俺を怒らせるからだろうが。女の子みてえな顔してやがるくせに、まったく可愛げのないガキだ。ちったぁ愛想良くできねえのか。来いって」
女の子みたいと云われてセオドアはむすっとむくれ、なにも云わず再び本へと目を落とした。その態度に、男が口許を歪める。
「おい、返事もしねえのか。おまえなあ、これでも俺ぁおまえともなんとか仲良くなれるようにと思って、いろいろしてきたつもりだぞ? おまえに嫌われるようなこともしてねえはずだ。撲 ったりしたのは、そりゃあセオ、おまえのほうに原因があったんだ。躾ってやつだよ」
セオドアは本は閉じたものの、俯いて膝を抱えたまま黙っている。男はその様子に、ちっと舌打ちをした。
「……なんとか云ったらどうなんだ、あぁ? それだよ、その態度がむかつくんだよ! 鬱陶しい面しやがって……俺ぁただふつうに一緒に、親子みてえに過ごそうって云ってるだけだろうが!!」
次第に声を荒げる男に怯えながらも、セオドアは恐る恐る顔をあげて云った。
「そんなのいいよ……。だって、おじさんはおとうさんじゃないもん……」
その言葉は男を決定的に怒らせたようだった。ずかずかと寝室に入ってくると、男はいきなりセオドアの頬を張った。吹っ飛ぶように倒れたセオドアの襟首を引っ掴み、男はその細い躰を軽々と引き起こしてベッドの上に押しつけた。痛みよりも驚きと焼けつくような熱さを先に感じ、セオドアが目を白黒させて男を見る。
「くそっ、なんでだ! 俺はこんなによくしてやってるのに……なんで懐いてくれない! どうしてそんなに可愛げがないんだ、アンナにそっくりなのは顔だけか! もっとガキはガキらしく――」
撲たれてくらくらする頭をふり、セオドアは男の手から逃れようとして暴れた。「痛い、離して――」ともがいているうち、シャツの釦 がはじけ飛び、肩から鎖骨の辺りが顕になった。ちくしょう、このガキと揺さぶる男がふとその動きを止め、恐怖に歪む少女のような顔を見下ろし、ごくんと生唾を呑む。
「……いうことを聞かせてやる」
セオドアの躰の上に跨がりベッドに押さえつけたまま、男はかちゃかちゃとベルトを外し、穿いているものを下げた。ぶるんと飛びだしたものを片手で扱きながら、それを得体の知れないモンスターでも見るような顔で凝視しているセオドアの眼の前に突きつける。
「ほら、口を開けろ……咥えるんだ。しゃぶるんだよ、キャンディバーみてえにな。……歯ぁ立てんなよ。立てたら半殺しの目に遭わせるからな」
頭を掴まれ、わけがわからないまま頬張らされ――セオドアは苦しさと込みあげてくる吐き気に涙を零しながら、縋るものを探すように手を伸ばして空を掻いた。
誰か、誰かたすけて――
たすけて……ママ。ママ、見棄てないで――
たすけて……ルカ――
「ルカ――」
「お、起きたか」
その声に、テディはゆっくりと起きあがってきょろきょろと辺りを見まわした。
「なんか魘されてたな。バッド入っちまったか」
ロブにそう云われ、テディは眉をひそめてテーブルの上に置きっぱなしのグラスを見た。
「これのせい……? 俺、なんか寝言云ってた……?」
「ああ、云ってた云ってた」
同じソファで躰を伸ばしていたジェレミーが、にやにやしながら答えた。
「ルカ、ルカって名前、呼んでたぞ。噂の恋人だろ……同じ部屋なんだっけ」
いいなあ、やりまくりだな、と囃すジェレミーをテディは睨みつけ、ぱんっと腕を叩いた。
「そういうこと云われるの好きじゃないよ。あんたはそんなふうに云わない人だと思ってたんだけどな」
「はは、悪い悪い。色っぽい声で名前呼んでたからつい、妬いたのさ」
「色っぽかったか? 俺には苦しそうに聞こえたが」
ふたりのやりとりを聞いて、どうやら名前以外のことは云ってないようだとほっとし、テディは一本煙草を吸ってからジェレミーの部屋を出た。
時刻は正午まであと三十分、ちょうど四時限めが始まる頃だった。確か今日の四時限めは数学だったなと思い、テディは教室に戻る気も起こらず、シックスフォームの校舎と煉瓦塀のあいだを通って食堂の前を横切り、真っ直ぐ寮へと向かった。
部屋に戻るなりタイを緩め、ベッドの上にどさっと躰を投げだすように横になる。ジェレミー特製のあのドリンクを飲むと決まってふわふわといい気持ちになるのだが、あとからひどい怠さに襲われ、記憶や時間感覚が欠落することが多々あった。
最初はなにかとんでもない麻薬のようなものを飲まされたのかと思っていたが、それはテディもよく飲んでいるようなものとそれほど違いはなかった。ただ、飲み方に一工夫されているだけだった。だから抵抗感もほぼなく、テディはジェレミーの部屋に行くたびに彼らと一緒にそれを飲むようになっていた。
いつものあのサンドウィッチも食べたし、もうこのまま眠ってしまおうか――と、そう思ったときだった。
ばたんとドアの開く音がして、テディははっと飛び起きた。
つかつかと足音を立て、姿を現したのはルカだった。
「おまえが寮に入っていくのが見えたんだ……またあいつらの部屋に行ってたのか」
テディはなにも云わず、ただ溜息をついた。
「なんとか云えよ。なんで授業に出てこない」
「……俺のことなんかほっときなよ。それより、俺の真似してルカまで授業をサボることないだろ。さっさと戻れば」
ルカはそれを聞くと、呆れたようにぐるりと頭をまわして天井を仰いだ。
「なんなんだよ……いったいどうしたんだよテディ。おまえ、イースターの休みのあと戻ってからおかしいぞ? 前にちゃんと、もうサボらない、勉強するって云ってそうしてたのに……なんで前よりひどくなってんだよ。もう今月なんだぞ試験は! そんなふうで――」
「ああもう、うるさいな……」
テディはそう云ってブレザーの内ポケットから煙草を出した。ルカはそのふてぶてしい態度に信じられない、と首を振り、そのまま部屋を出ていった。
煙草を咥え、ブックマッチを擦って火をつけるとテディは深々と煙を吸い、サイドテーブルの上にあったペプシコーラの空き缶にマッチの燃えかすを入れた。
「……無理だよ、ルカ。俺、もうルカとは……」
緩めた襟のなかから黒い革紐を引っ張り出すと、テディはその革紐に通したペンダントのチャームをじっと見つめた。銀の十字架 と、Lと刻印されたプレート――鎖は切れてしまったが、床に落ちていたこれは無事みつけることができていた。けれど、なんと云えばいいのだろう。なぜ鎖が切れたのかと訊かれたら、どんな顔をしてどう答えればいいのだろう。
――キスひとつで泣きだしてしまったときのようにまたルカを途惑わせてしまったら、自分はどうしたらいいのだろう?
テディは感情をどこかに置き忘れてしまったかのような虚ろな表情でふぅーっと煙を吐きだした。そのまま、まったく身じろぐこともなく数分が経過し、長く伸びた灰がベッドスプレッドの上に落ちた。
どんどん燃え尽きていって近づいた熱に、思わずはっと手をあげ、指に挟んでいた煙草を落とす。火のついたままの煙草がベッドスプレッドを少し焦がし、微かに焦げ臭い匂いが鼻をついた。テディはそれを拾いあげもせず、そのままじっと見つめていた。だが煙草の火は、ベッドスプレッドに小さな穴を開けただけで、それ以上燃え広がることはなかった。
テディは何故か少しがっかりしたように、またベッドに倒れこんだ。
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