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Year 10 / Summer Term 「ハムレット」
本校舎のなかの大ホールは、宛ら歴史と伝統ある高名な劇場のようだった。もともと建物が築二百年を超える――それでも古さはイングランドの名高いパブリックスクールなどには及ばないが――重厚な造りであるのに加え、そもそもが演劇学習や演奏会のために音響なども計算されて造られた、本格的なホールなのだそうだ。
年に一、二度程度ではあるが、授業の一環としてプロの劇団や演奏家たちのステージをここで観賞することもあり、広さも設備も申し分ない。この日使用する衣装なども、代々使われてきた骨董的価値のありそうなコレクションに手を加えたもので、学生の演劇発表とは思えないほど本格的な見栄えだった。
ルカたちの前の演目は〈真夏の夜の夢 〉だった。次の出番を待ちながら、既にハムレットの扮装をしたルカとガートルード役のオニール、そして準備を進めるうちにオニールと並んで舞台監督のような立ち位置になったエッジワースは、見物席の並ぶ舞台下の端から妖精たちが夜の森で跳んだり踊ったりするのを眺めていた。
「すごいね、あの子。バレエでもやってたのかな」
「あのパック? そうか、バレエか……確かに、そうでもなきゃあんなに綺麗に跳べないよな」
「ってかよ、あれもシェイクスピアなのか? 演劇ってシェイクスピアしかねえの?」
「そんなことはないけど……まさか、テネシー・ウィリアムズを演るわけにもいかないだろう?」
オニールの答えに、ルカはぷっと吹きだした。
「ところで」
オニールは真面目な顔でルカに向いた。「ヴァレンタインが朝からずっと見あたらないようだけど。彼、具合でも悪いのかい?」
「ああ、テディか。……知らないよ。たぶんまたどっかでふらふらしてるか、部屋で寝てるんだろ」
逸らすように目を伏せたルカを見て、オニールは心配そうに続けた。
「喧嘩でもしたのかい? せっかくの君の晴れ舞台を観ないなんて」
「さあね。別に、興味ないんだろ。演劇にも、……俺にも」
「え?」
わあっと見物席から歓声と拍手が沸いた。どうやら第四幕が終わったらしい。つられるように拍手をしていたルカとオニールに向き、エッジワースが気合いを入れるように云う。
「おーし、そろそろ行くか。デックス、気持ち悪ぃからとっとと控えに行ってドレスもしっかり着ちまってくれ……体操服でメイクだけ済んでるって、なんのコメディだよ」
「悪かったね」
三人は重い扉をそっと開け、控え室に戻った。
* * *
『――俺たちは皆根っからの悪人なのだ。誰も信じてはならぬ……おまえは結婚などせず、生涯独り身でいるがいい。尼僧院へ行くのだ、今すぐにだ! ……お別れだ、オフィーリア』
舞台袖から、マコーミックはルカの堂々とした演技を感心しながら見ていた。
特に感情が籠もっているわけでもなく、ただすらすらと台詞を云っているだけなのに、ルカの演技は自然に役と同化し、舞台の上にぐっと世界を呼びこむような力があった。
オフィーリア役のヴォルコフスキーもルカの演技に引っ張られるようにして頑張っていたが、一度見たテディの女装姿が強烈に目に焼きついている所為か、なんとなく見劣りして見えた。
本当に美しかった――と、マコーミックはロングヘアのウィッグをつけたドレス姿のテディを思い浮かべ、はぁ、と溜息をついた。あのときから、可憐に恥じらうあの表情が――実際は、テディは厭そうに俯いていただけなのだが――頭から離れないのだ。
彼が編入してきたばかりの頃、コネリーたちと一緒にちょっかいを出したこともあったなと思いだし――なぜ自分はあんなことをしたのだろうと、自己嫌悪に陥る。
皆で取り囲み、染めるのに失敗したんだろうと揶揄したくすんで黒っぽく見える暗い金髪 も、今はあの髪の色こそが彼のチャームポイントなのだと思うようになっていた。白く透き通るような頬、長い睫毛が陰翳 を落とす灰色の瞳。女装姿を見て初めて気づいた、その中性的な美しい顔――なんのことはない。マコーミックは今更ながら、テディに恋をしていたのである。
そういえば、彼は劇の準備にもほとんど来てはいなかったが、今この場にも来ていないのだろうか、とマコーミックは緞帳の陰から顔を出し、見物席のなかにテディの姿を探した。各クラスごとで固まって着席しているので自分たちの場所をざっと見るが、その辺りにはどうやらいないようだった。
好い仲だという噂の相手が主役だというのに――と思いかけて、むっと顔を顰め、舞台の上にいるその当人を見る。ルカの演技は相変わらず自然体で、それは確かにハムレットであるのに、だんだんと普段のルカがそこに融けあっているような、むしろハムレットがもともとルカに似たこんな人物であったような、そんな気にさせた。マコーミックはそれにスター性というか、オーラのようなものを感じて、更に嫉妬した。
つい見入ってしまうことに肚が立ち、ふいと目を逸らすと――見物席のずっと奥、いちばん後ろの扉近くにぽつんとひとり、立っている人影に気がついた。
「ヴァレンタイン?」
距離があり、見物席のほうには照明がついていない所為ではっきり顔まではわからなかった。だがなんとなく、小首を傾げて所在無げにしている立ち姿がそうではないかと思えた。
途中から来たのだろうか。幕間になったら席に着くつもりなのだろうかと思いながら、マコーミックはしばらくそのテディらしき人影をじっと見つめていたが、「おいマコーミック。もうじき出番だぞ……あっち側にいないと」とエッジワースに声をかけられ、はっとして舞台袖に引っこんだ。
ルカは長い独白の台詞もほとんどプロンプターに頼ることなく、見事に主役を演じきった。他の役の者たちも特に目立ったミスもなく、〈ハムレット〉はまずまずの成功を収めたと云えた。
拍手に包まれながら一礼し、幕が下りるまえに顔をあげたマコーミックは、さっきの場所にもうテディらしき人影がないことに気がついた。すべての緞帳が閉ざされ、舞台から役者たちがはけていくのと入れ替わりに、大道具係が慌ただしく傾れこんでくる。その邪魔にならないよう、役者たちはぞろぞろと端を歩いて控え室へと向かった。
途中、擦れ違いざまにエッジワースと言葉を交わし、歩みを止めたルカに追いついた。マコーミックは少し迷って、エッジワースとハイタッチをしてまた歩きだしたルカを呼びとめた。
「ブランデンブルク――さっき」
「うん?」
「さっき……と云っても、第三幕のあたりだが……ヴァレンタインが来ていた、と思う」
「……ふうん? それで?」
素っ気ない返事に、マコーミックはむっとした。
「それで、って……、少しのあいだだったようだが、ちゃんと観に来ていたようだから伝えたのに、そんな云い方はないだろう」
「なんでみんな俺に云うんだよ……もうたくさんだ。俺はあいつの保護者じゃない」
ルカは心底うんざりしたように、溜息をつきながらそう云った。その様子に、マコーミックは眉をひそめる。
「それは君たちが……、その、つきあっているからだろう。どうしたんだ、ヴァレンタインとなにかあったのか」
そう訊くと、ルカはハムレットを演じていたときよりも苦悩に満ちた表情で、ゆるゆると頭を振った。
「……俺のほうが訊きたいよ」
独り言のように零して立ち去っていくルカの後ろ姿を、マコーミックは腹立たしげな顔で見つめた。
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