43 / 86

Year 10 / Summer Term 「恋の死」

 演劇発表はまだ続いていたが、マコーミックはひとり大ホールを抜けだし、中庭を歩いていた。  クローディアスの扮装を解き、すっかりメイクも落として制服に着替えやれやれと見物席に腰を下ろすと、数分遅れてきたルカが偶々空いていた隣の席に坐った。周りのクラスメイトたちにおつかれさま、すごくよかったよ、などと言葉を投げかけられ、ルカはいつもの愛想のいい笑顔で応対していた。  テディのことなどまったく気にしていない様子でにこやかに話しこみ、笑いあうその態度は、マコーミックをまたも苛立たせた。  気がつくとマコーミックは席を立ち、本校舎の外に出ていた。いつもの癖ですぐに右へ折れ、何の気なしにオークス(ハウス)に向かって歩く。すると、寮の向こう側からふらふらと人が現れたのに気がついた。  何故かさっと木の陰に身を隠したのと、その人影がテディだと気づいたのは同時だった。声をかけるなどということも思いつかず、マコーミックはみつからないように大きな躰を隠したまま、テディをじっと目で追った。  何故テディがオークス寮から出てきたのだろうとマコーミックは疑問に思いながら、そっと後を尾け始めた。テディはゆっくりとシックスフォーム校舎と煉瓦塀のあいだを、食堂のほうに向かって歩いていた。なんだかふらふらしていて、足取りが危なっかしい。まるで酒に酔ってでもいるようだと思い、マコーミックは眉をひそめた。  そういえば以前、ウィロウズ寮の生徒が薬物を乱用したという噂が広がったことがあった。まさかな、と思いながら食堂の前を横切っていくテディを見て、ああ、寮へ戻るのかとマコーミックは足を止めた。もうすぐ先にウィロウズ寮の建物と柳の木が見えている。テディはまったく周りを気にする様子もなくただふらふらと歩き続けていて、こっちに気がつくことはなさそうだが、さすがに寮のなかまでは入っていけない。  シックスフォーム校舎と食堂のあいだには身を隠す木や植え込みもなにもなく、尾行はここまでかと思った、そのときだった。テディはウィロウズ寮の前も通り過ぎ、その向こう側の柳の木の陰に姿を消した。  慌てて駆けだし、ウィロウズ寮の建物の陰からテディの消えたほうをそっと窺う。柳の木のほとりには小さな池があり、その周りには黄色や白、薄紫の花々が咲いていた。こんなところまで来たのは初めてで、マコーミックはオークス寮の周りと違ってずいぶん鬱蒼としているんだなと、きらきらと注ぐ木漏れ日に目を細めた。  そのとき、ざざっと草を踏むような音がした。音のしたほうへ進み、きょろきょろと見まわすがどこにもテディの姿はない。  おかしいな、確かにこの辺りで音がしたような気がしたのだが……と耳を澄まし、さささ――となにかの気配を感じて足許に目を落とす。 「う――うわっ!」  細く蛇行しながら草が揺れ、遠ざかっていった。蛇がいたのだ。躰が大きくてもスポーツが得意でも、いきなり蛇が出てくれば動揺するし、あまりいい気持ちもしないことに変わりない。  もういないだろうなと再び足許に注意を向けると、その少し先に黒いペニーローファーとダークグレー系のグレンチェックが見えた。誰かが倒れているのだ。 「ヴァレンタイン!?」  マコーミックは草叢のなかに倒れているテディに駆け寄った。  まさか、さっきの蛇に噛まれたのだろうか。毒を持っているやつだったのだろうか。だとしたら大変だとおろおろしながら、細い躰の脇に跪いて肩を掴み、揺さぶる。  テディはすぐに目を開けた。 「なに――」 「ヴァレンタイン、大丈夫か! 蛇に噛まれたのか!? どこか痛むところは――」 「蛇?」  テディは起きあがり、不思議そうにマコーミックをじっと見つめた。その整った顔を間近に見て、マコーミックは心臓が飛びだすのを防ごうとするかのように、きゅっと唇を引き結んだ。 「蛇……、そういえばここ、いるんだっけ。大丈夫、噛まれてはいないと思うよ。なんだか気持ちいいから横になってただけ」  なんだ、そうなのかとマコーミックはほーっと息をついた。 「ところで、なんであんたがこんなところに? ……劇は?」 「劇はもう終わった。今は皆、見物席で他のクラスのを観ている」 「あんたはなんで?」 「俺は――」  その質問に、マコーミックはぐっと詰まった。なんと答えればいいのだろう――君が観に来ていないのをまったく気にしていないブランデンブルクに肚が立って、などと云うわけにもいかない。君を見かけて尾けてきた……とも云えない。  だいたい、こんなふうにふたりで話すのも初めてで――そう意識した途端、急に頬がかぁっと熱くなり、心臓が早鐘のように打ち始めた。こんなに近くにいると聞こえてしまうのではないかと焦り、マコーミックは間近にあるテディの顔から目を逸らした。 「……どうかしたの?」 「あ、い、いや……なんでも」  小首を傾げてそう尋ねるテディが可憐で、マコーミックはさらに動揺してしまった。どくんどくんと沸き立つ血の音が耳に痛いほど響き、鏡など見なくても自分の顔が真っ赤であろうことがわかる。  どうしよう、と頭を真っ白にしていたマコーミックは、しかしそのとき、思いもかけない言葉を聞いた。 「あんたも俺とやりたいの?」 「え?」  今、彼はなんと云ったのだろう。理解できないままテディの顔をじっと見つめていると、彼はいたずらっぽく笑って続けた。 「俺のこと好きなのって訊いたんだよ。そんなに赤い顔しちゃってさ……前に俺を苛めてくれてたときと、ぜんぜん違うじゃない」 「あれは……悪かった。くだらないことをしたと思ってる」  謝罪の言葉はすらすらと出てきたが、肝心なことのほうはどう云えばいいのかわからない。途惑ったまま、マコーミックが黙って俯いていると――すっと白い手が伸びてきて、マコーミックのタイを引っ張った。 「なっ――」  ぐいっと引き寄せながら寝転がったテディの上に倒れこみそうになり、マコーミックは咄嗟に両手を地面についた。覆い被さるかたちでテディの顔を真上から見下ろし、まるで自分が押し倒したような状態であることに気づいて、激しく動揺する。 「なにをするんだ、ヴァレンタイン――」 「俺が好きなんじゃないの? いいよ、。ほら、俺のこと好きにしていいって云ってるんだよ」 「な……なにを云ってるんだ! ばかなことを――」  少女のように可憐だと恋い焦がれていた相手の信じられない言葉に、マコーミックは驚愕して目を瞠り、慌てて離れようとした。 「しないの? ……ああ、そうだ。前にボールぶつけたお詫びにしゃぶってあげようか。それくらいならどう? 俺、得意だから……」 「しゃぶる……って――」  マコーミックは、自分の耳がおかしくなったのかと思った――テディの云っていることが、まったく理解できない。否、もちろん口腔性交(オーラルセックス)についての知識はあったし、テディが云っているのがそのことだということも本当はわかってはいた。  だが、わかりたくはなかった。なにかの間違いであってほしかった。 「ヴァレンタイン……、君は、自分がなにを云ってるかわかってるのか?」  立ちあがってテディから離れようとしたが、まだタイを握られたままでそれは叶わなかった。テディの肩口に左手をついて中途半端に躰を起こした状態で、マコーミックは険しい顔をしてそう尋ねた。 「なにって……俺とセックスしたいんなら相手するって云ってるだけだよ。そうだな、百ポンド……ううん、ボールのことがあるから五十ポンドにまけといてあげるよ」  今度こそマコーミックははっきりと言葉の意味を理解し、眉間に深い皺を刻んだ。沸騰しそうに熱くなって全身を駆け巡っていた血が、急激に温度を失っていく。 「……ヴァレンタイン……、君は……」 「まだ高い? しゃぶるだけなら二十ポンドってところかな……どうするの? 俺のこと抱きたくない?」  妖艶に微笑むテディは確かに美しかったが、もうマコーミックが恋した可憐な少女のような貌はしていなかった。はしかにも似た恋の熱はすっかり冷め、正気に戻ったかのようにマコーミックはテディを睨みつけた。 「ふざけるな……! 離してくれ、もう俺は行く」  タイを握る手を払い、マコーミックは足早にそこから立ち去った。背後から、どこか狂気を孕んだような甲高い笑い声が聞こえてきた。その声から逃げるようにマコーミックは駆けだした。  ――あんな奴だったなんて! おとなしくてつい庇いたくなるような、たおやかで美しい――そう、まるでオフィーリアのようだと思っていたのに。  あんなふうに男を誘う淫蕩な表情は見たくなかったし、知りたくもなかった。自分の恋したテディはただの幻影で、それはオフィーリアのように本当にあの柳の陰で死んだのだ、とマコーミックは思った。  中庭を駆け、小高い丘のようになったところでいったん足を止めて振り返る。  そして、またゆっくりと歩きだしたマコーミックの眦に、儚い恋の残滓が光っていた。

ともだちにシェアしよう!