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Year 10 / Summer Term 「ボーイズ・トーク」
略してGCSEと呼ばれている中等教育修了試験 は、二十四ほどもある科目のなかから必須である基本科目と選択科目を合わせて十一科目、パスしなければならない。といってもこれは学校によって違うが、一科目ごとに試験は二、三回あるので試験の回数は少なくても二十数回、多い場合は三十回近くにもなる。
試験は五月の初め頃から六月末まで約一ヶ月半以上もかけて行われるが、すべてをY11 のこの時期に受けなくても希望すればY10 から受けることができるし、後に改定されるまでは良い結果がでなかった試験を受け直すことも可能であった。なので、ルカのように取れるものは早めに取ってしまおうと計画する生徒が多く、教師のほうからそれを奨められることもある。
ルカは計画どおり、英語、ドイツ語、数学、物理、音楽と五科目を受けるため日々勉強に勤しみ、試験本番に臨んだ。英語、英文学、ドイツ語、地理、音楽を取ったテディの勉強をみながらだったが、日頃の積み重ねが功を奏したらしく手応えは充分だった。
ただやはり、授業も勉強も疎かにしていたテディは試験を終える度にがっくりと肩を落としていた。ルカはそんなテディを支え、また次があると、気分が塞がないよう明るく慰めた。
「試験、とりあえずおつかれさまでした。大変だったんじゃないですか? ハムレットやって試験勉強もやってじゃあ」
試験期間が終わると、ジェシがお菓子を山ほど持ってまたルカたちの部屋に通うようになった。ジェシはルカたちのことを愛称で呼ぶようになってはいたが、話し方は丁寧なままだった。
「ああ、ハムレットの稽古のときはちょっと大変だった。さすがに疲れきって部屋に戻ってから勉強するのはきつかったよ。俺らいっつも音楽かけながら勉強してるんだけどさ、バーズやゾンビーズなんかかけてると気持ちよーくなってきて、ついこっくりこっくり……」
「あははは、ゾンビーズはよく眠れそうですねえ。キンクスやストーンズも音はわりと静かだし……いちばんがちゃがちゃうるさいのは意外と、初期のビートルズかもしれませんね」
「おまえ、天下のビートルズをがちゃがちゃうるさいって」
「ふふ、でも確かに声も音もわっと前にでてくる感じはするし、イントロでがつんとくるのも多いよね」
ジェシはルカとテディからCDを借り、ラジオを聴き、誰かがコモンルームに棄てていった音楽雑誌などを読んだりして、かなり音楽――それも、六〇年代、七〇年代頃のロックに関する知識をつけてきていた。
音楽室で会えばピアノやギターを鳴らしながら、こうして部屋に来ればCDをかけながら尽きることなく話をし、まるで乾いたスポンジが水を吸いこむようにいろいろなことを吸収した。
ルカは自分の好きなアルバムを貸しては感想を聞くのを楽しみにしていたし、テディは音楽の話をしているだけで目を輝かせ、笑みを溢していた。
「……あの、いつもちょっと気になってたんですけど」
ある日、ジェシが持参したビスケットの缶を開けると、テディが炭酸よりもお茶がいいねと云いだした。そしてティーポットを手にテディが部屋を出たとき、ジェシはふとそう切りだし、ルカに尋ねた。
「僕、こんなふうに暇さえあればおふたりのところへ来てますけど……えっとその、お邪魔だったりしないんですか。もし来すぎだったら云ってくださいね。もうちょっと控えるようにしますんで」
ジェシがそう申し訳なさそうに云うのを聞いて、ルカは笑った。
「ああ、そんな心配はまったくいらないよ。もし邪魔なら早く帰れってちゃんと云うから安心しなって。――っていうよりさ……」
ルカは笑みを苦笑に変えると、声のトーンを落とした。
「ジェシがこうやって来てくれるのは、むしろありがたいんだ……。実はこのところ、テディが、ちょっと元気なくてさ。試験が思うようにいかなかったのとか、いろいろあるんだと思うんだけど……。でもあいつ、音楽の話してるときだけはすごく楽しそうだからさ。だから、そんな気遣いはほんとに必要ない。むしろ俺のほうから来てくれって頼みたいぐらいだよ」
「そう……なんですか? 元気がないって……僕には、全然そんなふうには見えないですけど」
「うん、だから音楽の話ばかりしてるからだよ。ジェシがいないとき、普通に勉強したりお菓子を食べたりしてるときはあんまり喋らないし、あんなふうに笑ってる顔も見せてくれなくて……。やっぱり、まだなんか悩んでるんだよな……」
「そうなんですか……心配ですね」
「夜も相変わらず寝つきが悪いみたいだし、一緒にベッドに入ってやるとなんとか眠りはするんだけどな。でもそれだけで、ずっとおあずけ喰らってるんだよ。ちゃんと我慢してる俺って、ひょっとしてかなり偉くない?」
片肘をついて気怠くそう愚痴るルカの話を、ジェシはふむふむと頷きながら聞いていたが――
「はあ、そうなん……で、ええええっ」
意味がわかった途端、真っ赤になって狼狽した。
「な、な、なに云ってるんですか! そっ、そういう話はそんなふうに他人 にするもんじゃ――」
「わかってる。ジェシにしか云わないよ」
「僕もだめですっ!」
むすっと口先を尖らせたルカに、ジェシは困った顔で云った。
「いや、すみません……。でも、僕みたいな年下の人間にそんな話をふられても……誰かそういう、恋愛の機微に通じた先輩とか階上 にいないんですか?」
脳裏に現寮長 であるミルズの顔が浮かび――ルカはますます不機嫌な色も露わに、片肘をついたままふいと外方を向いた。
「え、なに、どうしたんですか……僕、なにか気に障るようなこと云いました?」
「いや、ジェシは悪くない。ただ知らずに俺の地雷踏んだだけ」
「地雷!?」
そこへテディがようやく戻ってきた。ルカはちら、とジェシを見て合図を送り、ジェシは小刻みに何度か頷いて返した。テディの話をしていたことは云わない、という不文律を確認し合ったのだ。
テディは「なんの話?」と云いながらテーブルにティーポットを置き、その傍らに端を寄せてきゅっと捻ってある、なにかが包まれたサーヴィエットを置いた。
「ん、たいした話じゃないよ……なんだこれ?」
「トフィーだよ。寮母さんがくれたんだ」
「わあっ、ラッキーでしたね!」
冷蔵庫から出してきたミルクとティーポットの紅茶をテディがマグに注ぐ。ジェシは早速とサーヴィエットの包みを開き、ルカはかちゃりとポータブルステレオのイジェクトボタンを押して、CDを取り替えた。
いただきます、と礼儀正しくジェシが云い、マグに口をつけながら、流れ始めた音楽に耳を傾ける。
「これはなんですか? なんだか今まで聴かせてもらったのと、少し違う感じですね」
「これはドアーズ。一九六七年の、デビューアルバムだよ。ちょっと独特っていうか、重いし暗い感じがするかもね」
「それに、アメリカのバンドだっていうのもあるんじゃない?」
「へえ、アメリカのバンドなんだ。おふたりはブリティッシュロック専門かと思ってましたよ」
「そんなことはないよ、いいと思えばなんだって聴くよ。ルーツへ遡っていってシカゴブルースなんかも聴くようになったし」
「っていうか、さっき聴いてたバーズも、このあいだ貸したザ・バンドもイギリスのバンドじゃないよ?」
「えっ、そうなんですか!? 僕、てっきり六〇年代のあの、イギリスのバンド勢のなかのひとつかと――」
「バーズは確かにそこに入れても違和感ないよね。特に初期は」
「まあもともと、アメリカの音楽をルーツにしたイギリスのバンドがアメリカで爆発的にうけたのが『ブリティッシュ・インヴェイジョン』って呼ばれてるんだから、そこにアメリカのバンドを混ぜてもわからないのは当たり前かもしれないけどね」
「そうだね。それにザ・バンドはメンバーのほとんどがカナダ人だし」
ふうん、と感心しながらジェシは話を聞いていた。
「まあ、どこのバンドかなんてどんどん曖昧になったんだよきっと。デレク・アンド・ザ・ドミノスもエリック・クラプトン以外はみんなアメリカ人だしな」
「エリック・クラプトン……って、有名な人ですよね」
「世界三大ロックギタリストのひとり、ギターを咽び泣かせる名手だよ」
「ヤードバーズ、ジョン・メイオール& ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインドフェイス、デレク&ザ・ドミノスと渡り歩いて、結局ソロで落ち着いた人なんだよなあ」
「意外とクリーム時代が長いんだよね……っていっても、二年半ほどなんだけど」
「ジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの仲がもともと悪かったことを思えば、充分続いたほうだよな」
「へえぇ、仲が悪いバンドって、ほんとにあるんですね……ちなみに、世界三大ギタリストのあとふたりって?」
「ジミー・ペイジとジェフ・ベック」
ルカはそう即答したが、テディはうーんとなんだか気に入らなさそうな表情で、こう云った。
「……五大ギタリストを訊いてくれない? この話題で名前を挙げられないのが、どうしても納得いかない」
「ん? あとふたり……ああ」
ルカはすぐに思い当たったようだが、ジェシにはまだわからなかった。ルカとテディは顔を見合わせ、呼吸を揃えてそのふたりのギタリストの名前を云った。
「「……ジミ・ヘンドリックスとキース・リチャーズ」だろ? やっぱり」
ジェシはぷっと吹きだした。
「本当にいいコンビですねえ。ところで、おふたりは夏――」
なにか云いかけていたジェシが、まるでビデオを一時停止したかのように黙った。ルカとテディは顔を見合わせ小首を傾げる。ジェシは、ほんの数秒ぽかんと口を開けたままだったが――ステレオからジム・モリソンのヴォーカルが聞こえてきた途端、勢いこんでルカたちに尋ねた。
「な――なんていう曲ですかこれ!! この、今のイントロのキーボード……!」
その言葉を聞いてルカとテディは再度顔を見合わせ、ああ、と納得したように笑みを浮かべて頷いた。
「ジェシって、やっぱりいい耳してるよね」
「うん、さすが長くピアノをやってるだけのことはあるよな。――〝ライト・マイ・ファイア〟、ドアーズのいちばんの名曲だよ。キーボードを弾いてるのはレイ・マンザレク、使われてるのはVOX コンチネンタルっていうトランジスタ・オルガンだっけ」
「トランジスタ・オルガン……」
ジェシはそう呟いたきり黙りこみ、集中して曲に聴き入っていた。ルカとテディはその邪魔をしないよう、静かにミルクティーを飲み、トフィーをつまんでいた。
ジェシはやはり鍵盤楽器 の音に敏感なようで、これまでにもゾンビーズのメロトロンやビートルズのアルバム〈Let It Be 〉でビリー・プレストンが弾いているローズピアノに鋭く反応し、目を輝かせていたりしたのだ。
曲が終わるとジェシははぁーっと大きく息をついて、「弾きたい……欲しい……」と呟いた。それを聞いてルカが「え?」と目を瞠る。
「欲しいって、VOXコンチネンタル?」
「このあいだはジェシ、フェンダー・ローズが欲しいって云ってたよね」
どうやらジェシは曲というより演奏に感動して、その音を出している楽器を自分でも鳴らしたくて堪らなくなるらしい。
「ええ、僕、なんかこういう……ちょっとノスタルジックな、含みのある音が大好きみたいです。弾きたいなあ、今でもありますかね? あったとしても、やっぱり高いのかなあ……」
「楽器の値段まではよく知らないなあ。でも、ピアノほどはしないんじゃないかと思うけど」
「だな。それに、まったくないことはないんじゃないか? よくあるだろ、発売何年記念とかって限定で復刻版が出たりとか」
「あー、ありそうですね! ……いいなあ、欲しいなあ……」
はぁ……と溜息をつくジェシに、ルカは笑った。
「親にねだればいいじゃないか。再来年、GCSEでAを三つ以上取ったら買ってくれって云うとかさ」
云ってからルカは、しまった、という顔になってちらりと横目でテディを見た。それに気がつき、ジェシもテディの表情をそっと窺ったが、テディは特に顔色を変えた様子もなくトフィーを齧っていた。
「そういえば、さっき訊きかけてたんですけど……おふたりは、夏はどう過ごすんですか?」
ジェシが自然に話題を変え、ルカはほっと肩から力を抜いた。
「あ、ああ……夏は、うちの家にテディを招待したんだ。今、保護者の許可とかいろいろ手続き中」
「えっ、そうなんですか? いいなあ、だってヴァイナル盤がいっぱいあるんでしょう? 僕も行きたかったです」
「ジェシはどうするのか、もう決まってるのか?」
「僕はサマースクールです……三週間コースで、スイスに」
スイスと聞いてルカはうわぁ……と渋い顔をした。環境が良く人気もあるが、スイスのサマースクールは非常にレベルが高いともっぱらの評判なのだ。
「そんな顔しないでくださいよ。祖母が厳しくて、どうせどこかに参加するのならいいところに行きなさいって……。サマースクールが終わったらマンチェスターに帰ります」
「スイスかあ……。確かに、空気や景色はいいところなんだろうけど」
「いえ、評判とか、人に自慢ができるほうの意味の『いいところ』だと思います……」
「あ、やっぱり?」
三人は紅茶とお菓子が尽きるまで話し続け、消灯まであと一時間を切った頃にジェシはルカたちの部屋を後にした。
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