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Year 10 / Summer Holidays 「ブランデンブルク邸」

 ブランデンブルク邸はブリストル中心地から少し北北西の、緑溢れる静かな郊外にあった。  ブリストルはイングランド南西部にある港湾都市である。  十三世紀頃から港町として発展し、貿易に加え製造業も盛んであり、工業都市としての顔も持っている。市街地は第二次大戦中にかなりの被害を受けたが、ブリストル大聖堂やテンプル・ミーズ駅、クリフトン吊り橋など、現存している美しい建造物も多くある。  イヴリンはブリストル・ミュージアム(アンド)アートギャラリーやブリストル大学など名所が見える道をわざわざ選んで通り、街の案内をしながら車を走らせ、高級住宅街を抜けて緩い坂道を上っていった。広い芝生と舗道沿いに並ぶ木々の向こうに、ちらりちらりと大きな屋敷が何軒か見え隠れする。  ルカと並んでリアシートに坐り、ずっと窓の外を見ていたテディは、その方向へ伸びるカーブを車が進んでいくのに気がつくと少し驚いたようにルカを見た。 「ん? 家はもうすぐだよ。疲れた?」 「ううん……」  もうすぐだと聞いて、やはりさっき見えていたあの辺りの屋敷のなかのひとつなのだと、テディは思った。敷地内に別棟だとか聞いていたので想像はしていたが、思っていた以上に大きな屋敷かもしれない。  白いメルセデスは細い脇道へ入っていき、少し勾配のきつくなった道をそのまましばらく進むと、やがて高い塀と鉄柵の門の前に停まった。 「俺開けてくるよ」と云ってルカが車を降り、背の倍ほどもある両開きの門扉をほぼ全開にする。イヴリンが車を進ませ敷地内に入るとルカは扉を閉め、また車に乗りこんだ。  まだ建物もなにも見えないが、いったいどれだけ広いのだろう、とテディは茫然として前方に続く細い舗道を見ていた。  バーネットの小説に出てきそうな緑のトンネルを抜けると、ようやく塔のような円錐形の屋根が印象的な、大きな屋敷が見えた。大小連なる切妻屋根がレトロな雰囲気を残した、石煉瓦の鈍色と外壁のモスグリーンに(ひさし)や窓枠など部分使いされた白が映える、美しいエクステリアだ。  以前ルカが云っていたように、建物自体はヴィクトリアン様式の古いものだが現代的なセンスでリノベーションされていて、ここに来るまでに見えた荘厳な家々とは趣が違っていた。 「さあ、着いたわよ」  フロントポーチまで続く小径(こみち)の手前でイヴリンは車を停め、ルカに向かって「先に行ってて。私は車庫に車を入れてくるから」と云い、トランクを開けた。云われたとおりルカとテディが荷物を下ろすと、イヴリンはすぐにそのまま車を進ませた。それを見送り、テディがなんとなく視線をあげると、その先に鈍色の屋根と白い庇が木々のあいだから見えた。どうやらこの先にイヴリンとその家族が住むという別棟があるらしい。  いつもの黒いリュックサックを左肩にかけラゲッジを押しながら、テディはルカについて曲がりくねった煉瓦道を歩いた。両側にはきちんと手入れされた植え込みがあり、彫刻の施された鉢植えなどがたくさん飾られている。  色とりどりの花々に注ぐ陽の光、ハナアブや蝶、小鳥の囀り――テディはその眩しさに目を細め、フロントポーチの階段の途中で思わず足を止めた。 「ん? どうしたテディ」 「……なんでもないよ」  本当に、ここへ来てよかったのだろうか。ふとそんなことを思ったが、テディはすぐにそう考えたことを振り払うように歩を進めた。  確実にクレアしかいない時間を狙って電話をかけ、その場でホームステイすることを了承してもらい、早急に学校とも話をしてもらえるよう頼みこんだのだ。そのおかげで、少なくともこの夏はもうデニスに会わなくて済む――テディはふぅ、と息をつき、扉の前で立ち止まり自分を待つルカに追いついた。ルカは小さなボタンを押してブザーを鳴らすと、応答は待たずにその扉を開けた。  すぐにぱたぱたと軽い足音がして、ルカと同じ色の長い髪を揃いのリボンで束ねたふたりの女の子が、ひょっこりと顔をだした。同じ髪型で同じ淡紫色のワンピースを着たそのふたりは、まるで鏡に映したようにそっくりな顔をしていた。 「おかえりなさい、ルカ」 「その人がルームメイトのお友達? ……素敵」 「あー、どけどけ。ロティ、レクシィ、失礼だろ。挨拶は?」  ルカがそう窘めると、ふたりの女の子はそのどことなくルカに似たはっきりとした目鼻立ちをテディに向け、にっこりとおしゃまに微笑んだ。 「いらっしゃい、ようこそ。私、レクシィよ、よろしくね」 「私はロティよ。歓迎するわ。どうぞ、自分の家だと思って楽に過ごしてね」 「ああ……どうも。よろしく……」  いっぱしのレディのような気取った口の利き方をする少女たちに、どう返せばいいのかと迷いながらテディが中途半端な挨拶をすると、ルカは「面倒臭いけどあらためて紹介するな」と、その同じ顔をした小さな淑女たちを指した。 「俺の妹たちだよ。見てのとおり双子なんだ……そっちがアレクサンドラ‐ニコル、レクシィだ。こっちはシャーロット‐アン。ロティって呼んでやってくれ。――彼はセオドア・ヴァレンタイン。俺のルームメイトだ。おまえら、うるさくするんじゃないぞ」 「失礼ねルカ。おもてなしをしているのよ」 「夏のあいだずっとここにお泊まりするんでしょう? 私、いっぱいお世話してあげるわ」  どうやらロティは早速テディのことを気に入ったようだった。やや気圧されて立ち尽くしているテディを、ルカはエントランスホールの中程へと促した。そのあいだもレクシィとロティのふたりは「お荷物、持ちましょうか」「お部屋に案内してあげるわ。こっちよ」とテディに纏わりつき、ルカは虫を追い払うような仕種でふたりを引き離した。 「おまえら、いいかげんにしろよ。……ところでおふくろは?」 「知らない」 「もう来るでしょ」 「どこにいるか聞いてるんだよ」 「テラスのほうのリビングかしら」 「ううん、ダイニングでお茶の用意よ」 「キッチンの?」 「ううん、テラスのほうの」  どうやらリビングもダイニングもひとつではないらしい。そうか、とルカがテディの背中を押し、屋敷の奥のほうへ行こうとすると、テディは「え、荷物は……」と振り返って、エントランスに置いたままのラゲッジを見た。 「ああ、あそこに置いとけばいいよ。あとで運ばせるから」 「って……」  まさか親やイヴリンに運ばせると云ったわけではあるまい。使用人がいるのだ――そういえばバーミンガムの祖父のところにもいたなと思いだし、テディは別に驚くほどのことじゃないのだと自分に言い聞かせた。  セント・ローレンス・ウィンスタンリー・カレッジの生徒のおそらく半分ほどは、これと似たような環境で育っているのだ。めずらしいことでも、驚くようなことでもない。テディは思った――片親で住処を転々としてきた、自分のような者のほうがめずらしいのだ。  楽な恰好に着替えたりもしたいのでいったん部屋に戻ると云い、ルカが自室に引っこむと、ひとりになったテディはようやく緊張を解き、自分のために用意されていた部屋で大きく息をついた。  ファーストフロア(二階)の一角にあるその部屋は、広さは祖父のところにいたときに使っていた部屋とさほど変わりはなかったが、大きな窓と真っ白い壁の所為か、眩しさを感じるくらい明るかった。バーミンガムの屋敷は古色蒼然というか、全体的に暗く重苦しい雰囲気だった。ここはまったく違っていた――カーテンやベッドスプレッドなどのテキスタイルは品の良い淡い色調の花模様で、ソファやキャビネットなどの家具もシンプルでモダンな、明るい色のものばかりだった。  ダイニングで挨拶をしたルカの母アドリアーナは、さすがルカとあの双子の母親だと思わず納得してしまうような、美しい人だった。アドリアーナは紅茶と、イヴリンが作ったというチェリーとアプリコットのタルトをふるまいながら、テディに学校でのルカのことを尋ねた。皆に好かれていて面倒見が良く成績もいいと、テディは訊かれるままに話した――もういいだろとルカがうんざりしたように云うとアドリアーナは、だってあなたがちゃんと話してくれないから! と息子を睨んだ。  アドリアーナが母親として、自分の目の届かないところでの息子がどんなふうなのか、とても心配しているのがよくわかった。親子が軽く口喧嘩をしているのを見てテディはくすっと笑い、このあいだのハムレットも堂々としていて、すごくよかったですよと付け足した――アドリアーナは大層喜んだ。ルカは、少し不思議そうな顔をして自分を見ていたが。  そのあとイヴリンが来て、屋敷のなかを簡単に案内してもらった。そのとき偶々会った三人の使用人たちにはもう紹介してもらったが、ルカの父や祖父母、曾祖母と、イヴリンの夫――イヴリンの息子のマクシミリアンはサマースクールでドイツに行っていて、二週間は戻らないそうだ――の五人と顔を合わせるのは夕食時になるとのことだった。そのかわりではないが、大事な家族の一員であるペットたちに紹介すると猫たちのための部屋に案内された。  そこには二匹の猫がいて、壁の高い位置にぐるりと設えられたキャットウォークからテディをじっと見下ろしていた。庭に向いた窓は開け放たれていて、あと四匹いるという今部屋にいない猫たちは、どうやら外で日向ぼっこをしているらしい。  その反対側、広い芝生の見えるテラスのあるリビングには、大きな白い犬が二匹いた。ルカが、やんちゃそうな顔したほうがツコル、甘えん坊な垂れ目のほうがテイだよと紹介してくれた。テディには二匹の見分けなどつかなかったのだが、どうやら一頻り匂いを嗅いだあとぱたぱたと尻尾を振って懐いてくれたのがテイらしい。ツコルのほうはまだテディを敵か味方かと見定めているようで、こっちから近づいていくと低く唸り声をあげられた。  ルカに叱られてツコルはしゅんと伏せてしまったが、テディはすぐに懐いてきたテイよりも、そんなツコルのほうに興味を持った。  自分に似ていると、心のどこかで感じたのかもしれない。        * * *  家族が勢揃いした夕食の席では、さすがに緊張して食事の味などまったくわからなかった。  そもそも、学校の食堂以外でこんなに大勢と一緒に食事を摂ることなど、今までまったくなかったのだ。しかも、友人ということにしてある同性の恋人の家族である。食事のあいだじゅうずっと注目を浴び、順番待ちをしているかのように次々と質問をされ続けて、テディは来たことを後悔してしまうくらいに疲弊してしまった。  なにを食べたかよくわからないまま皿が片付けられ、代わりにデザートとコーヒーが出てくるとテディはやっと食事が終わるんだとほっとしつつ、しかし明日からも毎日この調子なのだろうかと不安になった。  すると、ルカの父のクリスティアンが、よく通るはっきりした声で云った。 「ところでテディ。今日の夜食はなにがいい?」 「え? ……夜食、ですか?」  たったいま夕食が済んだばかりでまだ眼の前にデザートがあるというのに、夜食のことなど考えられるわけがない。いったいどういうことだろうとテディが途惑い、返事に困っていると、クリスティアンはにっと人懐っこい顔で笑った。 「食った気なんかしないだろ。安心していい、明日の朝食からは年寄りと俺ら夫婦と若者は別々だ。だいたい、起きる時間も違うしな。年寄りなんかメニューだって違うんだ。こんなふうに全員揃って食事なんて、そもそも滅多にないんだよ。今日は特別だ……ま、あれこれ訊かれて鬱陶しかったろうが、もうこれきりだ。明日からは好きな時間に、好きな場所で食えばいいぞ」 「私たちは一緒でいいのよね」 「どこで食べるのが気持ちいいか、テディに教えてあげるわ」  双子たちがそう云うと、クリスティアンは人差し指を立ててワイパーのように振った。 「だめだよ、ロティ、レクシィ。テディはルカのお客だ。テディのことはルカに任せとけ。おまえたちがテディと一緒に過ごしたいならそのときは、ルカに都合を訊くんだね」  それを聞いて、双子たちはぷうっと膨れた。 「ああ、そうそう。云い忘れていたけど――」と、アドリアーナがルカの顔を見る。 「家庭教師(チューター)を頼んであるから、明日からしっかり勉強するのよ」 「えぇ!? そんな話聞いてないぞ――」  ルカが驚き、抗議の声をあげるとアドリアーナは「だから今云ってるんでしょう」と目を吊りあげた。 「だいたい、忙しくてサマースクールを申し込みそこなったなんて……もっと早めに云ってくれれば、こっちでグシュタードでもどこでも取っておいたのに」 「スイスかよ、勘弁してくれ」 「ひと夏まるまる遊ばせるわけにはいきませんからね。しょうがないから、知り合いの息子さんにおねがいしたのよ。ブリストル大学の教育学部に在籍してるそうなの。ちょうどアルバイトを探してたらしくって、すぐに引き受けるって返事をくれたわ。――そういうわけなんで、テディ、あなたも一緒に勉強してね。月曜から木曜の午前中、ほんの三時間ほどのことだから」  はあ……と、テディがどう返事をすればいいのかわからずにいると、ルカが思いきり不満そうな顔でこっちを見、口許を歪めた。テディは苦笑し、「いえ……ありがたいです」とアドリアーナに答え、うんざりしたように天井を見上げて頭を振るルカを見てくすくすと笑った。 「うん、よし。トルコ料理にしよう」  突然、クリスティアンがそんなことを云いだした。テディが小首を傾げていると、「あんたずっと夜食のこと考えてたのかよ」と、ルカが呆れたように云った。  ルカは親に対しても、まるで友達に向かって話すような喋り方だ。そして、誰もそれを咎める素振りもない。 「トルコ料理か、そりゃあいい。クリス、俺も付き合うよ」 「あら、じゃあ私も連れてってよ」  フランツとイヴリンがその案に乗り、どうやらおとな組は夜が更けたら美味しいケバブが食べられるダイニングバーへ出かけることになったらしい。 「ねえ、でも私たちが帰ってきた頃には、ルカたちもう寝てるんじゃない?」 「うん? 零時過ぎには帰ると思うけど……そんなに早く寝るのか? せっかくの休みなのに」  今日は少し疲れたので早く眠ると思うとテディが答え、夜食のトルコ料理は結局、また今度ということになった。

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