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Year 10 / Summer Holidays 「距離感」

 こんこんとノックの音がして、テディはびくりと顔をあげた。  広い部屋のなかは薄暗く、ベッドサイドのフロアランプがその一角だけを照らしている。バーへ出かけたおとなたちを除けばみんなもう眠っているはずの、静寂に包まれた時刻だった。 「テディ……俺だよ。まだ起きてる?」  細くドアが開いてパジャマ姿のルカが顔を覗かせると、テディはほっと息をつき、読んでいた本を傍らに伏せた。 「うん、起きてたよ……本を読んでた」  ベッドのヘッドボードに並べられたクッションに凭れ、テディがそう返事をすると、ルカは部屋にそっと入ってドアを閉めた。 「やっぱり。そんな気がしたんで来てみたんだ……また眠れないのか?」 「……読んでるうちに眠くなるかと思って」  ルカはベッドの端に腰掛け、伏せてあるペイパーバックの表紙を見た。――〈The Greene(グリーン家) Murder Case(殺人事件)〉というそのタイトルに、ルカは呆れたように溜息をつく。 「おまえ、ほんとにこういうの好きだな。こんなの読んでて眠くなるもんなのか?」 「ううん、実を云うと、ちょっと怖かった」  苦笑しながらそう云うと、ルカはベッドに上がってきてテディにぴたりと身を寄せて坐った。 「ただでさえ寝つき悪いくせに。不慣れな場所で枕も違って、そのうえ怖いの読んでたらそりゃ眠れないだろ。ばかだなあ」 「うん……でも、不慣れな場所っていうのは、別に大丈夫なんだ」 「そうなのか?」 「知らない土地へ行くのも新しい部屋に移るのも慣れてるからね……。どっちかっていうと自分のいちばんの場所とか、帰って落ち着けるところっていう感覚がわからないんだ」  生まれ育ったところの記憶などもうまったくなく、断片的に思いだす幼い頃に過ごした家のなかの様子も、いったいどの記憶がどこのものなのか曖昧だった。何処で暮らしていたときも、部屋のなかは似たようなものだった所為だろうか。まるで古いキャンバスの上から新しい絵を塗り重ねたように、以前はどうなふうだったかがどんどん薄れ、消えてしまっているのだ。  いちばんよく憶えているのは最後に暮らしたヴロツワフだが――いずれにせよ、帰りたい場所だとかほっとできる我が家などという感覚は、テディにはあまり縁のないものだった。 「今はやっぱり(ハウス)の部屋がいちばんほっとできるはずなんだけど……夜中の見廻りさえなければね」  そう云って、テディはルカを見た。ルカは、なんだか辛そうにも見える、難しい表情をしてテディを見ていた。どうしたんだろうと不思議に思い、テディは小首を傾げた。 「……ルカ? どうかしたの」 「いや……なんでもないよ」  なんでもないと云いつつ、ルカはまだなにか考えこんでいるような、真剣な顔をしたままテディを見つめ続けていた。 「ルカ……?」 「テディ……もう寝な。今日は疲れたって云ってたろ。ほら、眠るまで俺、ここにいてやるから」  ――ルカとは夏季(サマー)タームに入ってからずっと、恋人らしいことをなにもしていない。  イースターの休みから戻った日。ルカが当たり前のようにおかえり、とキスしてきたとき、テディは思わず泣きだしてしまった。それはほっと気が緩んだ所為だったのかもしれないし、デニスに散々犯された自分がこんなふうにキスされる資格なんてないと、絶望した所為だったのかもしれない。  その後、ルカが〈ハムレット〉で忙しかった所為もあるが、ふたりは別行動が多くなった。テディはジェレミーたちと過ごす時間が増え、五月末のハーフタームから戻ったときに二度めの告白とも云えるルカの宣言を聞いて仲が戻るまで、ふたりはキスは疎かハグすらしていなかった。  否、それからもまだ、ずっとキス以上のことはしていない。 「……おやすみの、キスは……?」  テディがそんなことをつい云ってしまったのは、ひょっとしたら罪悪感からだったのかもしれなかった。その一言でルカはがらりと相好を崩し、頬を紅潮させた。  ゆっくりとルカの顔が近づいてきて、テディは目を伏せた。  少し間があって、前髪を掻きあげられる感触がしたと思ったら、額に唇を押しつけられたのがわかった。テディは驚いて目を開け、不思議そうにルカを見た。ルカは優しく微笑みかけてくれていたが、テディがじっと見つめていると少し困ったように目を伏せた。 「……おやすみ、テディ」 「……おやすみ……」  なんとなくもやもやとした気持ちを抱えたまま、テディは横になり、フェザーのブランケットを引き寄せた。  以前なら同じように横たわって髪を撫でてくれたりしたのにそれもなく、ルカは傍らに坐ったまま、ただ黙ってそこにいた。        * * *  ブリストル大学で教師を目指すために勉強しているというフィリップ・ギルモアは、フィルと呼んでくれればいいよと気さくに挨拶し、すっと右手を差しだした。ルカはよろしく、と握手に応え、テディは少し俯き加減で小さな声ではあったが、ちゃんとルカに倣った。  かなり人見知りは直ってきていると自分では思っていたが、相変わらず初対面の挨拶などは苦手だった。  アドリアーナに案内され、三人は一家が普段使っているリビングやダイニングとは反対側の奥にある部屋に通された。  その部屋には大きなキャビネットが壁に設えられていて、中にはぎっしりと本が並んでいた。が、書斎という堅苦しい雰囲気ではなく、中央には大きな丸テーブルと椅子が五脚と、明るい窓際にはソファセットと小ぶりなテーブルもあり、ゆっくりと寛いだりもできそうだ。  この部屋って? とテディが小声で訊くと、ルカは読書室だよ、と答えた。フィルはしばらく感心したようにキャビネットの中の本を眺めていたが、ではよろしくおねがいしますね、とアドリアーナが改めて云い部屋から去ろうとすると、慌てたようにはい、お任せくださいとドアのところまで来て見送った。 「――さて、じゃあ始めようか。なにがいちばん苦手?」  並んで席に着いたルカとテディが顔を見合わせると、フィルは「あー、椅子、一つ空けて坐ってもらおうかな。たぶんそのほうが捗るよ」と云った。つい当たり前のように隣に坐っていたことに気づいて、テディは恥ずかしくなり下を向いた。ルカは「オッケー」と軽い調子で返事をし、すぐにひとつ右隣の椅子に移動した。  なにから始めようかとフィルが改めて訊くと、ルカがしれっと因数分解で躓いてるから数学からやろうと答えた。テディが目を瞠って顔を見ると、ルカは悪戯(いたずら)っ子のように舌をだして見せた。  そもそもルカのために呼ばれた家庭教師(チューター)なのに、なんで自分の不得意な教科からやらなきゃいけないんだ……とテディは初めおもしろくない気分だった。だが、フィルの教え方が巧く、何度も苦手なパターンの問題を繰り返し解いているうちに、そんなことはどうでもよくなった。コツがわかってきてどんどん解くのにも時間がかからなくなると、おかげでかなり苦手意識は消え去った。  勉強を始めてから、一時間半ほど経った頃。イヴリンが紅茶とケーキの差し入れに来てくれた。爽やかな風がカーテンを揺らす窓際のソファに腰掛け、ラズベリーのロールケーキと紅茶で暫しの休憩にする。  甘酸っぱいケーキとお茶で一息つきながら、既に受けたGCSE試験や不得意な科目について話をし、休憩後は歴史と地理をざっとやってみようということになった。  歴史は、それほど得意でもないが苦手でもない。数学をやっていたときと違い、テディはルカのほうの様子を窺う余裕があった。ちらりと顔をあげると、苦虫を噛み潰したような表情でくるくるとペンをまわしているのが見えた。思わずくすっと笑うと、ルカはむっとしたように口先を尖らせてテディを睨んだ。 「うん? どこがわからない?」  その様子に気づいたのか、フィルがそう云ってルカの手許を覗きこんだ。実力を見るためにと用意されたプリントは、まだほとんど白紙のままだった。  自分よりずっと成績はいいし、頭の回転も速いのに、どうしてルカは歴史と英文学だけは苦手なんだろうと、テディは小首を傾げた。すると、さすが教師志望というか、フィルが見事にその解答を云い当てた。 「ははぁ、君はあれだ。わからないんじゃなくて、わかろうと思えないタイプだね。その時代にどんな出来事があって、誰がなにをしたのかにそもそも興味が持てないんだ。そうだろう?」 「あー……うん、そんな感じかも」 「君が頭がいいんだから、なにかひとつ興味を持ってそこから掘り下げていくといいと思うよ。ちょっとハマってみれば歴史はとってもおもしろいんだ。好奇心を持って、ひとつひとつ疑問をみつけて知識を広げていってごらん。それからもっと大きな流れの、それがどの位置にあるのかって考えたほうがわかりやすい」  なるほど。この人まだ学生なのに凄いなあ、とテディは感心して聞いていたが――ふと、その立ち位置に目が行き、眉をひそめた。  フィルはルカの背後に立ち、左肩に左手を置いて、右手でプリントを指しながら話をしている。ひとつ置いて席に着いたのでルカの両側は空いていて、丸テーブルだから横から顔をだして教えたほうが自然だし、なんなら隣の席に坐ってしまえばいい。なのに、フィルはわざわざルカの背中に密着するようにして立ち、頭越しに手を伸ばして教えている。  ――テディの脳裏に、まだ正体をつかめなかった頃のデニスが浮かんだ。  あとから思えば不自然な、必要以上に接近したり触れたりする過剰なスキンシップ。しかし、繰り返されることで多少不快には感じても、まさか邪な気持ちでされているなど思いも寄らない。仮にその可能性がちらりと頭を過ぎったとしても、考えすぎだろうと自分のなかに浮かんだ疑惑を振り払ってしまう程度の、微妙な行為。  今フィルがやっているのは、まさにそういう接近の仕方に見えた。 「あの――、すみません。ちょっとここがわからないんですけど……」  思わずテディはそう云って、フィルをこっちに来させることでルカから引き離そうとした。考えすぎだろうと思いたいが、行為がエスカレートする前の段階がどんなだったかを知る自分の直感が、間違いなく今の立ち位置はおかしいと告げていた。  だが、咄嗟にそう云ったことをテディはすぐに後悔した――今度は自分が。ぴたりと背後に密着され、肩に手を置かれ、耳許に息が掛かるのを想像してしまい、テディは躰を強張らせた。手足の感覚がなくなり、すぅっと周りの景色が遠ざかっていく感覚に襲われる。 「どれ、どこがわからないのかな――」  だが、想像したようなことは起こらなかった――フィルはルカと自分の席のあいだに立ち、テーブルに右手をついてプリントを見下ろした。その距離感には不自然なところはまったくなかった。適当にわからないふりをした問題を解くヒントを示し、フィルはまたすぐにルカの傍へと戻った。  躰から緊張が解けて、ほっと息をつく。そして、フィルが今度はさりげなくルカの背中に触れているのを見て、テディは悟った。  ――この人は、ルカを標的(ターゲット)にしている。  好みなのかなんなのか知らないが、自分には目もくれず、ルカだけを狙っているのだ。  そういえば休憩前も、明らかに自分のほうが問題にてこずっているのに、フィルはルカのほうばかりを気にかけていた。間違いない――フィルは、デニスと同類の人間だ。  テディはそう確信はしたが、いったいどうすればいいのかわからない。ちらちらとルカのほうを盗み見ることしかできず、テディは震える手でペンをプリントに押しつけた。  まるで血が滲むように、インクが丸く広がった染みを作っていた。

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