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Year 10 / Summer Holidays 「シルバとアルマ」

 熱に浮かされ、苦しそうに歪めている寝顔を、ルカはずっと傍らで見ていた。  テディが倒れた瞬間、ルカは真っ青になって慌てふためき、大声で助けを呼んだ。真っ先に走り寄ってきたのはツコルとテイで、そのあとすぐにどこからかパメラが駆けつけてくれた。  パメラは一目見て状況を把握するとまずイヴリンに知らせ、イヴリンはテディの呼吸を確かめると男手を呼んで、いちばん近いゲストルームのベッドに運ぶように云った。  なにもできず、ただおろおろとテディを見つめているルカの肩にぽんと手を置き、イヴリンは大丈夫だから落ち着きなさいと云い、ファミリードクターの番号をコールした。  なにか悪い夢でもみているかのように、テディは苦悶の表情を浮かべて時折頭を振っていた。ベッドの傍に椅子を持ってきて腰掛け、ルカはずっとその様子を見ていた。  熱はあるものの、別に感冒に罹っているというわけでもなく、環境や生活の変化などからくるストレスや疲れの所為ではないかと医者は云った。階段から落ちたことによる怪我も、さほど高いところからではなかったのが幸いしたのか、少しの擦り傷と左腕と脛に痣をつくった程度で済んだ。  ルカは責任を感じていた――環境の変化、ストレス。自分がここに連れてきた所為で、テディは疲弊していたのだろうか。階段でテディが蹌踉めいたとき、あんなに傍にいたのにどうして自分はしっかり抱きとめて助けることができなかったのか。倒れてしまったテディを前に、何故なにひとつできずただ茫然としてしまっていたのか――。考えれば考えるほどルカは自分の情けなさを痛感し、自己嫌悪に陥った。  はぁ、と溜息をついたと同時に、控えめなノックの音がした。振り返ると、そっとドアを開けてイヴリンが顔を覗かせていた。 「どう?」とだけ尋ねてきたイヴリンに、ルカは首を横に振って答えた。 「まだ眠ってるよ……なんだか魘されてるみたいに動きはするけど。つらそうだ」 「そう……。ここはもうパメラに任せて、あっちへおいでなさいな。もうお昼を過ぎてるわよ」  グヤーシュを作ったから、と云うイヴリンにもう少しあとで食べると返事をし、ルカはまたベッドのほうへ向いた。イヴリンはなにも云わず、静かに部屋を出た。いつの間にか好奇心旺盛な猫たちが二匹、普段は使われていない部屋に忍びこんでいることには気がつかなかった。  鼈甲模様と、タキシードを着たような黒白柄の猫は、音もなくルカの足許まで来るとにゃあ、と鳴いた。 「シルバ? いつ来たんだおまえ。アルマまで」  ルカが気づいて話しかけると、シルバと呼ばれた黒白柄の猫はとんとジャンプしてルカの膝の上に乗った。ルカが頭や背中を撫でてやるとごろごろと喉を鳴らし、満足そうな顔をして膝の上でぐるりと向きを変え、蹲る。  錆猫とも呼ばれる鼈甲模様のアルマのほうは、どうやらベッドの上が気になるようだった。まだテディのことを見慣れていないからかとルカは思ったが、しばらくじっとベッドを見上げていたアルマは、突然想像もしなかった行動を取った。まるで獲物を狙うかのように重心を低くして構えたと思ったら、ルカがストップと叱る前にジャンプしてベッドに上がってしまったのだ。 「あっ、こら、アルマ――」  だが、アルマは別にテディを攻撃したりはしなかった。それどころか、ブランケットを握りしめているテディの左手を、ざりざりと舐め始めたのだ。これにはルカも驚いた。  アルマは熱心に、仔猫の毛繕いでもするかのようにテディの手を舐め続けている。 「う……ん」  程無く、テディが薄目を開けた。アルマは舐めるのを止め、テディの頭のほうに移動すると、今度は顔を近づけ口許に鼻を押しつけた。 「ん……えっ、なに――」  テディが身じろぎ、声をあげたのに驚いたのだろう、アルマはベッドから飛び降りた。ルカはテディがやっと目を開け、声を発したことにほっと息をつき、熱で少し潤んだ瞳を覗きこんだ。ルカが動いたと同時にシルバもとん、と床に降りる。 「テディ、気がついたか。具合はどうだ? おまえ、階段で倒れたんだぞ。覚えてるか?」 「階段で……」  起きあがろうとするテディを、ルカは慌てて肩に手を置き、止めた。 「あぁ、だめだよテディ。熱があるんだ……横になったままでいろって」  テディを寝かせ、ルカはそっと額に手を当てた。さっきよりは少し熱さが和らいだような気がした。 「医者が云うにはなにもたいしたことはなくって、ただの疲れだろうってさ。どうだ、なにか欲しいものはあるか? 喉、渇いてないか? 腹は?」  勢いこんで尋ねたが、テディはまだぼんやりと部屋を見まわしていて、返事をする気配はなかった。とりあえずイヴリンに知らせようと思い、ルカは「ちょっと待ってろな」と立ちあがってベッドに背を向け、ドアに向かった。 「ルカ――」  自分を呼びとめる弱々しい声と、どさっ、がたんというその音にルカは振り返った。そしてベッドから出て床にへたりこみ、倒した椅子に掴まってこっちを見ているテディに目を瞠る。 「! テディ――なにやってんだ」  ルカはすぐに駆け寄り、テディの背に手をまわして支えた。 「寝てなきゃだめだよ! 待ってろって云っただろ……なにかスープでも頼んで――」 「いやだルカ、行かないで……俺をひとりにしないで! ルカ、ルカ――」  まるで小さな子供のようにしがみついてきてそう訴えるテディに、ルカは途惑った。 「テディ、落ち着け。大丈夫、俺はどこにも行かないよ……イヴリンにおまえの目が覚めたって云ってくるだけだよ。すぐに戻ってくるから――」 「いやだ、いや――おねがい、一緒にいて……おいていかないで――」 「テディ」  これまでにも何度かこんなふうに不安を訴え、子供のように泣くテディを見たことはあったが、今回は特に異常な気がした。泣いてはいないが、なにかに怯えるように躰が震えている。躰の具合がよくない所為で気が弱くなってしまっているのだろうか、それとも、とびきり怖ろしい夢でもみていたのだろうか。  ルカは優しくテディを抱き留め、よしよしと髪や背中を撫でてやりながら困った顔で部屋のなかを見まわした。  ふと、ちょこんと坐ってこっちを見上げているアルマと目が合った。 「……テディ、大丈夫だよ。俺はちょっと部屋を出て、すぐに戻ってくる。そのあいだ、アルマが傍にいてくれるから」  名前を呼ばれたのがわかったのか、にゃーんとアルマが一声鳴いて寄ってくる。 「ほら、アルマが任せとけってさ。な? とりあえずベッドに戻って……」  肩を貸してテディをベッドに戻らせると、なにをどこまでわかっているのかアルマもちゃんとベッドに上がってきた。テディが不思議そうな顔でアルマを見つめるのを見て、ルカはもう一度云った。 「じゃあテディ。すぐに戻ってくるから、それまでアルマと一緒におとなしくしてるんだぞ。さっきイヴリンがグヤーシュを作ったって云ってたけど、食えそうか?」 「グヤーシュ……」  パンとグヤーシュを少しもらうと答えたテディにほっとし、椅子を置き直すと、ようやくルカはその部屋を後にした。  その跡を、シルバがとことことついていった。

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