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Year 11 / Autumn Term 「痴話喧嘩」
翌朝。
アラームの音でルカが目を覚ましたとき、テディのベッドは既にもぬけの殻だった。
抜け出たときのままブランケットが撥ねられたベッドに手を触れると、もうすっかり冷えきっていた。自分もなかなか寝つけなかったが、テディもやはり眠れなかったのだろうか。
夏期休暇 が終わったばかりだが、イギリスの九月は寒暖の差が激しく、夜はかなり冷える日もある。まだ陽の昇らないうちに外に出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか、ちゃんと暖かいところにいればいいけれどと心配し、本当に保護者みたいだなと苦笑する。
そういえば、おまえには俺がいなきゃだめだ、なんてことも云ったっけ――と思いだしながら、ルカはいつもどおりに身支度を始めた。
テディは食堂に現れず、教室にも姿を見せなかった。二時限めまで待ち、ルカは次の授業――英文学だった――はすっぽかして捜しに行こうと決めた。
部屋に制服はなかった。ベッドは冷たかったが、テディが出ていったのは明け方頃で、どこかで時間を潰してから授業に出てくるつもりだったのかもしれないと、ルカは思った。
ということは、今はまたオークス寮 のジェレミーとかいう奴のところだろうか。気に入らなかったが、ひとりで構外に出たり、森のなかをふらふらと彷徨って朝露に濡れているのを想像するよりはましな気がした。
問題は、そこにいるのをどうやって確かめればいいかということだった。オークスとビーチズほどではないが、別の寮の住人同士はなにかと競ったりすることが多い所為か仲が良いとは言い難く、他の寮に立ち入ることはほとんどの場合許されない。こっそり忍びこむにしても、どの部屋なのかがわからない。
困ったな、と考えこんでいると、いつの間にか授業が終わっていたらしい。がたがたと席を立ち、ぞろぞろと教室を出ようとする人波を見やり、ルカはとりあえず自分も教室を出ようと立ちあがった。
そして、ふと目についた、人波の最後尾を歩く頭ひとつ分大きな後ろ姿を見て「マコーミック!」と呼びとめた。
考える前に声がでていた。マコーミックがくるりと振り返り、怪訝そうな目でこっちを見る。――ルカは考えた。先にいつものようにあちこち捜しまわって、それでもみつからなかったらオークス寮へ行こうと思っていたが、こうなったら別にどっちが先でもかまわない。
「なんだ、ブランデンブルク。なにか用か」
「ああ、その……オークス寮にジェレミーって奴がいるはずなんだけど、知ってるか?」
そう訊くと、マコーミックは少し首を傾げて考えこむような顔をした。
「ジェレミー……、ジェレマイア・ドナヒューか?」
「フルネームは知らないんだ。でもたぶん、そいつだと思う。すまないが、ちょっと部屋を教えてほしいんだ、わかるか?」
「部屋? しかし……用なら教室のほうへ行くか、でなければ寮監に――」
眉をひそめながらそう云いかけ――マコーミックは突然、なにかに気がついたように目を瞠り、ルカの肩を掴んだ。
「まさか、ヴァレンタインを捜しに行くのか?」
「おい、なにやってんだ!」
教室のすぐ外にいたらしいエッジワースとオニールが、声をあげ駆けこんできた。どうやらルカを待ちながら中の様子を見ていて、喧嘩かなにかだと勘違いをしたらしい。ルカはマコーミックの手を払い、その手をエッジワースに向けて制した。
「なんでもないよトビー。ちょっと、マコーミックに頼み事をしてたんだ。俺はまた次の授業抜けるから、ふたりで息抜きしてきてくれ」
「マコーミックに?」
不思議そうな顔をするエッジワースを、オニールがわかったと返事をして連れていった。やれやれと息をつき、再度マコーミックに向き直る。
「話の続きだけど……そうだ。テディを捜したいんだ。オークスのジェレミーって奴と最近仲がいいみたいで、今もひょっとしたらそこかもと――」
「ヴァレンタインがジェレマイア・ドナヒューとだって? それは本当なのかブランデンブルク、本当にあんな奴の部屋にヴァレンタインがいるかもしれないって云うのか?」
その云い方に、ルカはどす黒い不安が渦を巻くのを感じた。
「あんな奴って……どういうことだマコーミック。ジェレミーってのはいったい、どういう奴なんだ?」
「ドナヒューと、もうひとりいつも一緒につるんでいるロブ・ウィルミントンって奴がいるんだが、このふたりは授業もまともに出ないで、とにかく好き勝手している不良だっていうんで有名なんだ。俺はよくは知らないが、入学したばかりの頃から何度も問題を起こしていたらしくて、寮でも鼻摘み者でな。誰も関わろうとしない。ドナヒューは子爵家と血縁関係があるとかで、寮監や教師も野放し状態だ。噂では麻薬 にまで手をだしているとか」
「ドラッグ――」
ルカは顔面蒼白になり、マコーミックの腕を掴んだ。
「何階のどこの部屋だ、教えてくれ!」
その腕を振りきるようにしてマコーミックが背を向ける。ルカは「マコーミック――」と引き留めようとした。が。
「寮生じゃないと、誰かに見られたら入るのを止められる。俺も行く」
マコーミックはそう云うと、ルカより先に教室を飛びだした。まったく予想外なその展開に面喰らいつつ、ルカも慌てて後に続いた。
オークス寮に着く前に休憩時間が終わったからか、幸い寮の周りにはもう人影はなかった。マコーミックに続いて中に入り、ウィロウズ寮とほとんど変わらない作りの廊下を進むと、ルカは急いで駆け上がっていきたい衝動を抑えて静かに階段を上がった。中に誰かが残っている可能性を考えて、怪しまれないようにするためだ。
いるのかテディ、と大声で叫びたいのをなんとか堪らえながらやがて最上階までくると、マコーミックは薄暗い廊下を折れ、いちばん奥のドアを指さした。
「あそこがドナヒューの部屋だ。どうする、なにか口実を考えてくれれば俺が様子を見てきてもいいが」
マコーミックがそう云うのを聞いて、ルカはどうしてここまでしてくれるのかと気になった。しかし、今はそれどころではない。
「いや、いい……俺が行く。人を捜してるってほんとのことを云うよ」
ふう、と深呼吸をして、ルカは廊下を進み、そのドアの前に立った。マコーミックは頷き、黙ってルカのほうを向いたまま、その場に留まった。
こんこんとノックをすると、少し間があっていきなりかちゃりとドアが開いた。
短い黒髪のがっしりとした体格の男が、少し開けたドアの隙間からなにかを警戒するようにルカを見る。
「……誰だ」
「ここにテディ……セオドア・ヴァレンタインが来てないか。捜してるんだ」
「ああ、テディの連れか。来てるよ」
別にやましいことをしている様子もなく意外とあっさり答えられ、ルカはとりあえずほっと息をついた。短髪の男がルカを招き入れるようにドアを大きく開き、「テディ、お迎えだぞ」と部屋に入っていく。それについて一歩部屋に足を踏み入れ――ルカは部屋のなかの様子を見て、なんだこれはと呆気にとられた。
ルカのよく知らない単調なリズムの音楽が流され、フロアランプやソファには派手な色柄の布が掛けられている。壁にはたくさんのピンナップが貼られていて、おまけにダーツまであった。床には雑誌やスナック菓子の袋などが散乱していて、テーブルの上には吸い殻が山のようになった灰皿があり、空になったビール瓶がずらりと並んでいる。
そのテーブルの向こう側で、ソファに凭れるようにしてテディが床に脚を投げだし、坐ってこっちに顔を向けていた。少し驚いたように目を見開き、テディは「なにしに来たんだよ」と云って身を起こした。
「なにしにって、もちろん、おまえを捜しに来たのさ。朝起きたらもういなかったから、心配してたんだ。ほら、行こう」
そう云ってルカはテディに手を差し伸べた。が、テディはその手を取らず、ふいと外方を向いて傍にあったクッションごと、膝を抱えこんだ。
「いやだよ、ルカと一緒になんか行かない。心配なんて嘘だろ、ルカは俺のこと、ほんとは大事に思ってくれてなんかいないんだ」
テディのその言葉に、ルカは「は?」と首を捻った。大事に思っていない? そんなことあるわけがない。なによりも大切で愛しくて、いつだってテディのことばかり考えているのに――ルカは途惑いながら笑みを浮かべ、云った。
「そんなことあるわけないだろう? なにを拗ねてるんだ、大事に思ってなきゃこんなところまで捜しになんてくるもんか」
テディにつられてつい当たり前のようにそう答え、聞いていないふりをするように目を逸らした短髪の男をちらりと見やる。
「とにかく、いったん戻ろう。話をするなら部屋で――」
「いやだって云ってるだろ! だいたいなんで俺をそんなにかまうんだ、保護者みたいで不満なんじゃなかったの? 俺のことなんてほっとけばいいじゃないか、それともやらせてくれるルームメイトを手放すのが惜しいの?」
「なに云って――」
「それなら無駄なことだよ、俺はもうルカとセックスなんかしない。ルカはほんとは俺のことなんか好きじゃないんだ、もういやだ。俺はただ傍にいてほしいだけなのに、なんで――」
「テディ」
立って様子を見ていた短髪の男がその声に振り返った。ルカも、テディも同時にそっちを向いた――ベッドで寝ていたらしい金髪の男が起きあがって、がしがしと頭を掻きながら伸びをするように躰を捻っていた。
ふわぁと欠伸をし、その男はテディに向かって云った。
「なに痴話喧嘩してんだ……。ちょっと落ち着け、テディ。おまえも――えっと、ルカだっけ。テディが心配なのはわかるけど、なにもここまで迎えに来なくたっていいようなもんだ。ガキじゃないんだから」
呆れたように云われ、ルカはなんとなくかちんときてその男を睨みつけた。
「ルームメイトが授業をサボってばかりいれば、捜して注意くらいするのが当たり前だろう。あんたこそ、上級生 のくせに後輩を早朝から部屋に入れて、朝食にも連れていかず授業に行くよう注意すらしないとはどういう了見だ?」
すると金髪の男は、さもおかしそうに声をあげて笑った。
「おい……、ブランデンブルク」
なにがおかしいのかと文句を云おうとしたそのとき――廊下にいたはずのマコーミックが、ルカの袖を引っ張りながら首を横に振り、耳打ちをした。
「やめとけ、相手が悪い」
「ははは、他人に説教臭いことを云われたのはずいぶん久しぶりだ。いい友達を持ってるな、テディ」
その言葉でぴんときた。この金髪の男がジェレマイア・ドナヒュー――子爵家と血縁関係にあるとかいう、この部屋の主なのだと。ということは、先に応対した短髪の男のほうはロブ・ウィルミントンという、授業にも出ず一緒に好き勝手しているという不良仲間なのだろう。ルカはふんと鼻を鳴らし、いったいどうしてこんな連中と仲良くなんてなったんだと、顔を顰めてテディを見た。
テディはむすっと膨れっ面をしてクッションを抱えたまま、ルカを――否。背後の、マコーミックを見ていた。
「マコーミック、あんたまでいったいどうしたんだよ。あんたもやっぱり俺とやりたくなったの? あのときは逃げたくせに」
「あのとき?」
意味がわからず、ルカは振り返ってマコーミックの顔を見た。マコーミックがばつが悪そうに顔を背ける。ルカは首を捻りつつ、とにかく今は早くテディを連れださなければと、またテディに向き直った。
「なんなんだよ……さっぱりわけがわからないぞ。テディ、とにかくふたりで話をしよう。部屋に戻ろう。さあ」
「テディはいやだって答えたろ? しつこい奴だな」
動こうとしないテディのかわりに、うんざりしたようにジェレミーがそう云うと、ルカは面倒臭そうに天井を仰いだ。
「部外者は黙っててくれ」
「部外者だと? ここは俺の部屋だぞ」
少し険しい表情になって、ジェレミーがベッドから脚を下ろしルカを睨みつけた。
「部外者はおまえのほうだろ? 俺はおまえを招き入れた覚えはないからな。出ていってもらおうか」
ルカも一歩も退かず、ジェレミーを睨み返した。
「ああ、テディを連れてさっさと出ていくさ。こんな部屋に居させておくとろくなことがなさそうだからな」
ジェレミーが気色ばむ。
「こんな部屋、だと?」
「こんな部屋さ。テーブルの上は空の瓶と灰だらけでまともにお茶も飲めそうにない、床もそこらじゅうゴミだらけのひどい部屋だ。貴族だかなんだか知らないが、こんな部屋に平気で居られるならたいしたことないんだな。噂じゃドラッグまでやってるらしいじゃないか。そんな奴のところにこれ以上テディを――」
「なんだと――」
「おい!」
顔を紅潮させてジェレミーが立ちあがったのと、声をあげてジェレミーとルカの間にロブが入ったのは同時だった。ロブはジェレミーを片手で制しながら、ルカに厳しい目を向けて云った。
「そこまでだ。――テディ、ぐずぐず云ってないでとりあえずいったん帰れ。おまえもいきなり来て云いたいことを云うのはやめて、テディを連れてさっさと出ていくんだな」
「ロブ、俺――」
「帰るんだ」
テディはしばらく拗ねたような目をロブに向けていたが、驚いたことに素直に立ちあがり、ルカに向いた。
その背中をそっと押し、ロブがテディとルカ、マコーミックの三人を部屋から出るよう促す。
「――おまえがいったい、俺のなにを知ってるって云うんだ、ちくしょう……」
微かに耳に届いたジェレミーの呟きに、テディが振り返る。
「ジェレミー」
先に廊下に出たマコーミックとルカのほうへと肩を押し、ロブはテディに頷いて見せた。
「大丈夫だ。おまえも友達とちゃんと話をしてこい」
どちらかというと強面で、同じ学生とは思えないほど体つきもがっしりとしているロブが優しくそう云い、テディはそれに従ってとぼとぼと自分のほうへ歩いてきた。
なんとなくおもしろくない気分だったが、ルカはテディの肩に手を置くと「お騒がせしてすみませんでした」と、今更ながら丁寧に云い、その場を後にした。
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