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Year 11 / Easter Holidays 「嘘」

 そういえば去年もそうだった。テディはちょうど一年ほど前のことを思いだし、無意識に頸許に手をやって細い革紐の感触を確かめた。  イースター休暇(ホリデイ)を過ごすためテディを迎えにやってきた車はレンジローバーではなく、去年と同じくメルセデス・ベンツのCクラスだった。運転席のデニスはまるっきり一年前の再現かのようにクレアとダニエルは教会の慈善バザーに行っているのだと云い、ふたりが戻るまでお腹がもたないだろうから、レストランかどこかでなにか食べて帰るかい? と訊いてきた。  レストランは口実で、またホテルに連れていくつもりなのだろうと思い、テディはハンバーガーでも買って帰るだけでいいと答えた。  ホテルに行かずに済んだとしても、誰もいない家に帰ればデニスはどうせなにかしてくるに違いない。ホテルでも家でも、デニスにされることは同じだが――去年あの場所で感じた、あの視線がテディは厭で堪らなかった。恋人同士にも親子にも見えない、そこそこの年齢の男と制服姿の自分。フロントで見送る店員の、どうぞごゆっくりという言葉の影に潜む、にやにやと冷やかすような響き。僅かばかりの金と引き換えに躰を自由にさせる、そういう手合だと自分が思われるあの屈辱的な気分を、テディは二度と味わいたくはなかった。  ハンバーガーなんかでいいのかい? と訊くデニスに、テディは試験間近なので移動時間がもったいない、早く帰って勉強をしないと、と答えた。嘘というわけでもないが、こういう云い方をすれば良いおとなぶっているデニスは突っぱねにくいだろうと思ったのだ。デニスは案の定、ちらりと横目でテディを見たが、わかった、じゃあそうしようと頷いた。  テディの云ったとおりデニスはファストフードのチェーン店でハンバーガーとチップスにドリンクをつけたセットをふたつ買い、そのまま真っ直ぐ家へと車を走らせた。  家に着き、エントランスの隅に大きな紙袋が置いてあるのをなんだろうと何気無く見やりながら、テディは荷物を持って階段を上がっていった。ショルダーバッグからラップトップとGCSEのリビジョンガイド、ノートやペンケースを出し、デスクの上に置く。ハンバーガーを食べる前に着替えておこうかとダッフルバッグからパーカーやスウェットパンツを取りだし、ブレザーの片袖を抜くと、こんこんとノックの音がした。  ああ、やっぱり来たかと溜息をつきながら、脱いだブレザーをハンガーに掛けてからドアを開ける。 「着替えてるんだけど」 「手伝ってあげるよ」  そう云ってデニスはドアを更に押し開けて部屋に入り、テディの背中に手をまわした。引き寄せて抱きしめようとするその腕から逃れ、テディは「ちょっと待ってよ……ハンバーガーは?」と尋ねた。 「階下(した)にあるよ」 「冷めちゃうじゃない」 「だって、もう待てないんだよ。着替えのついでさ、ほら、僕が脱がせてあげるよ――」  ベッドのほうへ押され、すとんと腰を下ろすとデニスの手がタイを解いた。すーっと襟元から抜かれたロイヤルレジメンタルのタイを丁寧にブレザーの肩に掛け、デニスはテディの隣に坐った。テディが抵抗しなくなったことに満足しているのか、機嫌の良さそうな表情でシャツの(ボタン)を外し始める。 「このチョーカー、気に入っているんだね。誰かからもらったのかい?」  革紐を指に掛け、チャームを眺めてデニスが云った。 「ああ、友達にもらったんだ……。お守りみたいなもんだよ」 「ふうん……このLっていうのは? イニシャルかな?」 「さあ、ブランドロゴかなんかじゃないの」  その返答に納得したのかどうかはわからなかったが、デニスはそれきりもうなにも云わず、テディの肌の感触を愉しむことに集中し始めた。ベッドに押し倒し、頸筋や胸許に舌を這わせ、吸いついて痕を残す。胸の飾りや脇腹を愛撫しながら、もう一方の手でベルトとトラウザーズの釦を外すと、デニスはテディの腰の下に手を入れて、柔らかな尻臀を揉みしだいた。 「ああ……可愛いよ、テディ――」  耳許で囁かれ、そのまま耳朶を喰み舌を差し入れられる。つい声が漏れそうになってしまうのを手で押さえて呑みこみ、テディは避けるように顔を逸らした。深い水の底で渦に巻きこまれているような不快な音が耳のなかで直接響く以外には、デニスの荒い呼吸の音しか聞こえない。  だから、ドアが開いたのに気づいたのは音ではなく、微かに揺れた空気と気配によってだった。 「――あなたたち、いったいなにをしてるの……?」  静かに開いたドア。茫然とした表情で立ち尽くすクレア。聞き憶えのある台詞が耳に飛びこんできたのと、デニスが跳ね起き、テディがはっとしてそっちを見たのは、ほぼ同時だった。 「クレア……!! いや、これは……違うんだ、聞いてくれ、クレア、これはその――」 「なにが違うの……。なんて云うつもりなのデニス、いいえ、なにも聞きたくないわ……まさか、こんな……信じられないわ、こんなこと……ありえない」  ベッドの上で起きあがり、クレアの顔を見つめたままテディは動けなかった。なにも云えず、シャツの前がすっかり(はだ)けていることにも気づかず、クレアから目を逸らすことさえできなかった。  テディはすっかり混乱していた――ちょうど二年ほど前、十四歳の頃の自分がとうとう云えずにいた一言をいま云えばいいのか、それとも今の自分はクレアにとってただの、デニスの共犯者なのか――。  そうしてなにも云えずにいるうちに、クレアはしどろもどろになって言い訳を探しているデニスにゆるゆると首を振り、後退って踵を返した。  あのときの母と同じように、クレアが背を向けるその瞬間を、テディは見た。  ――翻ったドレスの裾。  混乱していた思考ごと、テディはその表情を凍らせた。  ――ビーズの飾りのついたレース編みのショールにさらりと流れた、黒く長い髪。  部屋から遠ざかっていく足音がフェイドアウトし、緩くカールした髪とコートの色だけがその場に残る。  ――足早に遠ざかっていくヒールの音と、その後ろ姿。  追いかけることもできず顔を両手で覆い隠しているデニスの、ああクレア……という悔恨の呟きが、くぐもったように遠く聞こえる。  ――今も瞼の裏に焼きついたまま消えない、生きている母の、最後の姿。 「……あ……ぁ、だめだ――クレア、待って……行かないで。行っちゃだめだ――」  待って!! と強く思った言葉が声になっていたのかどうか、すっかり混乱していたテディにはわからなかった。ただ、そこにもうクレアの姿がないことだけはわかった。デニスもがっくりと肩を落とし、その場に項垂れている。  クレアが死んでしまう――何故か、テディはそう思った。追いかけなければ、という衝動に突き動かされ、テディは着衣の乱れをさっと直し、部屋を飛びだして――廊下に出てすぐのところで、クレアと鉢合わせた。  何故戻ってきたのか、それともそこに留まっていたのか。不思議に思う余裕もないまま、テディはクレアの顔をじっと見つめた。そして突然、今度はこんなふうに顔を見合わせることすら、自分はしてはいけないのではないかという気になり、顔を背けて部屋まで後退った。  クレアはそんなテディから目を逸らさず、デニスが「ああ、クレア……話を」と云いかけるのをきっと睨んで遮ると、またテディに向いた。 「……テディ、ひとつだけ教えて。私、ショックで……もう、なにがなんだかわからないけれど、これだけは確かめなきゃって思ったの。ダニーが車で待ってるから、簡潔に、イエスかノーかで答えて。いい?」  途惑ったまま、テディはクレアの勢いに押されるようにして、こくんと頷いた。 「オッケー、テディ。じゃあ訊くわ……これは合意じゃないんじゃない? あなたはそんな子じゃないもの……デニスが強引にあなたを、乱暴しようとしたんじゃないの?」  想像もしなかったその言葉に、テディは大きく目を見開いた。  ごちゃごちゃと絡まっていた思考はすべてどこかに吹き飛んだ。デニスがなにか喚いていたがそんなことはまったく耳に入ってこず、クレアの言葉だけが胸に届き、黒く冷たい固まりのようなものを溶かし始める。 「テディ、おねがい。正直に答えて。もしも私の考えが正しいのなら、ここにデニスと残していくわけにはいかない。あなたも一緒に連れていくわ」  なにかがひたひたと胸を充たすのを感じながら、ぼんやりと、霞んで見えるクレアに向かって、テディは云った。 「答えは……ノーだよ。……ごめん、クレア……、俺が……俺がデニスを、誘ったんだよ」  それを聞いて、クレアは信じられないという顔をした。デニスも驚いたようにテディを見る。 「本当だよ……デニスは悪くない。ごめん、ほんとにごめん……」  早くダニーのところに行ってあげて、と云うと、クレアはまだ納得できないという顔をしていたが、やがて哀しそうな顔で再度、踵を返した。  肩を落とし、とぼとぼとデニスが部屋から出ていったあと、テディは途中だった着替えを済ませた。だが、着替えたのは出してあったパーカーやスウェットパンツにではなく、プルオーバーとピケのシャツにジーンズ、薄手のフーデッドコートという恰好にだった。  ショルダーバッグから財布を取りだし、中身を確認すると五ポンド札が一枚と小銭が少ししか入っておらず、テディは渋い顔で唇を噛んだ。煙草の所為だ。  デニスに頼むわけにもいかない。しょうがないなとテディは息をつき、財布と煙草だけをコートのポケットに入れるとそっと部屋を出て階段を下り――ふと思いだしてダイニングに寄った。  目当てのものはテーブルの上にぽんと置かれていた。テディはその薄いプラスチックバッグのなかを確かめ、ハンバーガーとチップス、ドリンクの入った紙袋を一人分だけ持って、家を出た。  いつも車で通る道を逆に辿ろうとして、テディはその道の先に教会があったのを思いだし、横道へ逸れた。エントランスの紙袋はなくなっていたから、クレアはダニーを連れて教会に戻ったのに違いない。もっとも、忘れ物だけ届け、バザーからは帰ってしまったかもしれないが。  一度も通ったことのない道をそのまましばらく真っ直ぐに歩いたが、その辺りもラングフォード家の周りと同じくどうやら高級住宅街のようで、右を見ても左を見てもアパートメントらしい洒落た造りの建物がずっと続いていた。路肩には高級車が並んで駐められていて、商店もなく人通りもほとんどない。その通りを、テディは足早に歩き続けた。  そして十二、三分も歩いた頃だろうか。ふと視線をあげると、前方に公園らしき開けた場所が見えた。低い鉄柵に囲まれてはいたが門扉などはなく、誰でも入ることが許されている場所のようだった。疎らにある樹が芝生の上に濃い影を落とし、そのあいだに細い舗道がいくつか放射線状に伸びている。結構広そうな公園で、遠くに犬を散歩させているらしい人影や、老夫婦らしい二人連れの姿があった。ベンチなどは見当たらなかったが、テディはとりあえず、この公園で持ってきたハンバーガーを食べることにした。  適当な場所で芝生に腰を下ろし、すっかり冷めてしまったハンバーガーに齧りつく。紙コップのコーラも氷が溶け、炭酸が抜けてしまっていた。だが、そんなことなどあまり気にならなかった――あのままじっと部屋にいる気もせず、なにも考えずに飛びだしてきてしまったが、今からどうしたらいいのだろう? それに、デニスとクレアはこれからどうなってしまうのだろう。テディはくったりとしてしまっているチップスをつまみながら、いつも通る道からどれだけ逸れたのか、ロンドンの地図はどんなふうだったかを思い浮かべた。  おそらく、ソーホーまでは一時間も歩かないうちに着くはずだと、テディは思った。しかし道がよくわからないうえに、金もない。行ったところでそれからどうすればいいのだろう。学校に戻る? 否――休暇が始まったばかりなのに自分ひとりが戻ったら、どうしたのかと訊かれるに違いない。それに、荷物もあの家に置いたままだ。制服も。というかそんな心配をするまでもなく、学校に戻ればラングフォードの家に連絡がいくに違いない。  そもそも自分はまたあの家に戻るのだろうか。戻ってもいいのだろうか? たとえばこうして少し街をうろついたあと、夜に帰ってあの部屋で眠ることなどできるのだろうか。  ざぁ……と木々が枝を揺らす音がして、冷たい風が頬を撫でていった。右手の袖を少しあげて時計を見るとまだ二時半くらいだったが、少し天気が怪しくなってきたようだった。どんよりと曇り始めた空を見上げ、クレアとダニーは家に帰っただろうかと考える。自分がクレアならどうするだろう――ダニーがいてはデニスと込み入った話ができない。デニスと反りが合わないというダニーの祖母のところへ預けて、ひとりで話をしに帰宅するか……否。それではなにかあったと知らせるようなものだし、離婚の決意が固くない限りしないのではないか。教会のバザーに戻り、そのままダニーを遊ばせ、夜どこかで食事をしてから帰り、ダニーが寝静まってからデニスと話す――こっちのほうが、当たっているような気がした。  つまり、今日は自分は帰らないほうがいいということだ。テディは食べ終わったハンバーガーやチップスの容器を紙袋に突っこみ、薄くなったコーラを飲み干すとそれもくしゃっと握りつぶした。ごみを纏め、あたりをきょろきょろと見まわし少し離れたところに緑色の大きなダストビンがあるのをみつけると、そっちへ歩きながら狙いをつけて投げ棄てた。

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