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Year 11 / Spring Term 「不協和音」
「そろそろ真剣に試験勉強、詰めていかなきゃいけないな」
寮 の狭いベッドのなか、テディを背中から抱きしめながら、ルカはぼそりとそんなことを呟いた。
点呼も見廻りも済んだあとの深夜。声をひそめ、ブランケットに隠れるように潜って愛しあい、裸のまま余韻に浸っている時間には些かそぐわない言葉だった。そう気づいてルカがテディの表情を覗きこむと、彼は案の定呆れたような、うんざりしたような表情でこっちに視線を向けていた。
苦笑しながら頬に軽くキスをして、ルカは「もうあんまりこういうこともしてられなくなるなって、残念に思ってさ」と、取り繕うようなことを云った。
「……ルカは大丈夫だろ。前回の模試も充分いい結果だったんだし」
「おまえもそんなに悪くはなかったじゃないか。最近は朝からちゃんと授業にも出てるんだし、ちょっとやれば大丈夫だよ」
「うん……でも」
テディはルカの腕のなかで躰を動かし、仰向けに体勢を変えた。ルカも場所を空けるように少しずれ、肘をついて頭を支えテディをじっと見つめる。
「ルカは、本当にいいの?」
「ん? なにが」
「……前に、デックスが云ってただろ。こういうところでのこんな関係は、学校にいるあいだだけのことだって。学校を出たらみんな、普通に女の人と結婚したりするものなんだって……」
突然そんなことを云いだしたテディに、ルカはぱちぱちとまばたきをした。
「……おまえって、聞いてないようでちゃんと人の話、聞いてるよな。憶えてるよ、みんなで街に出かけたときだろ。確かにそんなことを云ってたな」
ちょうどテディへの恋心を自覚したばかりで、普通に接することができなくなっていた頃だ。懐かしいなと目を細めながら、手を伸ばして顔にかかるテディの髪を撫で、耳にかけてやる。
「で? 俺もここを出たらおまえとのつきあいもなにもなかったことにして、女と結婚したりするんだろうって?」
「だって、ルカにはそれができるもの……。いい大学を出て、いい会社に就職をして結婚して……子供はふたりで、広い庭のある家を買って、犬を飼ってさ」
「なんだその、絵に描いたような陳腐な想像は。そんなこと云ったらおまえだって同じじゃないか」
そう云うと、テディは一瞬目を伏せたあと、薄く笑みを浮かべた。
「俺は、ゲイだよ。でも、ルカは違う……」
「違うって云ったって……確かに、俺はゲイじゃなくてバイかもしれないけど、こうしておまえと……いろいろしたり、好きって気持ちがあるんだから同じだろ」
「でも……そのうち素敵な女の人と出逢うかもしれないし、そうでなくてもずっとこのまま一緒にいられるかどうか、わからないじゃない」
「そりゃそうだよ。未来のことなんか、誰にもわかりゃしないさ」
云ってから、この云い方は少しまずかったなとルカは思った。テディがなにか云いたげに眉をひそめているのを見て、慌てて次の言葉を紡ぎだす。
「誰だってそうだろ? 十年後、自分がどうなってるかなんて絶対誰にもわからない。だから、今どうしたいかって気持ちを大事に、少しずつ理想に向かってできることを積みあげていくんだよ。で、俺が思う理想はGCSE試験を頑張って、おまえと一緒にシックスフォームに進んで同じ大学を目指すことだ。それを無事積みあげられたら次は、一緒に暮らすっていう理想を叶えるんだ。云うほど簡単じゃないかもしれないし、いろいろ大変なこともあると思うよ。だから俺は必死にやるさ……おまえと一緒に生きていくためにな。他の道なんて考える余裕あるもんか」
おまえはそうやって、ごちゃごちゃと要らんことばかり考えてるから浮気なんかするんだ、と云ってやりたかったが、こんな時刻に喧嘩になっても困るのでやめておく。テディは――ルカの言葉のどれかが琴線に触れたのか、叱咤のあと赦された子供のような、今にも泣きだしそうな表情だった。
そして、ふと思う。他の男のベッドにいるのを目の当たりにしても、自分のことをもう愛していないのではないかと疑うことがないのは、こんなふうにテディが不安を口にするからなのだと。テディは、自分が離れていくことをなによりも怖れている。それは即ち、テディが自分に愛されたがっているということで、テディも自分を愛しているということなのだと、ルカは思った。
「愛してるよテディ。さ、未来のために明日もちゃんと授業に出なきゃいけないから、もう寝よう」
「うん……」
起きあがってブランケットを撥ね除けると、冷たい空気にぶるっと震えた。夜の十一時から朝五時半頃まではセントラルヒーティングが切られているのだ。ベッドの下にある脱ぎ散らかしたスウェットや下着を拾いあげ、ばさっと掃ってテディに渡す。テディに背を向けて下着をつけ、フランネルのパジャマを着るとルカは、今夜はこのままここで眠ったほうがいいかと考えた。いつもは愛しあったあと、朝寝坊してハーグリーヴスが部屋に入ってきても大丈夫なように、自分のベッドに戻るのだが――
「……うー寒い寒い。アラーム、ちゃんとかけたか?」
「うん、かけてあるよ……ここで寝るの?」
少し不思議そうに首を傾げたテディに、ルカは微笑んで頷いた。
「ああ。今いちばん思う理想は、寝ても覚めてもおまえと一緒にいることだからな」
ランプの灯りを落として狭いベッドに潜り、身を寄せ合ってお互いの温もりを感じながら眠る――ルカは思った。こんなふうにちょっとした幸せをいくつも積み重ねていけば、テディもいろいろ余計なことを考えたり、不安になったりしなくなるのではないか。いつもテディのことを想っていると態度や行動で示し、愛の言葉も毎日忘れずに伝える――それは少し照れるけれど、世の夫婦が朝仕事に送りだすときにするキスのように、それはきっと不可欠なことなのだ。そういう小さなことを大切にしていけば、テディもいつか不安の欠片もなく自分の愛情を受けとめてくれるようになるはずだ。
そして、二度と浮気なんてことはさせない。そんな気を起こさせないようにする責任が、自分にもあるのだ。
寝息をたて始めたテディの眉からこめかみのあたりをそっと撫で、額にキスするとルカはブランケットを掛けなおし、その柔らかな髪に鼻を押しつけるようにして目を閉じた。
「――で、当たり前なんですけど、練習してるときってひたすらその曲ばっかり延々と弾いてるわけじゃないですか。何度も何度も同じ場所でとちって、うんざりしながら弾き続けてるとそこの部分がもうわからなくなっちゃって――」
「そうそう。何十回何百回と弾いてるうちに飛んじまうよな。いやになるほど弾いてきた曲なのに、どんな曲だったか思いだせなくなったりなー」
「そう、そうです! あれ、なんでしょうね。ひどいときはもう譜面さえ読めなくなりますからね。で、なにをやってるのかって叱られたりして、余計に真っ白になって……」
土曜日の朝の、いつもの光景である。音楽室でルカとテディ、ジェシの三人はピアノやギターを弾きながら語らっていた。先にルカがピアノの前に陣取り、レッドツェッペリンの〝All My Love 〟やムーディブルースの〝Nights in White Satin 〟などを弾いていると、ジェシが合間に質問をしてきたりして、この日はピアノの話が中心になっていった。
テディは初めのうち折畳みのスツールに坐り、ギターを弄ったりしていたが、いつの間に移動したのかルカがふと気づいたときには、窓際で煙草を吸っていた。
「ああ、叱られたのか? そりゃあんまりいい先生じゃないな。俺は、そういうときはなんでもいいからなにか好きな、別の曲弾けって云われたよ。で、適当になにか弾いてから、はい休憩ってピアノから離れさせられたな……そしたら、戻ったときにはまた普通に弾けるようになってたよ」
「へえーっ、いい先生がついてたんですね! 僕は、自分でそういうことに気づいてそんなふうに気分転換するようになりましたけど、おば……僕を教えてた人は、とにかく厳しいだけですぐ怒るんで、ああいうときはすごく困りました」
想い出話と愚痴が混じったようなピアノ談義は、ジェシが話したいことが尽きないという調子で喋り続けるので、ルカもつられてどんどん白熱していった。いつのまにか傍に戻ってきていたテディがローリングストーンズの〝You Can't Always Get What You Want 〟を弾いているのには気づいたが、いつものように口遊んだり、テディを見てなにか云ったりはしなかった。ルカにはもちろん悪気があったわけではないし、無視していたつもりもない。ジェシとの話がまだ途中だったので、ただそれを優先していただけである。話の区切りがつけば、ルカはきっと退屈そうにしていたテディに今度は話を振っていただろうし、ジェシもそこでピアノの話はもう切りあげていたに違いない。
だが、少し遅かったようだった。
ヂャッ、と鳴らした不協和音をミュートして、テディが立ちあがった。話を止め、ルカとジェシは同時にテディのほうを見た。「テディ? どうした――」と云いかけたルカの言葉を、テディは遮るようにして「俺は戻るよ」と云った。不機嫌さを隠そうともしないその声に、ルカが少し慌てて引き留めようと声をかける。
「ああ、悪い悪い。そろそろ話を変えようと思ってたところ――」
「いいよ別に! ジェシとふたりでずっとピアノの話してれば。俺はどこか、散歩でもしてくるから!」
スツールに立て掛けて置いたアコースティックギターが、すーっと滑るように倒れた。がこん、かたかた……と響いた音にも振り向かず、テディは音楽室を出ていこうとする。えっ、えっと困ったようにふたりを交互に見ているジェシをその場に残し、ルカは素早くテディを追いかけ、その腕を捕まえた。
「待てってテディ! 悪かったよ、ピアノの話ばかりで退屈だったんだろ? もう終わったから、機嫌直せって――」
「いいってば! 別に、楽しく話してる邪魔をする気ないし! 俺抜きで好きなピアノの話、ずっとしてればいいだろ! 俺がいると好きな話もできないとか、そのほうが俺もいやだし!」
「そんなこと思わないよ! なに拗ねてるんだよ子供みたいに! いろんな話してればテディの苦手な話もジェシにわからない話も、俺が困るような話だってそりゃあるだろ! 一日中その話しかしないわけじゃあるまいし、ちょっとくらい我慢できないのかよ!」
「我慢してたよ!! 我慢してたけど、それにルカが気づいてくれないから……! だから、もういいんだよ、俺は本でも買いに行ってくるから――」
「本って、外に出る気かよ!? ちょっと落ち着けよ、こんなことくらいでそんな――」
「こんなことくらい!? いいよ、わかった。ルカはちっとも俺のことなんて考えてくれてないってことがね。もういいよ、俺のことなんか気にしないでピアノの話を――」
「俺のどこがおまえのことを考えてないって云うんだよ!! おまえ、俺がどれだけおまえのことで頭をいっぱいにしてると思うんだ、おまえのほうこそ俺のこと、考えなさすぎじゃないのか!?」
「ああ、もう考えないよ!! ルカなんかもう、だいっきら――」
「ちょーーーーっと待ってください! ストップ、ストップ!!」
大きな声で云い合っているふたりのあいだに入り、ジェシが両手を広げて止めに入った。「ふたりとも、いったん落ち着きましょう! テディ、すみませんでした。僕がつい喋りすぎたんです、ルカはそれに付き合ってくれてただけですよ。ルカ、おもしろくないときってつい思ってもないようなこと、云っちゃうじゃないですか。テディの云ったことは全部が本気じゃないですよ、ね? あ、ほら、もうじきお昼だし、お腹が空いてきたんですよきっと。お腹が空くと苛々しますからね。食堂へ行く前に寮に寄って、お茶でも飲みませんか。ね? そうしましょう!」
必死に捲したてるジェシに、ルカは頭から水をかけられたように毒気を抜かれてきょとんとし、ふぅ、と息をついて天井を見上げた。テディも困ったような、途惑ったような表情で口を閉ざし、ジェシの顔を見ている。
やがて、気持ちを切り替えたルカがテディを見ると、テディも同じように自分を見ていた。どんな顔をしたらいいのかわからないらしい複雑な表情に、ルカはしょうがないなと肩を竦めた。
「……お茶、飲みに行こうか」
「……うん……」
ルカがテディの肩を抱いて歩きかけ、あ、と気づいて振り返る。その仕種を見てジェシも気づき、三人でピアノのところまで戻りフォールボードを閉め、倒れたギターを片付けた。
音楽室を出て、校舎内を歩いているとき――ふと気づいたようにジェシが尋ねた。
「そういえば……外って、出られるんですか?」
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