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Year 11 / Summer Holidays 「Resume」

 朝はホテルのダイニングでゆっくりとフルブレックファストを楽しみ、そのあとは腹ごなしに庭を散歩して、イングリッシュガーデンの花々を観賞する。そして午後まではそれぞれ部屋でのんびりと寛ぎ、観光やショッピングに出かけた先でサンドウィッチなど、軽いランチを食べる。  バースは比較的小さな街だが、ブリストルやカッスルクームへは車で三十分ほど、グラストンベリーやソールズベリーへは一時間ちょっとで行くことができるので、出かける先に困ることはなかった。夕食はレストランやパブで食べる日もあれば、ウェイトローズなどのスーパーマーケットで惣菜を買って帰り、ホテルの部屋で気楽に食べる日もあった。ダニエルは店で食べるよりそのほうがいいらしく、ピザやチキンとチップスのパック、コーラなど好きなものばかりカートに入れていた。  特になにもせず過ごす時間は、砂時計の砂がさらさらと落ちていくように優雅に過ぎた。クレアはサーメバーススパがとても気に入ったようで、行く度にボディケアを予約して二日おきに通っていた。デニスは偶にどこかへ電話をかけていたが、心配していた仕事上のトラブルは起こっていないらしく、クレアのショッピングやダニエルの行きたいところに付き合い、面倒な顔ひとつせず運転手に徹していた。  そしてテディは、ヴィクトリアアートギャラリーの裏手にあるマーケットで古本を売っているのをみつけ、ジャック・フットレルの〈Thinking Machine(思考機械)〉やイーデン・フィルポッツの〈The Red Redmaynes(赤毛のレドメイン家)〉など、好きな古典ミステリーのペイパーバックを十一冊も買った。  のんびりとした小さな街は治安も悪くなく、近郊の観光地もあらかた行き尽くした頃には、四人ひとかたまりで行動することが減っていた。一緒にホテルを出てランチを取ったあと、一人歩きしていたテディは中華料理(チャイニーズ)のテイクアウェイ専門店をみつけ、夕飯用に牛肉炒麺(ニュウロゥチャオミェン)胡麻と海老のトースト(セサミプローントースト)などを買ってひとりでホテルに戻り、本を読んで過ごした。皆が戻ってくれば、読書の時間は終わりだ。少しのあいだクレアのおしゃべりに付き合い、ダニエルのゲームの相手をし、クラシカルな猫脚のついたバスタブでその日の汗を流し、ナイトティーを飲んでリラックスしてから眠る。  デニスとは、皆で食事をしながら話したりする以外は、ほとんど言葉を交わすこともなかった。避けられているというわけではなく、単にクレアの気持ちを考えてのことだろうとテディは思った。  そんなふうにして二週間は流れるように過ぎていき――バースで(やす)む最後の夜。  ダニエルが眠ってから、テディはベッドの両側にあるウォールランプを片側だけ灯し、読みかけだった〈Lady Audley's Secret(レイディ・オードリーの秘密)〉を読み始めた。残り僅かだったページを二十分ほどで読み終わり、さて寝るかとランプを消すと――窓の外に、ぽう、と一瞬赤く、小さな光が見えた。テディはベッドを出て、静かに掃出し窓に近づいた。  テラスの足許に設置されたガーデンライトがオレンジ色の光を滲ませていて、庭は真っ暗ではなかった。星明りもあり、深い群青色のなかに浮かぶ人影は、それが誰かわかる程度にはっきりと見えた。  テディはいったんベッドに戻り、サイドテーブルの脇に置いたリュックサックから煙草とライターを取りだすと、そっとガラス戸を開けてテラスに出た。 「……ひょっとして、俺を待ってた?」  ふぅ、と白い煙を吐きだして、デニスは答えた。 「ああ、明かりが見えて、起きてるのがわかったからね」  テディは煙草を一本振りだし、咥えて火をつけた。デニスがそれを見て、ふっと笑った。 「堂に入ったもんだな。でも、吸うところを見るのは初めてだ」 「クレアとダニーの前では吸わないようにしてたからね」 「別にもう十六なんだから、かまわないのに」 「うん。なんか……なんとなく」  ふたりは暗い庭へと歩きだした。庭の終わる先には街の夜景が広がっていて、バース寺院が白くライトアップされ浮かびあがって見えている。その周りに点々と灯るオレンジ色と黄色の光は、まるで何本もの蝋燭の火のようだった。 「いつふたりで話せるかと思ってた。ずっと、ちゃんと謝らないといけないと思っていたんだ……もちろん、謝って済むことじゃないとわかってはいるけどね」  デニスがそんなことを云うだろうなというのは、テラスに出てくる前からわかっていた。 「謝ってくれなくていいよ。もちろん、また同じことをされるのもごめんだけど。あんたたちはもう、なにもなかったことにしたいんだろ? 俺も同じだよ。思いだしたくもないし、考えたくもない」  夜景を眺めながら、テディは淡々とそう云った。 「本当に悪かった、どうかしてた。……君が好きだった。君が可愛くて可愛くてたまらなくて、もう頭がおかしくなっていたんだよ……。あんなに酷いことをした僕を君が庇ってくれたとき、目が覚めたんだ。これから、なんでもして償う。なんでも云ってくれ」  切実に訴えるデニスに、テディは「なんでも?」と聞き返した。 「ああ、なんでも……僕に、できることなら」 「じゃあ、クレアとダニーを棄てて俺と暮らしてよ」 「な――それは」  デニスが絶句するのを見て、テディはくっと喉を鳴らして笑った。 「……嘘だよ。冗談。俺はあんたのことなんかなんとも思ってないし、一緒にいたいとも思わない。別に、してほしいこともなにもないよ。もう、終わったんだ。二度とごめんだ。あんたは、明日からまた家でいいパパをやればいい」 「テディ……ほんとに、ほんとにすまない……」  好きだった、可愛くて堪らなかったと云われても、全身隈無く求められても、結局デニスが大切にしているのは家族だ。  自分は、家族じゃないのだ。  テディは短くなった煙草を落とし、踏み消した。  ――ふと、ルカに逢いたいな、と思った。  セント・ジョンズ・ウッドの家に戻り、四人は以前と同じ日常を過ごしていた。テディにとっては旅行先のホテルだろうとこの家であろうとなにも変わらないが、クレアやデニスにとってはやはり、ずいぶんと気分が違うようだった。長く不在にしていた家に帰ってほっとする――リセットのための旅行は、充分に意味があったようだ。  そして、長かった夏季休暇(サマーホリデイ)も残り僅かとなった、八月末のある朝。テディは、クレアの車で一緒に学校へと向かった。バスで行くから、とひとりで出かけようとしたテディに、クレアは帰りに用もあるから乗って行きなさい、と云って譲らなかった。  朝食が済んでからずっとゲーム画面の前から動かないダニエルに留守を頼み、クレアとテディは車に乗りこんだ。――GCSEの試験結果を受けとるためである。 「ああ、どうしよう……私がどきどきしてきちゃった。こういうのって、何年経っても慣れないものね……」 「やめてくださいよ……。今度は再試験(リシット)しなきゃいけないほど、悪くはないはずなんですけど……」  大学へ進むときには、シックスフォームになってから受けるAレベル試験の結果だけではなく、GCSEの成績も含めて考慮される。落第するほど悪い結果ではない自信はテディにもあったが、いずれルカと同じ大学へ進もうと思うならぎりぎり進級できるレベルでは足りない――A*(エースター)かAが、最低でも四つか五つくらいは取れてなければならないだろう。ルカならたとえオックスブリッジからオファーが来ようとも、惜しみもせずそれを蹴って自分と一緒に行けるところを選んでくれるかもしれないが、それは絶対させたくないとテディは思っていた。  だが、一年前に受けたとき散々だった結果を思いだし、テディは不安から膝の上のバッグを抱え、はぁ……と溜息をつきながら項垂れた。 「やだ、ちょっとテディ、しっかりしなさいよ。大丈夫よ……ごめんなさいね、変なこと云っちゃって。――あ、そうだ。帰りに、前行ったあの店でモカフラッペでも飲みましょうか。ちょうどあの近くに用があるし――」 「いいですけど……用って? 買い物じゃないんですか」  テディが訊くと、クレアはふふっといたずらっぽく笑った。 「さあ、なんでしょう」  発表は九時からということで、学校に着いたのは九時半頃だったが、既に構内の舗道の脇には車がずらりと並んでいた。テディは助手席の窓からその車の列を見渡したが、いつもルカを迎えに来る白いEクラスは見当たらなかった。  車の間から見えた中庭には、茶色い封筒と白い紙を手にした生徒たちが何人か集まって騒いでいたが、そのなかにもルカの姿はないようだった。まだ来ていないのか、それとももう済んで帰ったのかなと思いながら、テディは路肩に駐まった車から降り「じゃ、行ってきます」と本校舎のなかへ入っていった。  本校舎はテディと同じく、試験結果を受けとりに来た生徒たちでごった返していた。既に通知を受けとった者もこの場に残っているようだが、それを差し引いてもかなりの人数が並んでいて、思っていたより時間がかかりそうだった。  古めかしい建物の、外の光が届かない薄暗い廊下には将来への期待と不安が充満している。なんとなく緊張感がぶり返してきてテディはふぅ、と息をつき、高い天井を見上げた。そのとき―― 「よぉテディ! 久しぶりー」  突然響いたその場にはそぐわない、いつもどおりの明るい声にテディはほっと頬を緩ませた。 「トビー、いま来たの?」 「いんや。俺は九時前から来てて、もうとっくに通知もらった。あっちでちょっと話してて、おまえとかルカとか、デックスの奴が来てないかと思って戻ったんだ」 「そうなんだ。……で? どうだったかって訊いてもいい?」 「ああ。まあ、予想よりはちょっとよかった。俺さ、夏のあいだずっとバイトしてて、そこで結構重宝してもらってるんで、もうそのままずっと働けばいいやって思ってたんだけどさ――」 「そう……なんだ? どんな仕事?」 「いや聞けよ。でもな、通知を受けとって、先生に頑張ったなって褒めてもらってさ、さっきホールのほうに行って思ったんだよ……あれ、楽しかったなって。ほら、ルカがハムレット演ったろ? あれの大工仕事とかがさ」  ああ、とテディは頷いた。  あのとき、テディは偶にしか覗きに行かなかったが、見るたびエッジワースは大きな声で指示を出し、てきぱきと動いていた。少しだけ劇の本番を観たときも、遠目とはいえセットがとてもよくできていると思った。  あとから聞いたが、あのセットのほとんどはエッジワースが率先してアイデアを出したものだったらしい。必要なセットの強度を考え、設計図を描いて木材を組みあげ、背景画も絵の巧い生徒にデザインの草案を見せて頼み、描きあがった二枚の板を組み合わせて場面の転換をスムーズにした。  が、驚いたことに実はエッジワースは、煽り返しという方法が演劇の定番としてあることを知らなかったらしい。 「でさ――さっき、先生に聞いたんだよ。ああいう舞台装置みたいなの作る仕事って、どうやったらできんの? ってさ。そしたら先生、すげえ喜んじゃって――俺、ずっと進学なんかしねえって云ってたからさ。今日出た成績もっかい見せろっつって、なんか資料の束みたいのばーっと調べ始めて……ここに行けって、リーズにあるカレッジを奨められたんだ」 「リーズの……アートカレッジ?」 「そうなんだよ……やっべえ、俺、まだ学生やんなくちゃいけなくなったわ。――演劇の勉強して、舞台美術ってやつをやるんだ。親父も……わかったって。働くって云ってたときは、あんなに反対してたくせにな」  エッジワースはこれまで見たことのない、深い微笑みを浮かべた。その表情は一瞬テディがどきりとするほどおとなっぽく、かっこよかった。 「……トビーってさ――」 「なんだ?」  テディは自分より少し背の高い、かつてはウィロウズ(ハウス)――否、学校一のやんちゃ坊主だった男を、まじまじと見つめた。 「トビーって、気がつかなかったけどハンサムだったんだね」  エッジワースはぶっと吹きだし「よせよ、なに云ってんだ」と、テディの肩を軽く小突いた。 「ルカに云うぞー。……って、あいつは? 来てねえの?」 「うん、俺も少し探したんだけど……見当たらないね。まだなのかも」  いつの間にか、来たときよりも混雑している廊下を見まわしたとき。テディの右側にいたマーフィーが名前を呼ばれ、校長室へと入っていった。 「ああ、もう次だ……」 「落ち着けよ。おまえならきっと大丈夫さ」  そう云って、「じゃあな、俺もう先に帰るわ」と片手をあげて去ろうとしたエッジワースを、テディは「あ……待ってトビー!」と引き留めた。 「んあ? どした?」 「ずっと云わなきゃって思ってたんだ……」  不思議そうな顔をして首を傾げるエッジワースをじっと見つめ、テディは云った。 「俺が来たばかりの頃……たすけてくれて嬉しかった。この学校に、トビーがいてくれてよかった」  エッジワースは少し驚いた顔をして、照れたように鼻を掻いた。 「なんだよ、そんな大層なことはしてねえだろって。……俺も楽しかったよ。俺たち四人、性格とか見事にバラバラだけど、結構気が合ってたよな」  イギリスでは、GCSEやAレベル試験の結果には国を挙げての大騒ぎになるが、卒業という別れの感覚はほとんどない。だが、このときエッジワースが浮かべていた笑みは紛れもなく、友と別れる瞬間の笑みだった。 「じゃあなテディ。ルカにもよろしくな」 「うん。トビーも、元気で」  再度片手をあげて、エッジワースは薄暗い廊下を折れた。  その後ろ姿を目で追っていたテディは、吹きこんできた風と一瞬広がった光の筋に、眩しそうに目を細めた。

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