71 / 86

Year 11 / Summer Holidays 「リセット」

「さあ、もうじき着くぞ」  ロンドンから二時間と少し。代わり映えのしない景色が退屈だった高速道路(モーターウェイ)から一般道路に移り、ようやく市街地に入ると車は細い道を折れ、やがて小さな橋に差しかかった。木漏れ日のあいだを抜け、エイヴォン川に掛かるその橋を渡ると、景色がそれまでと一変する。  デニスがレンジローバーを運転し、助手席にはクレア、そしてリアシートにはダニエルとテディが乗っている。四人でやってきたここは、ロンドンから約九十マイル西に位置するバースというところである。  ブリストルから近いこの街はイングランドでは唯一、温泉が楽しめる保養地だ。十八世紀の建築物が数多く残っていて、街全体が世界遺産に登録されている、非常に人気の高い観光地でもある。 「疲れたかい? ダニー。テディも……お腹はすいてない? ホテルへ行く前にどこかへ寄ったほうがいいかな」 「いや、俺は――」 「お菓子! どこかお店に寄ってよ、スーパーでお菓子買っていくって云ったじゃん」 「こんなところまで来てスーパーへ行くの? ダニー」 「お菓子か、それなら別にスーパーじゃなくてもいいだろ? この先においしいクッキーの店があるよ。そこへ行こう」 「クッキー? クリスプスがいいんだけどなー」 「それは明日、観光に出た帰りにね」  ダニエルたちの普段どおりのやりとりに、テディはふっと笑みを浮かべて窓の外を見た。  車は、ジョージア王朝様式の建物が美しい、淡いクリーム色をした街を走っている。窓の下や店先、街灯の傍のハンギングバスケットなど、到る処にカラフルな花々が飾られているのがとても印象的だ。  よく映画などの撮影も行われるという、まるでタイムスリップしたかのようなノスタルジックな街並みは、ロンドンとはまったく雰囲気が違っている。なんとなくブダペストやプラハに似ている気がする、とテディは懐かしそうに目を細めた。  車はバースの象徴的な名所であるバース寺院の傍らを通り過ぎ、飲食店や様々な専門店が建ち並ぶ賑やかな通りへと入っていった。  ――電話にでたテディに、クレアはまず謝ってきた。 『あんなふうに逃げだしたっきり、今まで連絡もしないでごめんなさい』 『勝手なことを云っているのはわかってるわ……でも、おねがい。私たち夫婦にチャンスをちょうだい』 『私、あなたが云ったこと……あなたのほうからデニスを誘ったなんて、そんなこと信じてないわ。でもテディ、あなたのその優しさに甘えることにしたの。いろいろ考えたけれど、私たちにはダニーもいるし、別れるなんてどうしてもできない。だから、もう一度ちゃんとやりなおしたいの』 『デニスも反省してるわ。私にも謝ってくれたし、あの人、テディにも悪いことをしたって……とても後悔しているの。だから、きっとやりなおせると思う』 『ダニーも今度からシニアスクールだし、テディ、あなたもシックスフォームへ進むでしょう? だからこの夏季休暇(サマーホリデイ)を利用して、みんなで旅行しないかって――』 『私も、今すぐにあの家に帰って家事をしたりするのは……そんなふうに有耶無耶にするんじゃなくて、いったん環境を変えてゆっくり……リセットしたいの。みんなで旅行を楽しんで、さあまた明日からいつもと同じ毎日だって、あの家に帰りたいのよ。だから――』  切実に訴えるクレアの提案を、テディが拒む理由はなかった。嫌だと云ったところで、テディには夏のあいだ過ごす場所もなにもないのだ。わかりました、一緒に行きます――そうテディが答えると、クレアのほっとした気配が電話越しに伝わってきた。  そうして、長い長い休暇のうちの二週間を、このバースで過ごすことに決まったのだった。  アヴァロン・ハウスというそのホテルは、バース寺院などがある中心地から徒歩で十二、三分ほどの、緑の多い静かな通りに面した場所にあった。  十八世紀のジョージアンハウスを改装して宿泊施設(アコモデーション)にしたという建物は、この地方だけで造られる蜂蜜色をしたバースストーンで構築され、品の良い威厳を放っている。控えめな看板には洒落た飾り文字で『B&B』とあった――イギリスの宿泊施設でよく見られるこれはベッド・アンド・ブレックファスト(Bed & Breakfast)の略で、朝食はついているが、それ以外の食事は外のレストランなどへ行く必要があるということだ。  エントランスの扉へと続く石階段の両側にはバラやラベンダーが咲き乱れ、外壁には蔦が這い窓枠を縁取って、幽玄な雰囲気を漂わせていた。  車から荷物を下ろし、ホテルのボーイがラゲッジカートに乗せて運び入れると別のスタッフが出迎えてくれ、まずはチェックインをする。お待ちしておりましたラングフォード様、と歓迎の挨拶をされ、コーヒーか紅茶、オレンジジュースのいずれがよろしいですかと尋ねられた。  そしてラウンジに案内される途中、ダイニングの場所と朝食の時間の説明があって、お荷物は先にお部屋へお入れしておきます、とカートを押したボーイだけが通り過ぎた。四人は庭に面した大きな窓から明るい陽射しが降り注ぐ、広いラウンジに通された。  程無く、先程頼んだコーヒーとオレンジジュース、ブラウニーが出された。カップ&ソーサーも銀のカトラリーも、クラシカルで上品なデザインだった。ラウンジもダイニングも、華美になりすぎないシンプルなインテリアやテキスタイルで揃えられていて、クレアは思わず素敵ね、と小声で呟いた。  ほっと一息ついて皆がコーヒーを飲み干したあと、早くお部屋が見たいとクレアが席を立つと、すぐにさっきのボーイが飛んできた。廊下には大理石のコンソールテーブルがあり、そこにはレトロなランプと花が飾られていた。その奥へと進み、こちらです、とボーイがドアを開けると、「まあ、素晴らしいお部屋ね……!」とクレアが感嘆の声をあげた。  部屋の間取りや内装はそれぞれ違っているらしく、デニスたちの部屋のほうは薄紫を基調にしたシックな雰囲気の寝室と、暖炉の前にソファセットが置かれたリビングがある、広いスイートだった。宛ら少女のように胸許で両手を組んで感激しているクレアを見て、デニスは満足そうに笑った。最初に案内されたダブルのスイートにはデニスとクレア、その隣のツインの部屋をダニエルとテディが使うことになっていて、ダニエルは早速バスルームを覗いたり、ワードローブを開けたりしてはしゃいでいた。クレアもこっちのお部屋はどんなふう? と見にやってきて、ベージュとブラウンを基調にしたがらりと雰囲気の違うインテリアに感心していた。 「本当に素敵なところね……来てよかったわ。明日の朝食が楽しみ」 「気に入ったようでよかった。すまないね、本当はヴェネツィアかドゥブロヴニクへでもと思っていたんだが……」  デニスは、いま任されている仕事に若干の不安要素があり、なにかあって連絡が入ったときにすぐにロンドンへ戻れる範囲でないと都合が悪かったのだそうだ。申し訳なさそうに云いながらこっちを見たデニスに、テディは「ぜんぜんかまわないです。いいところだし」と答え、窓の外を見た。  掃出し窓から庭に出られるようで、テラスに置かれたテーブルとチェアの向こうは一面、緑の芝生だった。格子の填まったガラス戸を開けテラスに出ると、広い庭の片隅に緑廊があるのが見えた。今は鮮やかな緑一色のそれは、よく見ると長い豆のようなものがぶら下がっていて(ウィステリア)なのだとわかる。反対側には自然に生い茂っているように見える、絶妙なバランスのイングリッシュガーデンがあり、深い青や薄紫、白、黄色に薄紅色の花々が咲き乱れていた。そしてその向こうは緩やかな坂になっていて、眼下に広がるバースの街が見渡せるようだ。夜はきっと素晴らしい景色だろう。 「本当に素敵ね」  背後で声がし、テディは振り返ってクレアの顔を見た。視界に入った部屋のなかには、もうデニスはいなかった。 「一緒に来てくれてありがとう、テディ」  ここに四人で二週間の滞在となると、かなりの額になるだろう――想像して、しかしテディは金の問題じゃないなと思い直した。デニスはおそらく二週間も旅行している場合ではないのに、休みを取って近場でいいところをと探し、ここに決めた。きっとクレアに対する罪滅ぼしのようなものなのだろうし、これからはもっと家族のために尽くすという意思表示でもあるのだろう。  クレアは云っていたとおり、自分から誘ったのではないと本当に信じてくれているらしい。そうでなければ、ダニエルと自分を同室にするはずがないからだ。つまり、デニスが――自分の夫が未成年の男子に手を出したのだと知りながら、それでも家族としてやり直したいと強く思っているということだ。  デニスも懸命にクレアとダニエルに――そして、自分に対しても――気を遣っていると感じる。妻と息子を失いそうになって、本当に反省したのかもしれない。今はとりあえずクレアの機嫌を窺うのに必死になっているだけかもしれない。次はばれないようにうまくやろうと心のなかで誓っているのかもしれない。だが、もうテディにはどうでもいいことだった。これは家族の問題で、自分は家族ではないのだ。 「サーメバーススパ、でしたっけ。温泉、楽しみだな……」 「そうね、バース寺院も楽しみ。ソールズベリー大聖堂も見られるかしら。ダニーがストーンヘンジに行きたいって云ってたから」 「ストーンヘンジ? でもあそこ……あの謎の石以外はなんにもないでしょう?」 「でも、行きたいんですって。どうせゲームかなにかに出てきたのよ……グラストンベリーも行きたいって云ってたけど、あそこはアーサー王の伝説があるところよね」  あはは、と笑ってテディは部屋のなかへ戻った。  ダニエルは、大きな画面のTVの裏を覗きこんでいた。どうやら持ってきたビデオゲームを繋ごうとしているらしい。その様子を見て、クレアは「まったく、旅行中くらいゲームしないでいられないの?」と呆れたように溜息をついた。ダニエルは「だって、ホテルってすることなくて退屈じゃん」と云い返した。  リセットするための家族旅行――確かに、必要だったのかもしれないとテディは思った。クレアが求めているのは、自分を含めなんのわだかまりもなく一緒に話し、食事をし、笑いあい――もう気に病む必要はないと安心することなのだ。  たぶん、大丈夫だろう。まだデニスとふたりで話したり、謝罪されたりはしていないが、自分はもうデニスを怖れてもいないし、憎んでも、恨んでもいない。ただ、もうわざわざあったことを思いだしたくはないというだけだ。 「よし、映った。テディ、一緒にやる?」 「いいよ、やろうか」 「もう、テディまで……。夕方頃になったら出かけるから、そのつもりでね」  そう云ってクレアが部屋を出ていくのを、テディはわかりましたと返事をしながら見送った。

ともだちにシェアしよう!