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Lower 6th / Autumn Term 「Play with Fire」
しんと静まりかえった、階段傍の舎監室。自分に背を向け、さっさと下着を身に着け始めたハーグリーヴスに、テディはベッドのなかで寝そべったまま声をかけた。
「ずいぶん慌てて着るんだね……。もう朝までなにもないんじゃないの?」
ベッドに入る前に着ていた寝間着のシャツに袖を通しながら、ハーグリーブスは答えた。
「なにかあったらすぐに飛びださないといけないからな。念の為だ。なにもなければ朝の点呼まで部屋を出る必要はないんだが」
「ふうん」
訊いておきながらテディはそれほど興味がなさそうに、ブランケットのなかでもぞもぞと躰を動かした。自分の部屋で使っている毛布よりもするりとしていて、素肌に触れる感触が気持ちいい。釦 を留め、ベッドに腰掛けたハーグリーヴスに「ほら、もう部屋に戻れ」と云われ、テディは頸まで引っ張りあげた毛布に頬を擦り寄せた。
「ねえ、ここで寝ちゃだめ? 明け方には戻るから」
「それはだめだ。ダグラスたちは早起きだし、いつ誰に見られるかわからんからな。今のうちに戻れ」
また明日可愛がってやるから、とハーグリーヴスが額にキスを落としてくると、テディは別に可愛がってほしいわけじゃないんだけどな、と気怠げに溜息をついた。
ハーグリーヴスとこんな関係になったのは偶々だった。零時の見廻りが済んでから、外へ出かけようと階段を下りていったとき――運悪くコモンルーム横のキッチンにいたらしいハーグリーヴスと鉢合わせしてしまったのだ。こんな時間にどこへ行くと見咎められ、適当な言い訳も思いつかず、テディはちょっと来なさいとハーグリーヴスの自室である舎監室へ連れていかれた。
まず最初に聞かれたのは薬のことだった。以前、鎮痛剤を乱用している疑いがあったが、今はもうやっていないかと尋ねられ、テディはそんなことはしていませんと答えた。が、それを信用してもらえたとは思えなかった。そして次に、ハーグリーヴスはルカとのいわゆる不純な付き合いについて訊いてきた。
どう答えようか少し迷い、テディは、今はもう部屋が違うので、とだけ云って言葉を濁した。答えになどなっていないはずなのに、ハーグリーヴスはそれ以上ルカとのことについて、しつこく尋ねはしなかった。
で、今はどこに行くところだったのかと問われ――テディはもうどうにでもなれと、ちょっとソーホーまで行くつもりでしたと正直に云った。毎晩ちっとも眠れない。長い夜をひとり、なにもない部屋で過ごすのはもううんざりなのだと。
そう云うと、ハーヴリーヴスの目の色が変わるのがわかった。
マコーミックも、マシューのときもそうだった――相手が自分に対して好意や欲望を向けてくると、何故かそれがわかる。ひょっとすると、これまでに受けた凌辱の所為で敏感になっているのかもしれなかった。だが、テディはそれを危険信号として捉えることはなかった。むしろ――
「先生……。ここで、一緒に寝ていいですか?」
「……ここで?」
俯き加減に、上目遣いでハーヴリーヴスの目をじっと見つめる。ハーグリーヴスは、ありもしない人目を気にするかのように、ぐるりと視線を彷徨わせたが――
なにを云ってるんだ、さっさと部屋に戻って寝なさい、とは、彼は云わなかった。
夜中に近づいてくる足音は、もう怖ろしくなくなった。それはもはや自分を喰らおうとするモンスターのものではなく、自分の誘惑に簡単に負けて教師の殻を脱ぎ棄てた、ただの愚かな男のものになった。
一度味を占めるとハーグリーヴスは、そのスリリングな遊びにすっかり病みつきになったらしく、チャンスさえあればテディに目で合図を送ってくるようになった。点呼が終わった夜中の舎監室、食堂に皆が集まる昼食時の寮 の部屋、体育館内の倉庫、教会の長椅子の陰――行為そのものより、スリルのほうをハーグリーヴスは愉しんでいるのかもしれなかった。思いつく限りの場所で自分を抱くハーグリーヴスを、テディは時々わざと声をあげたり、今あそこに人がいたなどと云って翻弄した。そのたびに慌てるハーグリーヴスがおかしくてたまらなかった。
そして、そんな遊びを何度か繰り返すうちに、テディはきちんと授業に出るようになった。テディとの駆け引きや、ゲームの最後に得られる快楽にどんどん耽溺していくハーグリーヴスを避けるためだった。彼はあまりにもゲームに熱心になりすぎた――朝も昼も、暇さえあれば自分を追いまわすハーグリーヴスに辟易し、テディは教室を逃げ場に選んだ。
舎監教師 との情事というろくでもない遊びが、真面目に授業に出て勉学に励む、規則正しい生活をするきっかけになったとは皮肉だった。夜遊びをしたあともそうでないときも、今ではもうベッドに入ればちゃんと寝付くことができる。そうして、しっかり睡眠をとれるようになったおかげで、テディは朝の点呼にも遅れず、きちんと身支度をして廊下に出るようになった。
テディがやっと将来のことを真剣に考えてくれるようになったとルカは喜び、安堵したようだった。一緒に朝食を摂りに行き、食堂でその日の予定などを報告しあうことが日課になり、テディはとっている授業があるときはちゃんと教室へ行き、それ以外のときは図書室で勉強をした。図書室には大抵、試験勉強などをしている生徒が何人かいて、ハーグリーヴスが来たところでなにも手出しのしようがない。
とはいえ、あまり避けてばかりいて怒らせるのはまずいとテディは知っていた。
テディはルカが授業に出ているときを狙って、ハーグリーヴスと遊んでやることにした。教室にも図書室にもいない自分をルカが捜しまわって、ハーグリーヴスと一緒のところをみつけられないためだ。テディは真面目に規則正しい生活を送っている気晴らしに、ハーグリーヴスはしばらくおあずけを喰らっていた反動で、遊び方はどんどんエスカレートしていった。
スリリングな、満ち足りた毎日。学問も恋愛も、友人関係もセックスも――なにもかもが、うまく廻っていた。
「――めずらしい顔触れだな」
「おつかれ、ルカ。午前はもう終わり?」
「ああ、次は七時限めだよ。それまで空き」
ルカはそう云って、テディの隣の席に腰を下ろした。
等間隔を置いてずらりと並んだ巨大な書棚の間にある閲覧テーブルをひとつ占領していたのは、テディとマコーミック、そしてクレイトンの三人だった。それぞれノートを広げ、傍らに何冊も本を積みあげている様子を見て、ルカは「英文学かぁ」とまるで不味いものでも食べたかのように口許を歪めた。
「ああ、ブランデンブルクは苦手だったな」
「僕らにしてみりゃ、数学だの経済だののほうが訳がわからないけどな」
「おもしろいのにね」
暫し小声で雑談を交わしたあと、テディはマコーミックたちと別れ、ルカと一緒に図書室を出た。
「いる?」
「ああ、もらうよ」
テディは一本振り出した煙草をルカに取らせ、自分も咥えてライターの火を点した。ふたり一緒に煙草に火をつけ、ふぅと白い煙を吐きながら空を見上げる。
「今日はそんなに寒くないね」
「ああ、天気もいいしな。またカフェにでも行くか?」
「うーん、でも、もうじきランチだしね。今日ってなんだったっけ……ジャケットポテト?」
「そうだったか? 微妙だなあ、やっぱりカフェに行こうか」
「どうして? ポテト美味しいじゃない」
「不味いとは云わないけど、物足りないんだよ。ステーキがいいな。チキンでもいい。パプリカーシュチルケが食いたい」
「ハンガリー料理は出たことないね……、インド料理は出るのにね」
煙草を吹かしながら、ふたりは中庭をゆっくりと横切っていった。正面には、今はもう入ることもなくなったアッパースクールの校舎が見えている。澄んだ水色の空を映している窓を見上げ、テディはふと思いついて、くるりとルカを振り返った。
「ねえルカ――」
云いかけて気づいた。本校舎の傍の木の陰に、ハーグリーヴスが潜んでこっちを見ていた。テディは気づかないふりをして、ルカの手をとった。
「久しぶりに、音楽室に行こうよ。今なら誰もいないよ。俺、久しぶりにルカのピアノ、聴きたいな」
「ええ? まずいよ、下は授業やってるんだぞ。ピアノなんか弾いてたら、すぐに誰かすっ飛んでくるぞ」
そっか、つまらないなと俯いた振りをして、テディはちら、とハーグリーヴスを窺った。ハーグリーヴスはまだ木の陰にいて、じっとこっちのほうを見ているようだった。
ルカと別れて自分がどこかへ行くのを待っているのだろうか。よし、それなら――テディは立ち止まって煙草を踏み消し、ルカに向いた。
「じゃ、もう部屋に戻る? 昼食の時間まで、ルカの部屋で一緒に……」
一緒に? とルカが自分を見る目を見つめ返して、テディは少し首を傾けた。掴んでいた手をぎゅっと握り、薄く唇を開く。ルカは少し驚いたような顔をしたが、すぐに顔を近づけ、軽く重ね合わせるだけのキスをした。
そしてすぐに離れ、「こんな、外でなんだよ。ほら、部屋に戻るぞ」とテディの手を握り返し、ウィロウズ寮 に向かって歩きだす。
背中に感じる視線に、テディは笑いだしてしまいそうになるのを、懸命に堪らえていた。
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