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Lower 6th / Autumn Term 「With or Without You」

 痛かった。手が、そして胸が――。夜の点呼が終わったあと、ルカはテディの部屋に向かうことにした。クレイトンに頼まれた、英文学のレポートのことを伝え忘れたから――というのは自分への言い訳で、本当は手をあげたことを謝るためだった。  テディはそれだけのことをしたかもしれないが、だからといって暴力を振るったことが赦されるとはルカには思えなかったし、そんな人間にもなりたくはなかった。それに、最初に()った頬が腫れていないかも気になった。  暗い廊下に出てそっと静かにドアを閉め、忍び足でテディの部屋に向かおうとした、そのとき。ルカは、視線の先にヒギンズが立っているのに気がついた。どうやらヒギンズも今やってきて、テディの部屋のドアをノックしたばかりのようだった。  急降下した機嫌も露わに、ルカは「なんの用だ」と小声で尋ねた。 「こっちの台詞だね。あんなに殴っておいて、今頃なにしにきたんだ?」 「あんたには関係ない」  ルカはヒギンズを押し退けるようにしてドアを細く開け、「テディ、俺だよ……入っていいか」と小声で云った。それを見ていたヒギンズはふんと鼻で笑い、壁に凭れて腕を組んだ。 「無駄だよ。何度かノックしたけど、もう眠ったんじゃないか? に殴られて、泣き疲れてさ」  なにがおかしいのか嬉しいのか、ふふんと厭な笑みを浮かべて云うヒギンズに、ルカはこいつも面倒臭い奴だなと溜息をついた。誰が元彼だ、くだらない――と思っていると、ドアがゆっくりと開き、テディが姿を現した。  ルカはその顔を見てほっとした。とりあえず蒼くなったりはしていないし、腫れてもいないようだ。 「テディ、大丈夫か? あんなに殴られて、どこも怪我はしなかったか? 心配で様子を見に来たんだ」  ルカの前に身を乗りだすようにして、先にヒギンズがテディにそう尋ねた。が、テディはちら、とルカの顔を見たあと、少し困ったようにヒギンズに云った。 「……悪いけど、帰ってくれないかな。ルカと……話があるから」  ルカが黙って様子を見ていると、ヒギンズははぁ? と首を捻り、テディに詰め寄った。 「なに云ってるんだテディ、こんな乱暴な奴となんの話があるっていうんだ。おまえはもうこいつが嫌になったから俺のものになったんだろ? こんな奴もうほっとけば――」 「一度寝たくらいで恋人にでもなったつもり? 俺のものとか、そういうのやめてくれないかな……俺は俺、誰のものでもないよ。勘違いしないでくれる」 「なっ――」  ヒギンズが拳を振りあげる。ルカは咄嗟に腕を伸ばし、テディにその拳が振り下ろされるのを制した。 「夜中に騒ぎを起こすのはやめとこうか、隣はヘイワードだ。とっとと自分の部屋に戻れよ」  そう云ってテディの前に立ったルカを、ヒギンズは物凄い目で睨みつけた。そしてちっと舌打ちし、テディに向かって忌々しげに吐き棄てる。 「――この淫売が!!」  そんな言葉などまったく聞いていないかのように、ルカはテディの肩を抱き、部屋に入ってドアを閉めた。 「頬は」 「ん、平気」  サイドテーブルの上のランプだけを灯した仄暗い部屋のなか、テディはベッドに腰掛け、ルカはソファに坐った。視線を落としたまま、こっちを見ようとしないテディに、ルカは「叩いたのは悪かった」と簡潔に謝った。 「謝らなくていいよ。ルカってば手を振りまわしてただけで、たいして痛くもなかったし」  そういうことじゃないだろうと思ったが、自分が気を楽にしたいがためにここでしつこく云うのもなんだかな……と、ルカはもうそれ以上手をあげたことに関しては、なにも云わなかった。  ふたりのあいだに、沈黙という名の空気が淀む。 「……淫売だって。ふふっ、そんなこと云われるくらいなら、あいつからも金取ってやればよかったな」 「テディ……」  ヒギンズはもうすっかりテディと好い仲になったつもりだったらしいが、テディの態度からは、甘い言葉のひとつもあの男と交わしたようには感じられなかった。  俺は俺、誰のものでもないとテディは云った――こんな冷めた性格をしていただろうか? 人見知りがひどくておとなしい、泣き虫なテディはいったいどこへ消えてしまったのか。ずっと一緒にいて、見棄てないでと自分に縋ってきたのは、ついこのあいだのことなのに。否――その前から少しずつ、なにかがおかしくなってきていたのかもしれない。  煙草、薬、酒、セックス――いったいテディになにがあったというのだろう。いったいなにが、彼をここまで変えてしまったのだろう?  ルカはじっと、頼りない灯りに照らされた、翳りのある顔を見つめた。 「もう、おまえは……俺のことを、愛してないのか」 「愛してるよ」  あまりにもあっさりと返事がかえってきて、ルカは一瞬反応に困った。 「愛してるよ。俺が愛してるのはルカだけだよ。……ルカこそどうなの。もう俺のことなんか、面倒臭くて棄てたいんじゃない?」  気に入らない云い方だった――面倒臭いと思うなら、もう棄てるつもりなら、消灯時間ぎりぎりまで部屋で待ったり、今ここに来たりしてやしない。前にも思ったことだ――テディはこれっぽっちも自分の気持ちなど考えてはいない。なにひとつ、わかってくれようとはしていないのだ。 「……そうだな。もうおまえなんかうんざりだ。おまえが、いま一緒に過ごす時間が大事だって云うんなら、俺はそれに応えられない。こんな状態でおまえが荒れて、また揉めてって繰り返しててもしょうがない。……今度こそ終わりにするか。おまえもそれでいいんだな」  淡々とルカは云った。テディは身じろぎもしない。なにか云おうともせず、時間が止まったかのように表情さえも変えなかった。  ルカもそれ以上なにも云わないまま、おもむろに立ちあがり、そしてテディの前を横切って部屋を出ていこうとした。――が。 「いい……わけないよ……」  ルカがドアのノブを握るか握らないかのタイミングで、テディがか細い声で呟いた。 「……いやだよ……、ルカ、どうして……ほんとに俺を見棄てるの……。もうたすけてくれないの、俺、ひとりに……いやだ、見棄てないで――」  なにかに怯えるように膝を抱え、飽きるほど何度も聞いた台詞を滲んだ声でテディが唱えるのを聞いて――奇妙なことだが、ルカはほっと胸を撫でおろした。  ああ、いつものテディだ。  そして思った――また赦してしまうだろうと感じていたのは、あれは予感ではなく、自分の望みだったのだと。  ドアを開けようとしていた手をだらりと降ろし、ルカは自嘲的な笑みを浮かべ、テディの傍に戻った。  結局、ふたりはまた元の鞘に収まった。  何度もこんなことを繰り返すのはいいことじゃないなとルカは思った――だんだん、麻痺してきているのがわかるのだ。  ルカのなかに純真で美しい、可憐だったテディはもういない。そこにいるのはなにを考えているのかわからない、怠惰で奔放な、手のかかるトラブルメイカーだ。まったく厄介だと、ルカは頭を抱えた。なにがいちばん厄介って、自分がまだこんなテディをどうしても突き放せないでいることである。  ヒギンズはもうあれ以降絡んでくることはなかったが、かわりにテディが誰とでも寝るという噂が上級生(シックスフォーマー)のあいだで広まっていた。ヒギンズが腹いせにあることないこと云いふらしているに違いないと思ったが、証拠もなしに怒鳴りこんでも無駄だしまた騒ぎになるだけ面倒なので、もう放置しておくことにした。相手にしないでいれば、皆が飽きてそんな噂はそのうちに消えるだろう――もっとも、その前にテディがドロップアウトしなければの話だが。  いつものとおり、テディは話しあった夜には今度こそ真面目にやると泣いて謝っていたが、三日ほどちゃんと授業に出ただけですぐ元に戻ってしまったらしい。ルカもまあ、そんなことだろうと心のどこかではわかっていて、ほとんど諦めている状態だった。  自分がずっと目を光らせていることもできないし、たとえ自分と同じ授業をとっていたとしても、もう口煩くテディの尻を叩く気にはならなかっただろう。テディが落第しようが退学になろうが、もう成り行きにまかせておけばいい――そして自分たちの仲も、きっとなるようにしかならない。  ルカはそんなふうに、妙に醒めた心地でテディとの関係を続けていた。逆に云えば、そんな危うい状態でも、自分からその関係を終わらせることはできなかった――否、終わらせようとは思わなかったのである。  まるで、なにか大切なものの死を看取ろうとするかのように。

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