75 / 86

Lower 6th / Autumn Term 「Bleeding Heart」

 バスマティライスを添えたチキンティッカマサラを食べたあと、ルカはひよこ豆のパパダムをぱりっと齧りながら食堂のなかを見まわした。  今日はまだテディの姿を見ていない。部屋で本でも読んで時間を忘れているのか、それともまたどこかへ出ていってしまったのだろうか。アッパースクールの頃と違って朝から晩まで教室にいる必要があるわけではなく、このあとテディのとっている授業があるのかどうかもルカは把握していない。  とりあえず捜しに行く必要まではないと判断し、ルカはもう少しここで待ってみるかと、お茶のおかわりを淹れに席を立った。  大きな保温ポットに入った紅茶と、ピッチャーのミルクをカップに注いでいると、「やあハムレット。元気か?」と声をかけられた。 「クレイトンか、久しぶり」と返して、自分と同じくカップを手にしているクレイトンに場所を譲る。するとクレイトンは「あ、そうだ……ちょっと伝言を頼まれてくれよ、ブランデンブルク」と云いだした。  なんだろうと思いながら、ルカは頷いた。 「伝言? どうせ会う奴にだったらかまわないよ、誰になにを伝えればいいんだ?」 「ヴァレンタインだよ。僕は彼と同じ英文学をとってるんだけど、このところ彼、ずっと授業に出てないんだ。ウィンストン先生がレポート十枚書いて出席すれば減点はしないから、出てくるようにって――」 「授業に出てないだって? ずっと?」  ルカは驚いてそう聞き返した。クレイトンも意外そうに目を見開く。 「なんだ、知らなかったのか? てっきり、君と一緒にいて出てこないんだとばかり」 「そんなわけないだろ。……まあ、わかった。英文学のレポート十枚だな、云っておくよ」 「頼むな」  カップを持って席へと戻りながら、ルカはまたか、と顔を顰めた。  そういえば確かに、部屋で勉強しているときもテディはなんだか集中していないというか、やっているふりをしているだけのように見えることもあった。  同じ教室で過ごしたいがためにふたりしてそれほど得意でもない科目を選ぶより、好きな授業をとって確実に成績を伸ばそうと話して専攻を分けたのに、それが裏目に出てしまうとは。  否――おそらく、自分と同じ授業をとらせていたところで、事態はさほど変わらないんだろうなと、ルカは思った。自分はとにかくテディとの約束――同じ大学へ行って、一緒に暮らすという目標を現実にするために毎日努力を続けているし、少々不満に思うことがあっても今はしょうがないと我慢もしているが、テディは違う。テディはいつだって、が気に入らなければもうそれだけでなにもかも投げだしてしまうのだ。今回もどうせ、自分と一緒にいられないからと授業に出る気が失せてしまって、やっぱり大学なんて無理だとかこんな自分はだめだとか、後ろ向きになってしまっているに違いない。  ミルクティーを飲みながら、まったく世話が焼けるなあ……と、ルカは溜息をついた。  テディとまったく擦れ違いもしないまま夜になり、(ハウス)に戻ってくると、ルカは自室を素通りしてまずテディの部屋をノックした。だが返事はなく、いちおうドアを開けてなかを覗いてみたが、暗い部屋にはやはりテディのいる気配はなかった。  いったん自室に戻り、その日のノートの整理とシャワー、着替えなどを済ませてから、ルカはもう一度テディの部屋に行った。今度はテディが戻るまで待つつもりで部屋に入って明かりをつけ、ドアを閉める。  ベッドの傍には脱ぎっぱなしのソックスとシャツ、サイドテーブルには無雑作に積まれた何冊もの本、テーブルの上には使ったままのマグやコーラの空き缶が置きっ放しで、そのうちの何本かには煙草の吸い殻が詰まっていた。ソファの肘掛けには、読んでいる途中らしいペイパーバックが伏せられている。こんなふうにしておくと開き癖がついてしまうだろうに、と首を捻り、ルカは部屋の様子を見まわした。  そして、こんなにだらしない奴だったか? と呆れかえった。今まで自分と一緒に過ごしていたときは、こんなふうではなかったのに。  デスクの上も、CDやラップトップが置いてあるだけでノートも参考書の類いもなにもなく、普段きちんと勉強をしているようにはまったく見えなかった。ふと、抽斗を片っ端から開けたい衝動に駆られ、ルカはぐっと拳を握りしめた――また鎮痛剤などを乱用しているのではと思ったのだ。だが、勝手にそれを調べるのはテディを信じていないことになると感じ、どうしてもできなかった。  ただ、今回は自分でも気づいていた――それができない、否、したくないのはルカが自分自身に傷をつけず、綺麗に保っていたいからなのだと。だらしのない部屋を見て、テディがまた薬に逃げているのではと考えたのは確かなのに、証拠を探そうとしないことで自分は恋人のことを信じている、ということにしたいだけなのだと。  そう心のどこかでわかっていながら、同時にルカは開けるなら冷蔵庫だろうか、とも考えていた。待っているあいだに喉が渇いて、コーラかなにかをもらおうと思って開けた――そんな言い訳を用意して、薬の入ったチョコレートの缶かなにかがないか確かめようと思ったのだ。  心配なら、疑うくらいならさっさと確かめてみればいい。いや、まだ明らかに薬物を乱用しているような様子すら見ていないのに、そんなことをするのはよくない。恋人を信じられないなんて人として最低だ――そんな意見が頭のなかでせめぎ合って、ルカはこの部屋に入ってからほんの十数分しか経っていないのに、まるで森の奥深くで遭難してから何日も経ったような疲れを感じた。  テーブルの前の椅子に腰掛け、自分はこんなふうにああでもないこうでもないと考え事をするような性格ではないはずなのに、と溜息をつく。  それにしても、テディはいったいどこへ行っているのだろう。サイドテーブルの上の目覚まし時計を見ると、針はもう九時半過ぎを指していた。消灯までには帰ってくるだろうか――ちゃんと、この部屋に帰ってくるのだろうか? ルカは、おそらく外に出ているのだろうテディの身になにか起こってはいないかと、急に心配になった。  いちばん考えたくないことだが、また街へ出て悪い遊びをしているのではと想像し、ぎゅっと膝を掴む。  男娼の真似事のようなことをするのは全身の血が沸騰するほど赦せないが、それで妙な男に引っ掛かって酷い目に遭わされはしないかと危惧するのは、心臓が冷えて息ができなくなるほど苦しい。  大丈夫だ、テディはもうそんなことはしない。だって、このあいだそう約束をしたのだから。テディは云った。二度とルカの嫌がることはしないと誓う、と。信じよう、信じなければ。  ルカは両肘をついて組んだ手に額を乗せ、落ち着こうとするようにふぅ、と息を吐いた。今度こそ、今度こそテディは約束を守るはず。だって、彼は自分を必要としているのだから――。  それから何分ほど経った頃だろうか。微かな笑い声と足音が耳に届き、ルカは顔をあげてドアのほうを見た。テディが帰ってきたのかもしれないと思い、足早に部屋を横切ると、ルカはドアを開けて廊下に顔を出した。  オレンジ色の灯りが照らす薄暗い廊下で、テディは短い黒髪の男の腕に抱かれ、キスをしていた。それを見た瞬間、ごちゃごちゃと考えていたいろいろなことが一気に吹き飛んだ。大きくドアを開き、部屋の白い光が漏れた廊下に飛びだすと、ルカはつかつかと口吻けを交わしているふたりに歩み寄った。ふたりが顔を離し、驚いたようにこっちを見ると同時にテディの肩を掴んで引き寄せ――右手で思いきり頬を張る。 「おい――」  黒髪の男がなにか云いながら割って入ろうとしてきたが、ルカはテディを()つ手を止めなかった。壁に背中をつけてしゃがみこみ、両手で顔を庇うテディの頭を、腕を、肩を、狙いも定めずに滅茶苦茶に叩き続ける。  やめろ、やめないか! と止める声で、ヘイワードや他の部屋の寮生たちも廊下に出てきた。なんだなんだ、何事だとざわつき、そのうち数人が喧嘩だと声をあげ、止めようと近づいてくる。 「やめろ、やめるんだブランデンブルク!」 「ブランデンブルク、なにがあろうと暴力はだめだ!」  ヘイワードたちに制止され、はっと我に返ったかのように止めた手を一瞬見つめたルカは、今度はテディの襟首を引っ掴んで揺さぶり、泣いているような悲痛な声でテディを責めた。 「おまえ……ほんとにいいかげんにしろよ……! なんで……なんで、おまえはそうやって俺を裏切るんだ!! もう二度としないって云ったのは、あれはなんだったんだよ! もうだめだ、無理だ! もう金輪際、今度こそ――」 「だってルカが……! ルカと、ちっとも一緒にいられないから……!! 俺云ったよね? ルカさえいてくれれば、俺は大丈夫だって……でもこんなにいろいろ別々になっちゃって、大丈夫でいられるわけないじゃない! 俺だってもう無理だよ、だめだよこんなんじゃ……ルカが悪いんだ……! 俺がルカを裏切るのは、ルカのせいなんだよ!!」 「俺のどこが悪い!! 俺はいろいろ先のことまで考えてるんだ、おまえと違ってな! それがわからないならもう勝手にしろ! 俺以外にちゃんと面倒みてくれる奴をみつけて、好きにすればいいさ!!」 「おい、おまえらちょっと落ち着け!」  何人かに腕をとられてテディから引き離され、ルカは唇を震わせながらテディの顔を睨みつけた。黒髪の男――初めて正面から見て、確か一学年上のヒギンズだったとやっと気づいた――は、頬に触れながら心配そうにテディの顔を覗きこんでいた。が、テディはその手を払うようにして立ちあがり、ふらふらと自室に向かって歩きだした。 「お、おいヴァレンタイン! 君はこんな時間にこんな騒ぎを起こしておきながら、なにか云うことは――」 「待て待てヘイワード」  テディを引き留めなにか云おうとしたヘイワードに、ヒギンズは云った。「こんな時間だからこそ、もうこれ以上大事(おおごと)にしないほうがいいんじゃないか? 幸いハーグリーヴスは上がってくる気配がないし、騒ぎの原因はといえばただの痴話喧嘩だ――」  それに一枚噛んでいるのは自分だろう、とルカはヒギンズを睨んだが、彼はその視線には気づかないふりをして続けた。 「ここは監督生(プリフェクト)としては、皆にさっさと自室に入って静かにしているように云うほうがいいんじゃないか? いつまでもここでうだうだやってるとそのうちハーグリーヴスが来て、を問われたりしないかな……」  そう云ってヒギンズがちら、と顔を見ると、ヘイワードはふむ、と顎に手を当てて困ったようにルカを見た。 「そうだな、おい。おまえらもうそいつを離してやれ。いいかブランデンブルク。今回は大目に見てやるから、今後はこのような騒ぎを起こさないよう、ヴァレンタインとの不純な付き合いについても改めるように」  おまえなんかに指図されるようなことではない、そんなふうに簡単ならこんなに苦労するものかと思い、ルカは返事のしようもなくただ黙って立っていた。ヘイワードは眉間に皺を寄せていたが、それ以上はなにも云わず、他の寮生たちに部屋に入るよう指示をした。  なんだか酷く疲れた気がして、ルカはもやもやとした気分を抱えたまま自室に戻ろうとし――ドアを開けながら、ちらりと一瞬、テディの部屋のほうを見た。  他の男とのキスシーンを見たことや、裏切るのは自分の所為と云われたことよりも、初めて手をあげたことのほうがショックだなんて――頭に血が上っていたときはもう、今度こそ本当に終わりだと思っていたはずなのに。  ルカは部屋に入ると、今回もまた自分はテディを赦してしまうのだろうなと、閉めたドアに凭れ掛かって目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!