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Lower 6th / Autumn Term 「心強い味方」

 じっと部屋で待ったまま、数時間――。ルカの部屋にモースタンがやってきて、まずハーグリーヴスの無事を知らせてくれたのはもうとっぷりと日が暮れた頃だった。  まだ検査は必要だが、ハーグリーヴスはもう意識を取り戻していると聞いて、ルカとテディはほっと胸を撫でおろした。だが、夕食後、ひとりずつ談話室まで来なさいとモースタンが云うのを聞くと、また表情を強張らせた。  ほとんど喉を通った感じのしない食事を終えて、云われたとおり向かった談話室には先にテディが通された。ルカは教職員室のほうで、テディの聴取が終わるのを待たされた。  食堂でも(ハウス)でも、ここに来る途中の廊下でも、生徒たち皆がちらちらと自分たちのほうを窺い見て、ひそひそとなにか話していた。教師と生徒、痴情の縺れ、暴行――この退屈な檻のなかで起こった刺激的な事件は、瞬く間に学校中に広まっていた。教職員室に残っている教師までもが、まるで触れたら爆発するものでも見るようにルカを遠巻きにし、ろくに話しかけてもこなかった。  待っている時間は途轍もなく長く感じた。テディはなにを訊かれ、どんな話をしているのだろうと思いながら、眼の前のテーブルに灰皿があることに気がつく。ルカは、テディに煙草をもらっておけばよかったと後悔した。試験直前でもこんなに落ち着かないことはなかった。頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまいたかったが、ルカは逆に長椅子の背凭れに深々と躰を預け、雑然とした室内を見まわした。  がちゃっと音がして扉が開き、モースタンとテディの姿が見えた。ルカは立ちあがりそっちに向いたが、テディは中に入ってこず、そのまま見えなくなってしまった。教職員室を出てモースタンについて歩き、ルカは談話室に入った。すると―― 「おやじ!!」  ライトグレーのスーツに身を包んだクリスティアンがそこにいた。  大きなテーブルの両側には、シノワズリ柄の別珍がところどころ薄くなった古そうな椅子が五脚ずつ並んでいて、クリスティアンはその真ん中の席に着いていた。テーブルを挟んで向かい側には校長と、いつも日曜礼拝で見る英国国教会の司祭、その横にきっちりとスーツを着こんでいる知らない顔が三人、ずらりと並んで席を埋め、威圧的な態度でこっちを見ていた。  そっちへ坐りなさいと促され、ルカは緊張した面持ちでクリスティアンの隣に腰を下ろした。 「ルーカス・ダミアン・ルイス・ブランデンブルク。今回の件について、君からもちょっと話が聞きたい。いいかね」 「……はい」 「まず、ハーグリーヴスの頭を殴ったのは、君で間違いはないかね」  最初に校長がそう尋ねてきた。そんなことはもうわかりきっているだろうに、と思ったが、事実を確認するというのは大事なことなのかもしれない。ルカは素直に答えることにした。 「はい。間違いありません」 「なぜそんなことをしたのかね?」 「……ヴァレンタインの部屋を訪ねたとき、物音が聞こえたんです。耳を澄ますと声も聞こえた気がして、なんだかおかしいなと思い、ドアを開けました。そしたら……ヴァレンタインが誰かに襲われていたんです」 「実際はそうではなかったようだが?」  テディは正直に云ったらしい。ルカもしょうがないので、そうすることにした。 「……そのときは、襲われていると思ったんです。両手を縛られているのが見えたし」 「縛られていたら、そう思うのも無理はない。自分の(ハウス)の先生とはわからなかった?」  今度はスーツを着た男がそう質問してきた。 「はい。ハーグリーヴス先生だとわかったのは、テ……ヴァレンタインに止められてからです」 「君とヴァレンタインとの仲について訊こう。アッパースクールの頃から君らについてはいろいろと噂があるようだが、あれは本当なのかね?」  そんな質問を親の前でするのか、と思ったが、もうこうなったら怖いものなどなにもない気がしてきた。ルカはちら、と隣に坐るクリスティアンの表情を窺ったあと、答えた。 「……はい。ヴァレンタインとは真剣に交際をしています。ですが、もしもヴァレンタインではなく後輩か誰かだったとしても、襲われていると思えば僕は同じことをしたでしょう」 「待ちなさい! 交際をしているというのは、その……どんなふうにだね!? まさか君も、神をも畏れぬ罪を犯しているのでは――」 「先生、その問題はとりあえず置いておきましょう。どのみち今の時代、それは糾弾すべき問題かどうか微妙なんです。――ねえブランデンブルク君。今さ、おとうさんもそうやって横にいるのに、どうしてそんなことを告白したの? 後輩でも同じことをしたのなら、云う必要ないよね?」 「隠すようなことではないからです。僕は、僕が悪かったことがあるとしたら早合点したということだけだと思っています。勘違いして先生をあんな目に遭わせてしまったことは反省していますが、ヴァレンタインとのつきあいも、暴漢だと思った相手を殴ることも間違っていたとは思いません。僕は腕っ節が強くないし、喧嘩なんかもしたことがありません。あの場合、確実にたすけようと思ったらああする以外にありませんでした」 「人を呼ぶとかすればよかったのでは?」 「人を呼ぼうとするということは、背を向けるということです。自分の身も危険に晒してしまいます」 「ふむ……」  非常に聡明な生徒さんのようですな、とスーツの男が云い、校長は黙ってしまった。しかし。 「いや、確かにもしも本当に侵入した不審者だとかに襲われていたのなら、君のしたことは糾弾するにあたらないかもしれない……だがね、実際にあったことを端的に云えば、交際している相手が襲われていると勘違いして、そこにあった椅子で殴りかかって頭を六針も縫う大怪我を負わせたっていう、これは立派な傷害事件だよ」 「いや、しかし事件というとその……大事(おおごと)になってしまって我が校にとっても、不名誉なことに……」 「確かに表沙汰にすれば非常にセンセーショナルな話題として、マスメディアにも注目されてしまうかもしれませんな。男子校での男性教師と生徒の淫行に、流血沙汰とくると――」 「事件にするつもりはありません。もうも掃除させてしまいましたし」 「教師の淫行はまずいですな。生徒による傷害事件よりもまずい」 「どのみち、今から警察を呼ぶわけにはいかんでしょうな」 「。そのようにいたしましたので……」 「当然です。表沙汰にする気はありませんよ。ただ、いま話しているのは処分をどうするか考えるために――」  話を聞いていてルカはだんだんと苛々(いらいら)し、肚が立ってきた。  なにがまずいとか表沙汰にはしないとか、挙句の果てに警察は来ないとか――この連中は学校の名誉だとか体面だとか、そんなことしか考えていない。そんなことは少なくとも今、自分の眼の前で話すべきことではない。 「あの、失礼ですが」  聞き慣れた父の声に、ルカは顔をあげ隣を見た。 「誤解だったとはいえ、うちの息子がしでかしたことについては、大変申し訳ないことをしたと謝罪させていただきます。怪我をなさった先生にも、充分なお詫びとお見舞いをさせていただくつもりです。ただ、云わせてもらえれば、息子がこんなことをしてしまった原因は、朝っぱらから生徒の部屋で、まだ未成年の生徒と淫行に耽っていた先生にあるんじゃないですか? その子とうちの息子が好い仲だったとか、そんなことは関係ないですよ。うちの息子は、椅子で殴りかかって先生に大怪我をさせた。そこを罰してもらえばいいんです。淫行した先生は先生で、退院なさったらそれなりの処分をする必要があるでしょう。それだけのことです。そうじゃないですか?」  ルカは内心で父に拍手を送った。自分の云いたいことを全部云ってくれた――怒っていない。それどころか、父は自分の味方でいてくれる。ルカは俯き、頬を緩めるのはまだ早いと、きゅっと唇を引き結んだ。 「しかし、淫行事件となるとヴァレンタインも被害者ということになりますねえ」 「い、いや、しかしさっきの話とあの態度を見る限りでは……あれは、ただの被害者などとはとても思えん! むしろあの子がすべての元凶ではないのか!? 同級生や教師を(たぶら)かして、罪を……ああ神よ、口にするのも憚られる!」 「いや、もう今の時代、同性愛は罪とは――」 「この学校は英国国教会に属しているんですぞ!」 「しかし、他の信仰を持っている生徒も受け入れているじゃないですか」  テディはいったいどんな態度でなにを云ったんだとルカは少し不安になりながら聞いていたが、話が突然同性愛に移り、今回のことにそれは関係ないと云ったばかりじゃないかと眉間に皺を寄せた。どうしてそこへ話が逸れるのか。自分を呼びだして事実確認をしたのだから、もう教師を殴って大怪我させたことに対してだけ小言をくれればいいのではないのか。 「まあ、もともとあのヴァレンタインという生徒は、普段から授業も真面目に出てこないというような問題もありまして……」 「そういえば以前、薬物乱用の疑いもあるとの報告がありましたね」 「なんと!! そんなことが!? やっぱり、親もいないそうだしろくな子では――」  その言葉を聞いて、とうとうルカは我慢できなくなった。 「は!? なに云ってんだあんたら、そんなこと関係な――」 「ルカ」  思わず立ちあがったところをクリスティアンに止められ、ルカはぐっと押し黙り、すとんとまた坐った。 「失敬――まったく、子供というのは礼儀知らずで困ります。親としておとなとして、間違ったことはきちんと正していかねばなりませんね」 「は、いや、まったくですな、ブランデンブルクさん」 「ところで、親がいないとなんですって?」 「はい?」  司祭も校長も、皆一様にきょとんとした顔をした。クリスティアンはそれを一瞥し、ふっと笑って続けた。 「親がいないのは、それが離婚や未婚での出産というおとなの身勝手によってであれば子供は犠牲者と云えるでしょうし、死別であれば不幸と云うしかありません。礼儀や常識を教えるおとなが傍にいなかったなら、それもまた子供の所為ではないでしょう。もしもろくな育ち方をしていない子供がいたならば、それを教育し正しい道に導くのがあなた方の仕事ではありませんか? 少なくとも――」  クリスティアンはじろりと、先程の台詞を吐いた司祭を睨んだ。「ろくな子じゃないとか元凶だとか云って排除しようとは、あなたの神はしないと思いますがね」 「ぐっ……し、しかし、神は……聖書には、男色は罪であると――」 「先生、あなた、ビーフステーキはお召しあがりにならないので? 豚肉(ポーク)は? 綿麻(コットンリネン)のシャツや、ポリエステルやアクリルなんかの合成繊維が混じった生地の衣服は身に着けない? ご親戚の誰も、畑に二種類以上の野菜の種を撒いて育てていない? ……これら全部、レビ記に記されている、してはいけないことですよね。いやいや失礼しました……もちろんご存じなはずだし、こんなことすべて守っていたら、いくら聖職者でもいまどき生活できませんよね。――どうして男色、同性愛だけ、いつになっても(かたき)みたいに採りあげるんです?」 「は……、い、いや、しかし――」 「いいですか。今回のことに関して同性愛は関係ありません。頭のなかで、あの子が女子生徒だったらと置き換えて考えてごらんなさい。性愛の対象が男だからと、教師を誑かしたとあなた方は叱りますか? 仮に、本当に生徒のほうから誘惑したのだとしても、手をだせば悪いのはおとなのほうではないのですか? ルカとのことだって、これがもし異性愛なら思春期にいつも一緒に過ごしている同級生と恋仲になったからといって、神まで引っ張りだして大騒ぎしますかね? 神もいい迷惑ですよ」  堪らずルカはぷっと吹きだした。 「だから、もう一度云います……どうか先生方、冷静になってフェアな判断による処分をしてやってください。今回のことと無関係な問題は、それはそれで別に考えるべきです。それによって下された如何なる処分にも、私たちは従います。学校にとって不名誉だというのもわかりますから、穏便にとおっしゃるならこちらも口外はしませんし、先程云ったように怪我をされた先生のところにも、医療費や療養中の生活費などを含めた慰謝料を用意してきちんとお詫びに伺わせていただきます。どうかよろしくおねがいします……今回のこと、まことに申し訳ありませんでした」  なんだか目許が熱くなるのを感じながら、ルカも真摯な表情で「本当にすみませんでした」と謝罪した。

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