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Lower 6th / Permanent Exclusion 「Now I'm Here」

 ここへ戻ってきたら、祖父に無駄な金を遣ったと罵られるのかもと思っていた。だが祖父はこの屋敷に着いたときも昼食のときも、まったくテディの前に姿を現さなかった。  相変わらず食事はこんなに皿を使うことはないのにと思うほど贅沢なものだったし、部屋はきちんと清潔に整えられていて、ベッドの上には新しいガウンやパジャマまで置いてあったが、テディはやはりここで暮らすのは無理だと感じた。顔を合わせるのも厭なほど疎まれている相手に、どうして世話になることなどできるだろう。  以前ここにいたときとは違って、自分はもう十六歳、あと三ヶ月ほどすれば十七歳だ。学歴などなくても、生きていくための食扶持(くいぶち)くらい稼ぐことはできる。生きていこうと思うなら、だけれど――と、ついそんなことを考えて、ふとテディはクレアのことを思いだした。  永久退学(Permanent exclusion)処分と聞いて、ショックを受けて泣いていたクレアは、帰り際、前日に連絡を受けていながら学校に来られなかったことを自分に詫びた。タイミングの悪いことに、以前から懸念していたデニスの仕事に問題が発生し、クレアも一緒になって金策に駆けまわったりしていたのだそうだ。結局伯父、つまりテディの祖父が金を出してくれ、なんとか会社がなくならずに済んだのだとクレアは云った。  もう(うち)には帰ってこないのね、と云うクレアに、テディは今までありがとうございましたと礼を云った。クレアはまたぽろぽろと涙を零し、寂しくなるわとハグをした。  母を亡くしたとき、自分はもうたった独りなのだと思ったが、今はそうは感じない。またあの家を訪ねようとは思わないがクレアにはとても感謝しているし、トビーは元気でやっているかなと気になる。デックスはロウアーシックスになってからほとんど話すこともなかったけれど、監督生(プリフェクト)として頑張っているのだろうなと思う。ジェレミーもロブも、今どこでなにをしているのかと考えるときもある。  それに、大好きな音楽の話を時間を忘れて語りあった、ジェシ。素直で明るくて、一緒にいるだけで空気が朗らかになった。相変わらずお菓子をたくさん食べているのかな、ダイエットはどうしただろなと思うだけで、自然に笑みが浮かぶ。  そして、ルカ――。自分の所為で、ルカの努力も将来も、なにもかも台無しにしてしまった。でもきっと彼なら、ドイツかスイス辺りの学校にでも入り直して、ちゃんとまともな人生を取り戻すだろう。そのために自分は、一緒にいてはいけなかったのだ。  誰も傍にはいなくても、自分はもう独りではない。もしも自分が死んだなら、泣いて悲しんでくれるであろう人がいる。だから以前のように、自分がどうなろうがどうだっていいなどとは思わない。  まあなんとかなるだろうと、テディは長く使っている草臥れた黒いリュックサックにほんの少しの荷物を詰め、ジーンズにプルオーバーという気取らない恰好に着替えた。ラップトップの入ったショルダーバッグをどうしようかと迷ったが、持っているとついルカやジェシと連絡を取りたくなってしまうかもと、置いていくことにする。そして厚手のパーカーを羽織ると、テディはかつて母が過ごしていたというその部屋を振り返ることもなく後にした。  この家の使用人たちは、毎日決まった時刻に厨房の近くにある使用人専用の部屋に集まってお茶を飲む。祖父は、自分が戻ってきてからまったく部屋から出てこない。テディは足音をたてないようにそっと階段を下り、いま使用人たちが集まっているはずの部屋があるほうをちらりと見ながら、エントランスのほうへ向かった。  厚い絨毯が敷き詰められている広い廊下に出ると、足音がしないことに安心してつい急ぎ足になってしまう。テディは誰かと鉢合わせしたりしないように、注意しながら進んでいった。すると、息が詰まりそうに静まりかえった屋敷のなかで、ふとその音が耳に届き、テディはぴくりと足を止めた。  家のなかから聞こえるのではない。おそらく外から――そのぎごちないアコースティックギターの音は、どうやらゾンビーズの〝This Will Be(ディス ウィル ビー) Our Year(アワ イヤー)〟を弾こうとしているようだった。だがコードもなんとなく違っているし、まったくひどい演奏だった。  近くにこういうのが好きな子供でもいるのかなと思いながらテディがまた歩き始めると、その曲の演奏はもう諦めたのか、今度はスローなワルツのテンポを刻む音が聞こえてきた。簡単なコードで奏でているのが〝A Taste of Honey(ア テイスト オブ ハニー)〟だとすぐにわかり、同時に聞こえてきた歌声は、少しルカの声に似ている気がした。  まさかな、と苦笑いを浮かべ、思いだす――サマーキャンプに行った、あの夏。恋人関係になったばかりで、寝ても覚めても浮かれてキスばかりしていたとき、ルカが自分の手をとって踊りながら口遊んだ曲だ。ほんの二年ちょっと前のことなのに、もうずっと遠い昔のことのような気がして、テディは目頭が熱くなるのを感じた。自分はあのときも結局、ルカを驚かせて、怒らせてしまった。  ルカのことを愛していると、とにかく一緒にいたいと思っていたとき。テディは自分のことばかり考えていた。今は違う――テディは自分が引き起こしてしまったことに対して責任をとろうとしただけではなく、ルカのためを思って自分から離れたのだ。  これでよかったのだ。どんなにルカのことが恋しくても、どんなに逢いたいと思っても――ルカのためを思うなら、彼を苦しめるばかりのこんな自分はいないほうがいい。もうこれ以上、一緒にいてはいけないのだ。  音をたてぬようにそっと扉を開け、テディは屋敷の外に出た。アコースティックギターの音色が木枯らしに混じり、さっきよりも大きくはっきりと耳に届く。いつのまにか〝A Taste of Honey〟は終わっていたらしく、今はぽろんぽろんと拙い音が聞こえていたが――また歌い始めたその曲とその声に、テディは驚いて大きく目を見開いた。 「ルカ……? まさか」  辿々しい〝Ruby Tuesday(ルビー チューズデイ)〟が、よく通る少しハスキーな甘ったるい声で、生け垣の向こう側から聴こえてくる。テディはまさかそんなはずがないと思いながら、細い小径を駆けだした。        * * *  くっそ下手っぴいだな、と笑われながら、ルカは懸命に覚えたてのギターを弾いた。ルカとしてはやはり〝This Will Be Our Year〟を弾き語りたかったのだが、ギターでなど弾いたこともなかったうえに、頭のなかにはピアノの音しか入っていなくて無理だった。他になにかふたりの想い出の曲は、と考えて〝Taste of Honey〟を弾き始めると少しはましだったようで、ギターを貸してくれた少年が空のギターケースを地面に置き、ボンゴかなにかのようにリズムを合わせて叩いてくれた。  テディの耳に届いているかどうかはわからない。だがルカはもうこの方法に賭けるしかないと思った。きっとテディに届く。ふたりの想い出のメロディーと一緒に、この想いがテディの元へ、きっと届くはずだ。  〝Taste of Honey〟を歌い終えると、ルカはテディと初めて出逢った日になにを聴いたっけと考えた。確かテディが自分のCDをみつけて、初めてまともに口を利いて――ボリュームの調整を忘れて、大音量で〝All Day and(オール デイ アンド) All of the Night(オール オブ ザ ナイト)〟がかかってしまったのだと思いだす。ルカはくすっと笑い、でもあんな曲、ちょっとまだ弾けないなあと悩み――ふっと、それが浮かんだ。  学校のなかを案内していたとき、途中音楽室に寄ってピアノで弾いた曲。ギターでは弾いたことがなかったが、基本の簡単なコードでゆっくりと丁寧にギターを鳴らしながら、ルカは〝Ruby Tuesday〟を歌いだした。  そして、ファーストヴァースの終わった、そのとき。 「ルカ……?」  その声を聞くとルカはふっと微笑んで、ギターを弾く手を止めた。胡座をかいていた膝を伸ばして立ちあがり、借りていたギターを「ありがとな、たすかったよ」と少年に返す。そしてルカは、生け垣の陰から小首を傾げ、不思議そうな顔でこっちを見ているテディに微笑んだ。 「おまえ、ほんとストーンズ好きだよなあ」  顔を見るなりそんなことを云い、ルカは笑った。テディの顔が泣きそうに歪む。ルカはその顔を見て思った――なんだ。話なんかしなくてもいいんだ、と。  テディがルカの胸に飛びこんでくる。これだけで、なにも話さなくても全部伝わるじゃないかと、ルカはテディを思いきり抱きしめ――背中のリュックサックに気がついた。 「なんだおまえ、どこかへ行くつもりだったのか?」 「うん、ちょっと……これから、どこへ行こうかって考えるところだった」  ルカはその言葉を聞いて、テディの肩に手を置いて身を離し、云った。 「どこだっていいさ。ふたり一緒ならきっとなんとかなるし、なんにも怖くないよ」  少し驚いたように見開かれたテディの目をじっと見つめる。テディも、涙に濡れた長い睫毛を震わせながら見つめ返し、ふたりは自然に顔を近づけ、いつものようにキスをした。  背後から、ふたりを祝福するかのように小さく口笛を吹く音が聞こえた。

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