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第6話

「さてと」  と、花束を手渡されて今度こそ受け取ってしまう。呆然と白髪の老人の顔を見つめながら。 「始発で帰るとするか。一人暮らしのアパートだよ。女房子供とももう切れた」 「切れた?」 「今朝、いやもう昨日の朝か……離婚届に判を押して来た」 「離婚したの? 何で今更……」 「さあね。むしろよくこれまで我慢してくれたもんだ。一度しかしなかったのに。セックスレスは婚姻を継続し難い重大な事由だよ。  それ以外はなかなかいい亭主だったと思うがね。家族サービスに勤めたし、家も建てたし。互いの両親も見送って……やっと定年退職さ。ふつうは夫婦二人で海外旅行でもするのかな?」  颯太にはよくわからない。今夜ついに自分が同性愛者だと認めざるを得なくなった。昔なら〝オカマ〟と蔑まれた立場で、どう生きるべきかなど見当もつかない。 「向こうから離婚届を出されたら、判子を押すしかないだろう。まあ、単身赴任で一人暮らしにも慣れたもんだし。  セックスに関しちゃ新宿二丁目にはお世話になった。地方赴任の時には、それなりにハッテン場を見つけたし。今夜がやり納めだな。まさか勃つとは思わなかった」  と、まっすぐに目を見つめられる。    トーヤは颯太を抱き寄せると頬に手を添え、そっとキスをした。唇が触れ合うだけの軽い挨拶。先程の湿った口づけと違い、トーヤの唇は乾いていた。 「颯太君のお陰だな。何とか出来た。最後が君のような若くて可愛い男の子で幸せだったよ」 「僕は……」  と言いかけて口を噤んだ。凡庸な顔を隠すように花束を抱いて顔を埋める。 「駄目だよ。カサブランカの花粉は服に付くと取れなくなる。よく女房に叱られたよ」  と言われて慌てて顔を離した。トーヤがくすくす笑ってる。 「ほら」  とまたブリーフケースから濡れティシュを差し出して、颯太の鼻の頭を擦っている。  また少し甘やかな気分になる。また会いたいとか言ってみようか? 約束してもらおうか?   何しろこれが颯太にとっては初めてのセックスだったのだから。  誰かと唇を合わせたり、アレを合わせてこすったり、揚句の果てに挿入されるなど、初めてなのにフルコースを経験してしまったのだ。  そんな気持ちを先取りしたかのように、 「始発が来るな。じゃあ、私はこれで……」  トーヤは社会人らしく居住まいを正して軽く頭を下げると踵を返した。 「また会い……」という颯太の声は、土手下の線路に近づいて来る始発電車の音に消えた。  また会いたい。またやりたい。また潮を吹くまでやって欲しい。フィジカル極まりない欲望。  しかし、トーヤが話した不思議な体験は?   松任谷劉生というルームメイトの話は?  颯太は定年退職した老人が消えた遊歩道の先をいつまでも見つめていた。  チャペルの鐘が鳴っている。目を覚ますと遮光カーテンが引かれた暗い室内に、隙間から差し込む光が細い線になっている。おそらく大学の正午の鐘だろう。  夕べ、いや今朝方あの土手を降りて階段の隅に花束を置いて来た。そして家に帰るなりベッドにひっくり返って爆睡した。  身を起こして様子を覗うが、家の中はしんと静まり返っている。  二階の部屋から階段を降りて行っても物音はない。父も母も仕事に行っている。  颯太が大学に行けなくなり引きこもるようになってから、二人は心配して休んだりしたものの今や当然のように出勤している。  当の颯太は日中は部屋に引きこもり、ただいたずらに本ばかり読んでいる。窓を除いた部屋の三面は書棚で埋め尽くされている。小説から論文まで同性愛に関する本ばかりを読んでいた。  そして陽が落ちてから外に散歩に出たりする。一年生の夏休みまでも行けなかった大学である。引きこもって既に一年近くたっている。今日こそは……と自分の心を試すかのように真夜中の大学に足を向けたりする。  昨夜も深夜過ぎ、両親とも寝静まってから家を出たのだ。陸橋を歩いて線路を越えて大学まで。十五分ほどの距離である。  この大学に進学したのは、地元がいいという母の望みに応えたからだった。親から離れて地方の大学に進む選択肢もあったのに。不登校になってから悔やんでも遅い。  トーヤの劉生は親元北海道を離れて上京するはずだった……と頭を過って首を振った。昨夜の奇妙な話は、ジジイの作り話に違いない。    風呂場でシャワーを浴びる。身体のあちこち(主に下半身)が鈍く痛む。ジジイはさぞや足腰が立たなくなっていることだろう。  バスタオルをまとっただけで居間に入ってテレビを点ける。音を聞きながらダイニングキッチンで冷蔵庫を漁っていると、 「……一週間前に松任谷高志さん65才が死亡した事件ですが」  振り向けば画面いっぱいにトーヤの顔写真がある。まだ白髪に黒髪が混じった若い頃の写真らしい。目が釘付けになるような端正な顔立ちである。 「……の調べによりますと心筋梗塞による自然死とのことで事件性は薄いようです」  昼のニュースという名のバラエティ番組である。慌ててリモコンでザッピングをする。何局かで松任谷高志のニュースを流していた。それらを総合すれば、 〝一週間前に桜の土手で倒れていた松任谷高志56才の死因は心筋梗塞によるものだった。警察では事件を疑って捜査を進めていたが自然死と判明した。退職当日、送別会で酒を吞んで一人花見に訪れて倒れたらしい……〟  颯太は気づかぬうちにソファに腰を落としていた。うろうろと視線をさまよわせて棚のカレンダーに目を留める。  一週間前に倒れていた?  自分はあの後、一週間も寝て過ごしていたのか?  いや、そんなはずはない。  慌てて二階の自室にとって返して服を着る。パーカーをまとったところが、甘い香りがする。胸元に赤い汚れが付いている。あの花束のカサブランカとやらの花粉である。  家を飛び出し、小走りで陸橋を越える。ちょうどランチタイムなのだろう。コンビニ袋や財布を持ったサラリーマンやOLで道はごった返している。  大学の校門からもランチに出かける学生たちがぞろぞろやって来る。その流れに逆らうように桜の土手に駆け上がる。階段の隅を見るが、今朝方置いて来た花束は姿形もない。  遊歩道に出て見れば、昨夜は固い蕾をつけていた枝々に桜の花が満開だった。青空の下、見渡す先の先まで匂い立つように花が咲き誇っている。その下にシートを敷いて弁当を食べている学生やOLの姿もある。 「ウソだろ……」  声に出して言わずにはいられなかった。  よろよろと花見の人の間を縫って、昨夜まぐわったはずの片隅の死角に辿り着く。木肌を模した人工の手摺りに掌をのせて、誰やらの肌を愛撫するように撫でてみる。  あれは一体何だったのか?  白髪のジジイの話は……若かりし頃のトーヤ部屋の一席は。  そして颯太自身が抱かれて何度もイッたあの記憶は?  一週間前に死んでいた男に抱かれた?  つい地面を見回すが艶夢の名残などどこにもない。ただ、身動きするたびに脚や腰に鈍い痛みが走るばかりである。  一陣の風が桜並木を吹き抜ける。きゃあきゃあと女子たちが軽く嬌声を上げる。  薄桃色の花びらが颯太の身にまとわりつく。まるで老いたトーヤがその手で愛撫するかのように。  満開の桜の空をただ呆然と見上げる桧山颯太だった。                                                                                                                                                             〈了〉

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