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第5話

「何なの、それは?」  狐につままれたような顔をする颯太の肩を抱いてジジイは花束を差し出した。 「君にあげよう」 「だから、いらないって」  颯太は手も出さない。仕方なくジジイは花束を膝の間に抱えている。  花の値段など知らないが、そう安くはないのだろう。大卒後何十年も務めた会社を辞めるのに贈られた花なのだから。 「あの学生寮も取り壊された。私が四国にいた頃だから……二十年ばかり前か。  寮を取り壊す前に、お別れ会をやると有志が言い出してな。  あそこに住んだ連中が集まって、取り壊し寸前の建物を見て回り、ホテルで宴会をやったのさ。 そこそこ歴史はある学生寮だったから、けっこう大勢集って……まあ、盛会だったさ」 「そこに、彼が来た?」  と思わず身を乗り出すが、トーヤは静かに首を横に振った。 「当時の仲間に訊いたのさ。松任谷劉生は今どうしてる? って。すると……」  にっこり笑って颯太を見た。 「〝それは誰だ?〟と訊かれた」 「ええ?」 「誰も松任谷劉生を知らなかった。  ……でも、302号室の表札に名前が出ていたろう。  そう言うとみんな頷くんだ。  確かに表札には二人の名前が出ていた。  でもあの部屋に住んでいたのは松任谷高志だけ……私一人だったと」  颯太はぽかんとしてトーヤを見つめた。 「みんな、私を変な奴だと思っていたらしい。今風に言うとイタイ奴?  共用の場所、食堂や風呂場で一人なのに二人でいるみたいに〝トーヤ、トーヤ〟と話しかけている。  空想の友だちがいる危ない奴だと思われていたらしい」 「え、そ……何、それって?」 「道理で遠巻きにされていたはずだ。  私は勝手に同性愛がばれて避けられていると思い込んでいたが。  みんなに結婚生活も無事に続いてよかった、まともな大人になって安心したと言われたよ」 「その人たちって、変な奴と思いながら結婚式にも来たわけ?」 「そりゃ来るさ。招待したんだから。女房の招待客と員数を合わせなきゃならなかったし」 「そういうのだけはちゃんとしてるんだね。知らない男のを……飲んだりするくせに」 「義理を欠かさないのが大人だよ。同性愛者なら尚更ばれないようにちゃんとしなきゃ」  とトーヤは颯太の肩を抱きながら反対の手で股間も優しく撫でるのだった。  デニムの下のフリチンはさすがにもう、うなだれたままである。 「ともかく……その会には寮母さんたちも来ていたから詳しく聞いたよ。  松任谷劉生は上京するために旭川の実家から空港に向かう途中で交通事故に遭って……亡くなったそうだ。  乗っていた友人の車が十トントラックと正面衝突して、運転していた友人は即死だったそうだ。  まあ……私が思うに友人というより恋人だったろうがね。  ともあれ、彼は入院してしばらく植物状態で生きていたそうだよ。そして亡くなった。  五月の連休も終わった雨の降る夜だったそうだよ。  彼の実家からは荷物はいずれ引き取りに行くと連絡があったきりで……家族もいろいろ混乱していたんだろう。息子が事故死したんだから。  実際に引き取りに来たのは夏休みも終わった期末テストの頃だった」 「でも、寮には彼のお母さんから電話が何度もかかってたのに、寮母さんたちは……?」 「同じ松任谷姓だよ。寮母さんたちは私の母親からの電話だったと思っていたらしい。  彼のお母さんは……息子は死んだのに大学の寮に行ったと思い込んでいた。  現実を認められなかったのか……心を病んでいたんだな。  同室の友だち、松任谷高志くんに電話をしては〝劉生は元気かしら?〟なんて話していたわけさ。  私も何の疑いもなく彼のことを話していた。  だって毎晩……抱いていたんだぞ。死んだなんて思うわけがない。  ……揚句に夏休みに実家に遊びに行っていた」 「それ……それは……どう……何……?」  颯太は夜風が暖かく感じられる程に全身が冷たくなっていた。先程までの激しいセックスの余韻もどこかに消え失せていた。 「彼は先に帰省して、その後で私が旭川の実家を訪ねた……と思っていたよ。てっきりね。  お母さんは彼の好きな料理を作って……べたべたに甘やかして、私にもよくしてくれたよ。  ただ、お姉さんは何とも苦々しげに私を見ていたものさ。小型犬どもはさんざん吠えたてたし……そりゃ、そうだ。今になってわかるよ。  私がお母さんの心の病を増長させたようなもんだ。お姉さんが私を怒鳴りつけるのも当然だった」 「当然て? わか、今ならわかるって……何が?」 「彼はいなかったんだよ」 「だ……だって! やったんでしょう? セックスを。二人で。毎晩。何度も何度も……」  思わずトーヤにすがって身体をがくがく揺すっている。  トーヤはふわりと笑みを浮かべた。目尻の隅に優しい小じわが浮かんでいる。 「今でも時々思い出す。あの廊下をぺたぺたと濡れたスリッパの音をたてて近づいて来る足音を……あの濡れた黒髪や赤い唇……それは美しい少年だった。松任谷劉生……」 遠くでぷわんと電車の警笛が鳴る。 「始発が出たな……」  トーヤは土手下の線路を見てから腰を上げた。  つられて颯太が立ち上がると背後の淡い光が目に入った。昇り始めた朝日に押されて闇夜が茜色に変わっている。黒々とした大学のチャペルが光の縁取りで浮き上がる。

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