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第4話
「君の名前を、まだ聞いていなかったね」
ジジイは地面に座り込んだまま、放り出してあったブリーフケースをがさがさ探っている。濡れティッシュのような物を取り出して、下半身を拭っている。そして乱れたシャツの裾をズボンの中に収めてベルトを締め直す。
身じまいを正すと今度は颯太の身体を拭いてくれる。濡れティッシュと思ったのは汗拭きシートらしく爽やかな香りがする。道理でこのジジイからは加齢臭がしなかった。
下半身を清拭されながら颯太は何やら幼児に戻ったかのように、ひくひくしゃくり上げてはジジイのコートの裾を握りしめている。
「私はトーヤ……言ったね。松任谷高志だ」
「……トーヤ」
思わず繰り返してしまう。
「いや、君の名前は?」
「……颯太 。桧山颯太 ……」
「ソータ君か。パンツはもう脱ぎなさい。よく濡れたもんだな。履いても気持ち悪いだろう」
何度イッたか忘れたが、確かに下着はべとべとに濡れていた。
トーヤは靴を履いたままの颯太からデニムも下着も脱がせにかかる。立ち上がって老人の身体に寄りかかり、デニムだけを履いてファスナーを締める。フリチンがどうにも納まりが悪いが仕方がない。
「言われないかい? 君はなかなか可愛い顔をしている」
と今度はウェットティッシュで顔を拭かれる。唾液や何やらでべとべとの顔を慈しむように拭われてまた涙がこぼれそうになる。可愛いなんて生まれてこの方一度も言われたことはない。
下半身でつながっていた時よりも甘やかな気分で、トーヤにすがって顔を拭かれ髪を手櫛で整えられる。
ブリーフケースからはコンビニのレジ袋まで出て来る。使った濡れティッシュや颯太の下着を中に入れて口を縛るとまた鞄に納める。
何とも手際がいい。それこそ〝青カン〟を長年やり慣れているのではないかと疑ったりする。
「飲むかい?」
と鞄からさっきのお茶のペットボトルを出されるに及んで、その疑いは確信に変わる。
ジジイはきっと向かいの大学から出て来る若い男を漁っては、ここでアウトドアセックスに励んでいるに違いない。
交互にお茶を飲んでは喉を潤す。呆れる程に喉が渇いている。ごくごくと飲む颯太の横顔を、ジジイは愛し気に見つめていた。
「……夏休みが終わると、彼は大学を辞めて行った」
「え……?」
ペットボトルを渡してから颯太は改めてトーヤの顔を見た。紅潮した頬を夜風が冷まして行く。
「ずっと北海道の実家から戻って来なくて、どうしたのかと思っているうちに前期末のテストが始まって、その最中に引っ越し屋が来た。彼の荷物を片付けて運んで行ったよ。寮母さんに訊いたら、
〝もっと早くに荷物を片付けられなくて、ごめんなさいね〟
なんて言うんだが……謝られてもなあ。彼とはそれっきりだった」
二人は手摺りの柵に背中を預けて並んでいる。また最初のように肩を寄せ合って談笑していたのだが、颯太はもはや立っていられずにずるずる地面に腰を落としていた。
ジジイが下にハンカチを広げて敷いてくれる。大した紳士である。
当人はブリーフケースを尻の下に敷いて膝を抱えた。そして、お茶のペットボトルをもてあそんでいる。
「でも、お母さんに訊かなかったの?」
「訊いたとも。だが、お母さんも彼の連絡先がわからないと取り乱していた。どうも実家にも黙って大学を辞めたらしい。
ならばかえって心配をかけるだけだから、これ以上お母さんに連絡するのはやめたよ。
今時のようにみんながスマホを持っていてLINEでつながっていれば違ったろうけどな。
やがて私が大学を卒業する頃には、彼の実家とも連絡がとれなくなった。
たぶん前に言っていたように本社のある札幌に引っ越してお父さんたちと一緒に暮らし始めたのかも知れないな」
「じゃあ、大学を卒業してからは……?」
「私かい? まあこの近所にある会社に就職して、見合い結婚をして娘も出来て……娘ももう結婚して孫は小学生だ」
と手を伸ばして傍らにあった花束を手に取った。颯太が知りたかったのはジジイのその後ではないのだが。
「私は転勤で地方に単身赴任したりして……定年に近づくとまた東京本社に呼び戻されるのさ。だからって今更家族と暮らすのも鬱陶しいから、ワンルームアパートに一人暮らしさ」
花々は切り取られてもう何時間もたつだろうに未だ芳しい香りを漂わせている。それを嗅ぐかのように鼻の下に持って来て、
「実は……彼に結婚式の招待状を出したのさ」
と呟くジジイだった。
「北海道の連絡先はわからなくなっていたが、洋菓子会社の名前は覚えていた。社長が松任谷姓の会社なら間違いない。当時はパソコンも普及していなかったから探すのは大変だったが、
がんばって探したさ。
やはりあのまま別れたくはなかったからね。
何とか彼の両親の住まいを突き止めて松任谷劉生宛に招待状を送ったよ。近況報告を綴って、名刺も同封した。……すると結婚しているお姉さんから会社に電話があった。
〝いい加減にしてください‼〟
と怒鳴られたよ。何を怒っているのかわからない。
〝これ以上、母を苦しめないでください〟
いよいよもって訳がわからない。とにかく、それっきりだ。トーヤ部屋で過した学生時代の思い出はジ・エンド」
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