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◉2◉東海林と西崎2_うさぎちゃん

『ニシ、今日の榎田さんの送別会行くよな?』  先輩弁護士の吉田さんが、俺の参加予定が入っていないことに気がついて、わざわざメッセージを送ってくれた。今日は本当なら打ち合わせが入っていて不参加のつもりだったのだけれど、クライアントの都合でそれが無くなったため、送別会には顔を出すつもりだった。 『はい、打ち合わせが飛んだので、行けます』  俺がそう返すと、すぐに返事が返ってきた。そのメッセージから発せられる圧に引っかかりがあったものの、榎田さんにはとてもお世話になったので『必ず参加します』と返した。 「集まり悪いのかな……逃げんなよ、だって。なんでだろう」  同期の女子にそう訊いてみると、その子も視線を逸らし「あー……なんでですかねえ。それよりぃー」と、話を変えようとする。さすがに気になったものの、この様子じゃ聞いても答えてはくれないだろうと分かったため、おとなしくしておいた。 「よし、そろそろ向かおうか。榎田さんはもう店に行ってるから、俺たちは店に入る前に着替えるぞ」  幹事の吉田さんがスーツケースをゴロゴロと引きながら入ってきて、俺の腕をがっしりと掴んだ。そして強引に席を立たせると、後輩ちゃんが俺の荷物を片付け始め、キャリーの上にセットする。 「西崎さんの準備、よろしくお願いします!」  そして、敬礼をしながら俺と吉田さんをポイっと事務所から放り出した。 「ちょっと、吉田さん? なんですか、着替えとか準備とか……」  俺の手を引いて歩く吉田さんに声をかけると、吉田さんはそれを無視してひたすら先を急ぐ。トイレの前を通る時に北室清掃の制服が目に入り、東海林さんかなと思ってそちらに顔を向けようとしたのだけれど、吉田さんがグイグイ引っ張るのでそれもできなかった。 「タクシーで行くから、とりあえず乗れ!」  吉田さんはそう言って、俺とそのキャリーケースをタクシーの後部席に突っ込んだ。そして俺を奥へと追いやり、自分も隣に座ると運転手に行き先を告げる。 「ちょっと、吉田さん。説明してくださいよ……」  俺が吉田さんに食ってかかった瞬間、目の前に破裂音と同時に両手が合わせられ、吉田さんが必死に謝る姿が目に入った。 「悪い、ニシ! 今日来るはずだった受付の子がさあ……」  吉田さんは、俺に向かって何かを延々と説明している。でも、俺の耳にはそれが入って来なくなっていた。今聞こえるのは、大きな中高域の耳鳴りだけ。それも、ゾーンアウト仕掛けているので、強烈な目眩を伴っている。 「よし……さ……、だ……めす……」  吉田さんはミュートだ。まさか謝罪のために鳴らした手の音が、人を殺してしまうかもしれないなどと考えてこともないのだろう。俺は仕事用に聴力の調整はしていたけれど、目の前で柏手を打たれるなんて、普通は誰も思わない。その音の情報量の大きさに、聴覚が興奮しすぎて脳が高速回転する。  情報過多で壊れる寸前に追い込まれたその神経の塊は、命を守ろうとして体の機能を止めていった。 「あれ? ニシ、顔色悪くない?」  タクシーが店の前に到着したタイミングで、吉田さんはようやく俺の具合が悪いことに気がついた。もうその時には、俺は意識が飛ぶ寸前で、口を開くことさえ出来無くなっていた。 「お客さん! その人ゾーンアウト仕掛けてるよ。すぐケアしないと死ぬかもしれない。その人のガイドは? いないならタワーに連絡するよ?」 「え? いや、そんなに? だって、さっきまで喋ってた……」 「俺たちには理解できないほど感覚過敏なんだよ、センチネルは。いいから、とにかくガイドを……」  二人が揉める声が俺の耳を引き裂きそうで、もうこのまま死んだ方がマシかもしれないなとすら思い始めていた。諦めて何も考えずにいようと思い始めたところ……体が暖かい何かに包まれて行くのを感じた。 ——あれ? 痛くない。  いつの間にか体がゆらゆらと揺れ、かすかに感じる振動すら心地よく感じていた。鼻先に感じる甘い香りが、なぜか懐かしさを呼ぶ。 「ニシ、大丈夫か?」  俺を呼ぶ吉田さんの声が耳に入ると、またズキンと痛みが増した。ゾーンから出たわけじゃないのがそれで分かった。でも、間違いなく俺はふわふわと揺れているし、いい匂いを感じている。 ——じゃあ、これはなんだ?  そう思って目を開けようとすると、意外にもスッと瞼は開いた。薄暗い場所でぼやけた視界に浮かぶのは、陽に焼けた香りのする筋ばった腕。それに、緑色の作業着。 「西崎さん、嫌だったら殴ってください。ちょっと危険そうなんで、許可取らないけど……」  そう言って、大好きな匂いが溢れる大男が、俺をキツく抱きしめた。お互いの首の肌が触れ合う。俺の頭をそっと支えて、背中を抱え込むようにして、ぎゅっと抱きしめてくれている。 ——ふわふわする……。  下がり切っていた血圧が戻り始める。通い始めた血液が、体の機能を取り戻す。俺を包み込んだガイドの力が、今度は触れた場所から体の中へと流れ込んでくる。 「は……」  俺はどうやら呼吸を止めていたらしく、再開したそれが口から息を吐き出すと、同時に声が漏れた。東海林さんはその音を逃さず、俺の頭を支え直すと、俺の唇を彼の唇で塞いだ。 「ん……んくっ……」  緊急時は本来ならもっと深く繋がり合うべきなんだろう。でも、東海林さんは俺にそれをしようとはしなかった。ただ、ガイドの体液をもらうことが回復の近道であることに変わりは無いため、少しずつ俺の口に唾液を送り込んでくれている。  俺はそれを少しずつ受け取る。その度に戻るエネルギーを、もっと欲しくなっては求めていく。だんだん夢中になって、俺からそれを迎えに行くようになった頃、ぐいっと体を押し戻されてはっと我に返った。 「西崎さん、大丈夫ですか?」  まだぼんやりとはしているけれど、その声は間違いなく東海林さんだった。また彼に助けられたなと思い、申し訳なくなると同時に、助けてもらえたことが嬉しくて、胸がぎゅっと疼いた。 「東海林さん……大丈夫です。ありがとうございます」  まだ耳鳴りはしているし、目眩もする。それに、軽い吐き気も残ってはいるけれど、そんなことよりも東海林さんに助けてもらえたことが嬉しかった。 「東海林さんて、俺が困ってると現れますね」  俺がそう声をかけると、困ったように笑って「いや、前回のは俺が悪かったんですし」と言った。それでも、俺にとっては二度も助けてくれたヒーローのようなものだ。  大きな体に包まれて、安心して、大好きな匂いと体温から幸せを受け取る。それが俺を苦しみから救うんだ。 「作業着を着たヒーローですね」  袖を掴んでそう言うと、東海林さんが短く息を吐いて「もっとかっこいい姿だったら良かったんですけどね……」と呟いた。 「なんで? 作業着かっこいいでしょう? 俺、作業着姿の東海林さん大好きなんだけど。ずっと恥ずかしくて連絡素っ気なくしかできてなかったけど、このかっこいい姿、いつも遠くから眺めてて……えっ!?」  俺はそこまで言って、東海林さんの言葉をちゃんと理解した。言葉は理解した。でも、状況が理解できなかった。 「あの……この格好で、外へ?」  東海林さんは、具合の悪くなった俺を抱えて送別会の会場の別室に俺を寝かせてくれていた。迎えに来た時には、外の道路まで出ていたはずだ。 「はい。あの時は、必死だったから……西崎さんの会社の方が、俺のこと知ってたみたいで。俺も宴会中で、呼びに来られて……」 「ご、ごめんなさい! 恥ずかしかったでしょう?」 「……今恥ずかしいです」  東海林さんは、いつもの作業着を着てはいるものの、その下はなんとバニーボーイ姿だった。ノースリーブのシャツにホットパンツ、それに網タイツとヒール。頭には、ウサギといえば、の長いお耳もついている。  聞けば、北室清掃さんも今日が送別会で、転勤する彼氏さんについて行く女性社員が辞めるそうで、彼女からのリクエストでバニーボーイになったのだそうだ。  うちの会社の隣の部屋で行われている宴会には、総勢二十名のバニーくんたちが彼女を送り出しているらしい。そこにいる間男性は上司も部下も全員ノリノリだったらしく、恥ずかしさなど微塵もなかったという。 「こんな冷静になったら、逃げ出したいくらい恥ずかしいですね」  作業着の前をぎゅっと合わせて、恥ずかしそうに肩を竦める東海林さんは、とても可愛らしくてたまらなくなった。 「ふふっ、俺のヒーローすげぇかわいい……あはははっ」  思わず笑いを漏らすと、東海林さんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。 「……西崎さんが元気になったなら、良かったです」  不貞腐れたようにそう言う東海林さんに、俺は下から突き上げるようにキスを送った。 「ありがとう、バニーくん」  東海林さんは目を丸くしながらも、俺をまた抱きしめ、嬉しそうに頬を擦り寄せた。 「……どういたしまして。いつでも呼んでくださいね」

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