4 / 12
◉2◉東海林と西崎1_出会い
「っ、まじか……」
打ち合わせ中にクライアントの声が小さすぎて、ほんの少しだけ聞き取ることに集中を高めた。その瞬間、廊下の奥のトイレの方から、派手な金属音が鳴り響き、それに続いて転がり落ちるプラスチック製品の音がガランガランと響き渡った。
それでも、クライアントの声の大きさが変わるわけじゃない。仕方なく、そのまま聴力を解放してその不快な音を聞き続けた。そのせいで、強烈な具合の悪さに襲われてしまった。
「も、申し訳ありません……急に具合が……少しお時間いただけますか?」
急激に変わった顔色に気がついたクライアントが、慌てて「どうぞ。お手洗いに行った方がいいんじゃないですか?」と離席を勧めてくれた。俺は一礼して、すぐにトイレへと向かった。
「や、べ、吐きそ……」
急激に下がっていく血圧と、狂わされた三半規管が猛烈な吐き気を連れてきた。ぐるぐる回る視界に足を取られ、思わずトイレの入り口で壁に体をドスンとぶつけてしまう。
「うっ……!」
ぶつけた拍子にコントロールが効かなくなり、思わず嘔吐した。その瞬間、目の前に緑色の作業着を着た男が、両手を差し出してきたのが見えた。
その手は、最悪の場所にあった。あまりのことに何も言えなくなり、どうしたらいいのかと途方にくれた。
しかし、俺とは対照的に、肝心の不愉快極まりない思いをしたはずの男は、なぜか満面の笑みで信じられないくらいに達成感に溢れた顔をしていた。
「あの、ごめんなさい、手が……」
男があまりにいい笑顔をしているもので、呆然と見ていたのだけれど、はっと我に帰り急いで詫びた。それでも、下がった調子はなかなか上がらなくて、ずっと頭がグラグラしていた。
「あーすみません! 俺も、バカですね……せっかく掃除した床が汚れちゃう! って思って。バケツ持ったつもりだったのに、素手だった! 驚かせてすみません……」
男はそう言って、ケラケラと笑いながら手を洗い始めた。俺はその男が笑っているのをみていると、なぜだか心がスーッと軽くなるのを感じた。
——そうだ、うがいしておかないと。
ニコニコと笑いながら手を洗う男の隣に行き、手に水を溜めてうがいをした。ハンカチで口元を押さえながらちらりと隣を見ると、男が体を思い切りこちらに向けてじっと俺のことを見ていた。
がっしりとした体とキリッとした視線。陽に焼けた肌と、はっきりとした目鼻立ち。仕事柄なのだろうか、筋肉がはっきり見え、ゴツゴツと筋張っている腕が魅力的だ。思わず触りたくなってしまうくらいに、俺の好きなタイプだった。
「あ、失礼しました。清掃中に無断で入ったり、手に吐いたりして……」
「いや、いいんですよ。それより、入ってきた時よりも顔色が良くなったみたいで良かったです」
そう言って、ポンと俺の肩に手を乗せた。その時、男の手が乗った部分にほわりと温もりが通い始めた。それで気がつけたのだけれど、どうやらかなり体が冷えていたらしい。
「ねえ、これ、大丈夫ですか? こんな暑いのにすごく冷えてるみたいですけど……それに、あなたセンチネルでしょ? もしかしてゾーンに入ってました?」
初対面であるにも関わらず、ベタベタと体を触りながら男は言う。自分が悪かったのでそこは強く出られず、素直に答えることにした。
「はい、そうです。ちょっと聴力の解放の仕方を間違えてしまって。そしたら急にガシャーンってすごい音が聞こえたから……」
「えっ!? あー、それが原因でアウトしてました? いや、ごめんなさい。その音、俺のせいだったんです。さっき掃除道具ひっくり返しちゃって」
「えっ!? あ、そうなんですね……いや、でも、俺も迷惑かけちゃったし」
男の手元を見ながら俺が答えると、照れくさそうに一つ笑って、肩に触れていたその手を引っ込めた。
「いやいや、でもそもそもが俺のせいだし。……これで少し楽になりました?」
「え? ……あ、そういえば気持ち悪くない。……もしかして、あなたガイドなんですか?」
「あ、はい。そうなんです。迷惑かけたのも俺なんで、勝手にケアしました……誰ともボンディングしてないんですね」
男は俺の両手の指先を少しだけ握り、それを唇の高さまで持ってくると「キス、してもいいですか?」と呟いた。手に唇が触れるか触れないかというところまで来てそんな風に訊かれると、嫌だとは言いにくい。
「は、はい……」
俺が答えると、ちゅ、と優しく唇を指に触れてきた。俺は、思わず「んっ」と声を漏らしてしまう。ちゅ、ちゅ、と優しくて軽い刺激を絶え間なく続けられると、背筋にぞくぞくと刺激が走った。
「あ、の……」
俺の目をじっと見つめながら、繰り返される柔らかいキス。ゆっくりと丁寧で、体の奥から何かが吹き出しそうな感覚に溺れていく。
それ以上のことは何もされていないのに、体がどんどん熱を上げていくのがわかった。
「名前……教えてもらえませんか?」
「えっ? あ、えっと、あの、に、にしざ……あっ!」
男は大きく口を開くと、指先をその中へと連れていく。閉じられた入り口が閉まると、熱くてねっとりとした舌が指先を這い回り……。
がぶっ! と思い切り噛んだ。
「いっ……ってえー!」
俺は、あまりの痛みに、男の口が開くのを待たずに、思い切り手を引いた。開きかけの口から引き抜いてということは、もちろん歯で指先を思い切りガリガリを傷つけてしまう。
考えなしの行動をとった自分に、呆れてしまった。
「あっ! ご、ご、ごめんなさいっ! 口に入れながら名前呼ぼうとしちゃった……」
「はあっ!? いや、なんで同時にすんのよ……あ、切れちゃった」
指先を見ると、男の歯形が残っていた。その中のほんの僅かな部分に血が滲んでいる。大して痛まないし、不快感もない。それでも、その傷をつけた当事者は、とても気にしてしまったようだった。
「ご、ごめんなさい……俺、いつもどっか抜けてて」
見た目は隙がなく、スマートそうに見える。顔もキリッと引き締まっているのに、行動は何から何までどこかしら抜けているらしい。
俺はそれが妙に愛らしく感じて、話していると力が抜けて居心地が良くなってきた。俺は思わず「ふはっ」と笑い声を漏らしてしまった。
「俺、ここの事務所に所属してる弁護士の西崎です。西崎慶悟 。あなたは? お名前お聞きしてもよろしいですか?」
俺は胸ポケットに忍ばせていた名刺を一枚取り出して、男に渡した。男はそれを受け取ると、慌てて作業着のポケットから名刺ケースを取り出した。
「あ、えっと、俺は……北室清掃 の東海林 です」
震える手でどうにか取り出した一枚を、俺の手にそっと乗せてくれた。そこには、東海林典明 と名前があった。抜けているけど、主任らしい。
「あの、俺、なんだかあなたに触れると……すごく落ち着くんです。でも、そう思ってから、妙にドキドキしちゃって……」
今度は俺が東海林さんの手を握り、その手に唇を触れた。そして、その焼けた肌に浮かぶ真っ白で潤んだ目を見つめた。
「俺もです。それに、俺、今まで触れられただけでケアが成功したことなんかありません。あの、よかったら、また会ってもらえませんか?」
「も、もちろんです!」
東海林さんは俺の手を握り返すと、鼻先が触れるくらいに勢いよくぐっと俺を引き寄せた。すごく力が強くて早くて、反応できなかった俺は、急に目の前にやってきた顔を見て、思わず顔を赤らめてしまった。
「あ……」
東海林さんの立てた騒音でゾーンアウトしかけたと思ったら、その当事者と初めましてから僅か数分で抱き合ってキスをしている。笑えるくらいの急展開にふわふわと夢見心地になり、うっとりとその時間を堪能した。
「東海林さん……」
「西崎さん……」
気がつくとシールドを貼りそうな勢いで二人の世界に入り込んでいた。
その直前に、所長の怒声を聞くまでは。
「おーい! 西崎ぃー! 何やってんだお前ー! クライアントほったらかしてんじゃねえぞー!」
ともだちにシェアしよう!