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その0

 みやじ食堂は、稲荷木(いなりぎ)駅から歩いて七分のところにある。  無人の改札にICカードをタッチして通り、金谷町(かなやちょう)に降り立ち、線路のすぐ左手に見えるスーパーとは反対方向に足を向ける。桜並木に沿って列を作る家々の前の舗道を、道なりに歩いていく。  ずっと続きそうな同じ景色の中をしばらく進むと、道路を挟んで向かいの角に小さな医院が現れる。それを目印に目の前の小道を左折。すると、すぐ左にすすけた白色の建物があって、「みやじ食堂」の看板がかかっているのだ。  赤い暖簾のはためく入口は木造の戸で、押せば小さな鈴音と、元気な店主の声が応えた。明るい店内には、木製のかわいらしいテーブルとイスが左窓際に三セット並んでおり、右には六人掛けのカウンター席がある。  カウンター席の一番奥のイスに、まんじゅうみたいなねこが座っていた。「こら、ポチ」と、店主が苦笑しながら声をかけると、ポチ(いぬみたいな名前だ)はねこらしからぬ動きで、のそりと退いて、奥へと歩いて行った。 「すみません、お食事の邪魔はしない子なので」  カウンターにかけると、頭を下げつつ、店主がお冷やとおしぼりをくれた。 「なにになさいますか?」  ここの店主は若い。というより、童顔だ。二十六歳には、まるで見えない。例えば彼が俳優さんだったら、まだ平気な顔して高校生役をやっていそうだ。……なんて余談はどうだってよくて、注文したオムライスを作りはじめた店主の背中を盗み見る。 (ほんとうに、なんでも解決してくれるんだろうか……)  乾いた唇を嘗め、「あの」と声をかける。半端な時間のお陰で客は自分しかいない。  小さく息を吐いて、震える声を振るい出す。駅前で青年に教えられた呪文を、彼に向けた。 「我々二人で、死の旅にも出る約束を、覚えていますか」  この合言葉は、みやじ食堂の裏の顔、なんでも屋の扉を開く鍵だった。 「なんですか、それ?」 「……へ?」  店主がオムライスから目を離さずに、笑った横顔を見せる。あれ、おかしいな。 「あの」 「はい?」 「ここ、みやじ食堂さん、ですよね?」 「はい、そうです。おれが店主の宮司紫乃(みやじしの)です」 「この合言葉を知っている人だけ、なんでも屋として仕事を相談できるって」 「……はい?」  ガタン、と店主がフライパンをコンロに落とす。数センチしか浮いていなかったため、被害はなかったみたいだ。火を消して皿にチキンライスを移しながら、笑みを残しつつ「うちはただの洋食屋ですよ」と言う。 「ええ? だって、駅前で男の子に……、稲荷木駅から徒歩七分のところにあるみやじ食堂っていう洋食屋さんが、裏の顔で探偵稼業をしていると」 「……それ、もしかして国中(くになか)駅で聞きました?」  見事に言い当てられ、どもりながら頷いた。  今朝のことだ。通勤のため、稲荷木駅から四駅離れた国中駅で、毎朝決まった時間に電車を降りる。会社は駅からさらにバスを使う。会社の駐車場は狭いため、平社員は公共交通機関での通勤だ。  きょうもいつもの通りに国中駅で下車し、重い足を引きずるようにして、ロータリーにあるバス停へ行く途中だった。構内の階段を下っているところで、一人の青年に声をかけられた。背の高い、黒髪の、自分のような中年男から見てもわかる、若者の中でもかなり格好いい部類に入る子だったと思う。 「悩みでもあるんですか」 「は……」 「ボタン、かけ違えてますよ」 「あ……」  胸元を指差されて、初めて気がついた。ネクタイの下で、白いワイシャツがひしゃげている。わざわざ教えてくれた親切な青年にお礼を言って、ロータリー前の手洗いで直そうと思った。すると、言われたのだ。 「我々二人で死の旅にも同時に出る約束を覚えているか」 「え?」 「稲荷木駅から徒歩七分、みやじ食堂で童顔店主自称二十六歳にこう言うと、悩み、解決してくれますよ」 「……あんのばか……」  店主が頭を抱える。年相応の仕草なのだろうけれど、どうにも高校生がやっているみたいで、いかんせん似合わない。 「それでお客さんは、おれにお悩み解決してほしくて来ちゃったんですか」 「すみません……」 「こちらこそ。ちなみに、今何時ですか?」  そう訊かれて、腕時計を見る。丁度午後五時を示そうとしていた。青年の言葉が気になり、会社は早退した。  背にしている窓から柔らかい夕日が差し込んでくる。ここもそろそろ賑わいはじめるだろう。 「五時ですね。じゃあ、そろそろそのおバカも帰ってくると思うので」 「帰って、くる?」  弟さん、とかだったのだろうか。  見た目だけだったら、間違いなく「お兄さん」と言ってしまいそうだった。実年齢を知っておいてよかった、という安堵の吐息は、やってきたオムライスのいい匂いの前に、生唾と共に喉を滑っていった。

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