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その1-3※

「……っ、きもち、い?」  首を振られた。顔を真っ赤にしながら、ふるふると震えている。嘘なのだろう。その証拠に、涙を目の端に浮かべて、巧の背中にしがみつき、締めつけてくる。見下ろした顔は、やっぱり子どもみたいで、どうにも変な気持ちだ。 「……ふふ」 「な、に……?」 「いえ。子どもにイケナイコト、している気分になりまして」  巧が笑うと、彼はまた頬を染めて、かわいらしい目で睨んだ。どうやら、怒らせてしまったらしい。そういう顔をすると余計だよ、なんて言ったら、もっといやそうにされるだろうか。それはそれで見てみたいが、今はそういう場合ではない。  彼の表情は、いちいち情欲を煽る。どんな顔をされても、ずくりと血が疼いて、さらに奥へと腰を埋めて、喘がせてやりたくなる。 「んっ、あっ、ちょ……!」  巧の興奮を感じたのだろう、苦しそうに眉を寄せて、背中に爪を立てられる。ああ、それ、痕になって一生残ったらいいのに。  腰を振る。彼の身体が律動に合わせて上下し、肌に舞った鬱血が踊る。包まれる感覚がいやに生々しくて、もっと、もっと、と彼の中を蹂躙する。初めて思いを遂げたのだから、ほんとうは、もっとやさしく、慈しむように抱いてあげたかったのだけれど、無理みたいだ。  おれなしでは生きられない身体にしてやりたい。おれの熱だけで、彼に息をさせてやりたい。 (――違う。初めて思いを遂げた、なんて、嘘だ)  だって、おれは今まで、夢の中でこうして何度も、何度も何度も何度も、宮司さんを犯している――。  強烈なアラームに耳をやられて、溜め息を吐きながら目を覚ました。最悪な朝だ。  隣を見れば、紫乃の布団はもう片づけられていた。店の準備があるから、いつも家主は先に起きている。こんな日は、それがものすごくありがたい。濡れた下着を渋々着替え、汚れたものは手洗いをしてこそっと洗濯機に入れた。  夢心地が抜けなくて紫乃の顔を見るのが気まずいけれど、遅刻するわけにもいかない。  いい匂いのする台所へ行くと、紫乃は去年の誕生日にプレゼントした緑色の腰エプロンを巻いて、コンロの前に立っていた。そんな小さな幸せが、今の巧にはどうにも刺激が強すぎる。 「おはようございます……」 「おはよう。……ぷっ、早く顔洗っておいで。ファンの女の子が見たら泣くぞ?」 「ファン……?」 「普段と違いすぎるってこと。学校での君は、さぞかしモテるだろうから」 (……学校の人たちにモテても、しょうがない)  そう、正面切って言えたら、もうちょっと楽なのだろうか。  言われた通りに顔を洗って、髪をセットする。自分のことながら、確かにひどい顔だった。寝癖はひどいし、元から大きくもない目は切れ長さを増して、輪をかけて目つきが悪い。加えて散々な目覚めのお陰で眉間に皺が二重に入っている。こんな顔を、家族以外に見せることになるとは、以前まで思ってもいなかった。 (……だから宮司さん、なのかな)  こんな顔を見られたから、こんな顔でも、こわがらないでいつもみたいに笑って、冗談を言ってくれるような人だから、彼、なのだろうか。  理由なんてもので、人の気持ちはそう簡単には変わらない。そこにある真実だけが、気持ちを変え得るたった一つの事象だ。あの日、あのとき、紫乃に拾われ、ご飯を食べさせてもらった瞬間から、少なくとも、この気持ちは変わらない。  小戸森は、いつからだったのだろう。  きっときょう、ここを訪れ、うれしそうに話をして、いつもの勧誘文句を言って帰るのであろうあの人は、いつから紫乃を思うようになったのだろう。いつまで、その気持ちを胸に留めておくつもりなのだろう。 (会おうかな……)  ちらりと思った。よく小戸森が訪れる時間に合わせて帰宅してくればいい。簡単だ。それでどうなる、ということはない。野暮なことを訊くつもりも、今はない。ただ、あの人がどんな顔をして紫乃と話すのかが、気になっただけだ。  タルトの味が蘇る。後味の、あの微かな苦味のように、小さく頬を歪めているのだろうか。それとも、巧もよく知る、あの大人の余裕で、そんなものも隠して、上手に笑うのだろうか。 「巧くん、朝ご飯できてるよー」 「あ、はーい」  台所から声が響いてきて、慌てて返事をした。いけない、ぼんやりしている場合ではなかった。  小戸森が訪れるとすれば、昼のピークが過ぎた午後三時頃だろう。四限をさぼって帰ってくれば、おそらく会える。 (ヤナにノート、見せてもらえばいいか)  柳瀬(やなせ)あきらは大学の友人だ。渾名はヤナ。女の子と甘いものが大すきで、気のいい奴だ。プリンでも奢れば、講義のノートくらい見せてくれるだろう。さぼる算段と、そうすると何時何分の電車に乗れるのかを計算して、一人頷く。  おいしそうな卵の焼ける匂いがしてきたから、頬を叩いて、台所へ戻った。  おいしい朝食をお腹いっぱいにいただき、ありがたい弁当をバッグに入れる。ほんとうは大学なんて行かずに、一日中食堂の手伝いをしていたいけれど、紫乃に手を振られて仕方なく戸口を出る。学校で勉強をすることが、今の巧の仕事だ。  稲荷木駅までの桜道は、もうだいぶ緑が目立つようになった。これから、夏に向かって早足で暖かくなる。じきにカーディガンもいらなくなりそうだ。  混み合う電車に揺られて十数分、同じ行き先なのだろう、たくさんの若者といっしょに国中駅で降りる。大学までの徒歩の道のりで、自転車に乗った友人に挨拶をされる。返している間に追い越されていく。自分も自転車で来たほうが、定期券代がかからなくていいのかもしれないが、大して通学時間は変わらないし、自転車を買うとなると置き場所やメンテナンス用品が必要になる。居候がわがままを言うつもりもない。電車だけ乗り逃さなければいい話だ。  いかにも田舎の商店街、といった道を抜け、国道を横切って、コンクリートに囲まれた小さな田んぼがたくさん並ぶ舗道を歩けば、学校に着く。 「あ」  教室前で明るめな茶髪の後ろ姿を発見した。「ヤナ!」と声をかけると、女の子がすきそうな甘いマスクの青年が振り向いた。 「おう、おはよー、巧」 「はよ」  横に並んで、教室に入る。四百人ほど座れる大きな教室だ。学部必修の科目なんかには、よくこの教室を使う。教室の真ん中くらいにいつも先に来ている友人たちが席をとっておいてくれて、合流した。 「あ、そうだ、ヤナ。きょうの四限のノートとレジュメ、頼んでいい?」 「なに? さぼりかよー」 「今度なんか甘いもん奢るから。頼む!」  片目を瞑って拝んで見せる。すると、「男相手にカッコイイ顔使ってどうすんだよ」と苦笑された。笑うということは、いいということなのだろう。安心して胸を撫で下ろすと、「ただし!」と続けられた。 「甘いものじゃなくて、家、行かせてほしいな」  む、と自分の口が反射的に曲がったのがわかった。  洋食屋に居候していることは、ほとんどの友人が知っている。そして、ことあるごとに、柳瀬はみやじ食堂に来たがった。  柳瀬の家は、大学から近い。原付で十分かからないくらいの賃貸アパートで、一人暮らしをしている。巧もまれに、学校帰りに寄らせてもらうことがある。距離としては、みやじ食堂にも原付で来られるのだろうが、一人でわざわざバイクを走らせる気にもなれないらしい。それに、巧が制止している。紫乃に迷惑をかけるからだ。客ならまだしも、友人を呼んで店の邪魔なんて、ぜったいにしたくなかった。 「なんでそんなに来たがるかなあ……」  溜め息といっしょに呟くと、柳瀬は声を弾ませて、「だってさあ」と身を乗り出した。 「巧、ぜんぜん遊ばないだろう」 「……まあ」  適当に相槌を打ったところで、机の間の通路を見知った女の子たちが上ってきて、声をかけられたから挨拶を返した。高い笑声を響かせて、女の子たちが後方へ離れていく。 「こんなモテるのに!」 「……はあ」  柳瀬の言葉に、ああ、そういう意味の「遊ぶ」かと腑に落ちる。  確かに、大学に入ってから、告白は断ってばかりで、彼女も作っていない。そちらのほうも、ずいぶんご無沙汰だ。でも、これからもそういう「遊び」をするつもりはなく、どんなにかわいい子に告白されても、付き合うことはないと思う。 「それって、『宮司さん』のせいなんだろ?」 「いやな言い方するな」 「でも、実際そうなんじゃん。宮司さんがいるから女の子と付き合わない。宮司さんに迷惑かけたくないから、家に行っちゃだめ。宮司さんに早く会いたいからさっさと帰る。宮司さんの作ってくれたものだから、弁当もぜったいに分けてくれない」 「だって……」  弁当は自分で持ってこい、という正論を飲み下さなくてはならないくらい、柳瀬の指摘は的を射ていた。けれど、しょうがないじゃないか。今の自分には、紫乃より大切なものは、到底見つけられそうにないのだから。相手にされていなくても、ただの弟くらいにしか思われていなくても、居候の自分がいること自体が迷惑になっているとしても、そばにいたい。これだけ、わがままを許してほしい。このたった一つで、いいのだ。  黙って口を尖らせると、巧の卑屈な心なんて知らない柳瀬は、「巧にそこまでさせる人に、会ってみたいじゃん」と白い歯を覗かせた。わかっている、彼には悪気も、企みもなく、ただ純粋に紫乃に会いたいのだろう。  今回は、頼みごとをしている身だ。四限は、知り合いも柳瀬しかいない講義だから、頼めるのも彼だけだ。 「なっ?」と肩を叩かれ、ぐうと唸る。背に腹はかえられない、ということか。 「……宮司さんに訊いてみる」 「まじ! やった!」 「ただし、だめって言われたら、大人しく甘いもので我慢してくれよ」 「するする。やった、やっと噂の宮司さんに会える~」  まだ許可をもらったわけでもないのに浮かれる友人を見て、きまりが悪くなる。こんなにたのしみにされると困る。なんと答えをもらおうと、「だめだった」と言うつもりだったのだから。紫乃が絡むと、自分もなかなか腹黒らしい。  どうしようか決めかねつつ、これでひとまず、心おきなく三限で帰ることができる。眠くなる講義を二つこなして、お弁当を食べて、もう一つそわそわしながら講義を聞いておけばいい。  丁度よくチャイムが鳴って、遅れて先生が入室し、教室内が静かになる。  紫乃に「きょうは早いんだね」と言われたときの言い訳を考えながら、早速やってきたあくびを、隣の柳瀬といっしょになって噛み殺した。 「あれ、巧くん? きょうは早いんだね」  予想通りのコメントをもらって、適当に笑って誤魔化す。カウンターに座る小戸森には、実に微妙な顔をされた。  三限を終えて走って駅まで行けば、三時半には帰宅できる。帰ってみれば、やはり小戸森は店内にいて、いつもみたくうれしそうな横顔で、紫乃の下準備をする背中を見つめていた。  座席を一つ空けて、カウンターに座る。若干息切れしている巧を気遣って、紫乃が茶を出してくれた。 「……こんにちは、川辺くん」 「こんにちは。小戸森さん、いらしてたんですね」  思わず、吹き出しそうになる。「わかっていたくせに」と、予想通りの表情と視線で訴えてくるあたり、この人も紫乃が絡むと意外に子どもだ。  しかし、子どもみたいなのは、紫乃とは反対に内面だけだ。小戸森は、きょうも紺のピンストライプのスリーピーススーツをきっちりと着こなし、髪も無臭のワックスできれいに撫でつけ、くやしいことに格好がいい。さすが、大手レストランの社長だ。ついでに、本店総料理長も兼任しているらしく、料理もできる。  紫乃は、学生時代を知っているからか、そんな小戸森を見ても「似合ってない」と冗談めかして言うけれど、それは照れ隠しかもしれないと思う。例えば社会人になって、柳瀬がこんな大人になったら、巧も同じように言うだろう。  ――紫乃の学生時代は、どんなだったのだろう。  やっぱり、高校生なんて呼ばれてからかわれていたのだろうか。彼女とかもいて、充実した毎日を送っていたのだろうか。 (おれも、もう七年、早く生まれたかったな)  そうしたら、学生時代の紫乃に会える。そうしたら、年齢も同じで、もう少し相手にしてもらえたかもしれない。  小戸森は、手元のカップに添えられたスプーンを掻き回して、中身を飲み干した。それから、静かに立ち上がる。紫乃に出されたものをしっかり完食するあたり、この人も宮司さんのことがほんとうにすきなんだなと、苦笑を洩らしそうになる。 「ごちそうさま」 「もう帰っちゃうのか?」 「ああ、夜の準備がある」  しゅん、と紫乃が目を伏せる。くそう、小戸森さん許すまじ。 「じゃあ、またな、紫乃。うちに来たくなったら、いつでも……」 「はいはい、またな」  定番文句で、紫乃の顔に笑みが戻る。片手を挙げて、小戸森が店を出ていく。お茶を一気に飲み、その背を追いかける。 「巧くん?」 「あー、ちょっと」  紫乃に不思議そうにされたけれど、曖昧に言いぼかして店を出る。小戸森は、近くに路上駐車しているブランド車に乗り込むところだった。こちらに気がついて、ドアを開ける手を止める。 「川辺くん」 「あの、きのうはタルト、ありがとうございました」 「……ああ」  思い至ったのか、一寸間を置いて小戸森は頷いた。巧がわざわざそんなことを言ったのが、意外だったのかもしれない。 「少し、後味が苦かった」  そう言うと、困ったように頭を掻く。狙ってのことだったのだろう。だって、あのタルトは小戸森が紫乃に宛てたものだったのだから。 「……わかった、ありがとう。改良してみるよ」 「しなくてもいいと思います。あれはあれで、おいしかった」 「……そうか」 「はい」  確かにおいしかった。みんなそう言っていたし、味の評価なら、自分よりも紫乃宮司のほうがずっと確実だ。紫乃も、おいしそうに食べていた。微かな後味の理由を、きっと気づかないままで。 「――小戸森さんは、いつになったら伝えるんですか」  ずっと、問うてみたかった。  いつから、小戸森が紫乃を思うようになったかなんて、興味はない。知ってもどうにもならないことだ。だから、ほんとうにこんなことを訊くつもりはなかった。それでも、巧と出会ったときには、すでに切ない横顔をしていた。きょう、その表情を再び見たら、口に出さずにはいられなくなってしまった。  こちらの気持ちも、初めて会ったときから、とうに気づかれている。 「伝えるつもりは、ない」 「……どうして」  布を裁つような口調に、戸惑う。  意外だった。伝えなければ、あんな鈍感な人が気づくはずもない。このままでは、友人の枠から出ず、意識すらしてもらえないというのに、どうしてそう言い切れる。 「そんな悠長なこと言ってると、おれが先越しますよ」 「すきにすればいい」 「なんでそんなこと言えるんですか。宮司さんをおれにとられてもいいんですか」 「……違う」  なにが違うんだ。なぜなにもしようとしない。ほんとうにすきだったら、無理矢理にでも奪いたいと思うものではないのか。歳の差もない、巧の知らない昔の紫乃も知っている、彼を迎え入れる地位も経済力もあるくせに、どうして。どうして。  どうしようもなくくやしくなって、下唇を噛み締めた。八重歯が掠って、口の中に血の味が広がる。口内炎にでもなったら、紫乃のご飯が沁みてしまう。 「君がなにをしても、おれは焦ったりしないし、……おれがなにをしても、紫乃は変わらない」  顔を上げる。小戸森の言葉の意味を捉えかねた。生温い風が、傷ついた粘膜を舐めていく。  小戸森が瞼を伏せる。一つ、小さな息を吐いて、瞳を上げた。どきりとするほど黒く、影のある目と目が合う。唇が乾く音が聞こえそうな静寂。 「君がなにをしても、おれがなにをしても、紫乃は変わらない。――紫乃は、もう二度と、そういう相手を求めないと思うから」  小戸森が帰ってから、ずっと同じことを考えている。考えずには、いられなかった。 「巧くん、悪いんだけど、店のほうからお醤油持ってきてくれるかな。こっちの切れちゃって」 「あ、はい」  宮司家の夕飯は遅い。店を午後八時頃に閉めてから調理をはじめて、店で余ったものを組み合わせて夕飯にする。  様子のおかしい巧に、紫乃はあえて触れず、いつも通りに接した。訊かれても、どう答えたらいいのかがわからなかったから、助かった。  秋名は、きょうは来なかった。そろそろ有休もぎりぎりなのだろう。でも、最近わかってきたことだが、秋名は努力家だ。だから、家でもこっそり一人で練習をしては、チキンライスを持て余して、頭を抱えていることだろう。目に浮かんで頰が綻ぶ。  つっかけで店に出て、薄暗い中、キッチンの棚から醤油の瓶を選ぶ。手に取る途中で、つい止まってしまう。小戸森の言葉が、耳から離れない。  ――紫乃はもう二度と、そういう相手を求めないと思うから。  あれは、どういう意味だったのだろう。  わからない。わかるのは、巧にはわからなくても小戸森にはわかる、紫乃の事情があるということだけだ。 (聞かなきゃよかった……)  野暮なことは訊かないと思っていたはずだったのに。こんな気分になるのだったら、やめておけばよかった。タイムマシンでも使って、数時間前の自分を止めてやりたい。 「巧くーん?」  声がした。慌てて返事をして、醤油の瓶を持つ。一度滑って、ぶつかった瓶と棚が鈍く鳴く。 「……なんだよ……」  口が勝手に動く。  ああ、もう、今周りにだれもいなくて、よかった。 「そういう相手を求めないって、なんだよ……」  だれとも、寄り添いたいと思ってないということ? 人を思うことに嫌気が差しているということ? だれより大切なたった一人が、もうすでにいるということ?  わからない。  もう、やだ。こんな苦しいの、もういやだ。わからないことは苦しい。知りたいのに掴めないのはつらい。紫乃のことを知りたいと思うのに、こんなにも、そう思っているはずなのに、踏み出せない。どうすればいいのかわからない。この気持ちがなんなのかがわからない。  ただ一つ、小戸森が教えてくれた。紫乃が思うのは、彼でも、巧でもないということ。 (やっぱり、タイムマシンがあればよかった……)  そうしたら、小戸森さんの知る、過去の宮司さんに、会いに行けるのに。 「教えてよ……」

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