3 / 14
その1-2
「あれ? 川辺くん、こんなところでなにしてるの?」
「……宮司さんに、気が散るって追い出された」
「あはは、笑えるね」
「笑えない!」
この女子高生は、ほんとうに敬語が遣えないんだから……。
「おいしい料理で娘さんの中の父親の株を上げよう作戦」のために、秋名はあれから毎日のようにやって来ては、紫乃に料理を教わっている。
会社は落ち着いている時季らしく、有休と午後休を使っているらしい。そんなことをするくらい、秋名にとったら大切なことなのだ。もしも、紫乃に「君には呆れた。もう出て行ってくれ」なんて言われたら、確かに巧も落ち込むどころじゃ済まない。どんなことを苦と感じるか、それは人によってバラバラだ。そう考えれば、秋名の気持ちも前よりわかってあげられる気がした。
そうして、最初のうちはその様子を見ていたのだが……、紫乃が秋名の手を握って包丁捌きを教えたり、キッチンが狭いせいで紫乃が躓いたのを、秋名が抱き留めていたりするのを見ていると、さすがにイラッとしちゃって、ちょっと間に入ろうと口を挟んだ途端に、店の外に放り出された。料理に関しての紫乃の真剣さったら、ない。
「川辺くんは嫉妬魔人だから、いると邪魔だよねー。私は大丈夫だと思うけど」
「どういう意味だよ」
「そのまんま。宮司さーん、こんにちはー!」
入口前でしょんぼりしゃがみ込む巧に追い打ちをかけるようなことを言って、店内に入っていくのは、国中駅のすぐそばの国中高校に通う清水桃子(しみずももこ)ちゃん。自宅がこのあたりらしく、巧が拾われる前からの常連だ。週に一、二回のペースで、みやじ食堂に通っている。理由は、ご飯だけではないのだけれど。
「ああ、桃子ちゃん、いらっしゃい」
「宮司さん、きょうもすきです!」
「あー……、うん、ありがとう」
桃子は、紫乃が大すきだ。顔を見れば毎回アタックしている。
困ったみたいに頰を掻く紫乃と目が合う。巧は注意されたから、店の門戸を潜らずに外から顔を覗かせていた。それを見かねて、「もう入っていいよ」と紫乃が呼ぶ。うれしくて、顔がふにゃんとする。
紫乃は、桃子のことをかわいい妹みたいに思っているのだと思う。おそらく巧のことも、世話の焼ける弟くらいにしか見ていない。そう思うと、痛くなる場所があることは、とうに自覚していた。
店内に入ると、キッチンでは秋名が額に汗を浮かべながら調味料を量っていた。作っているのは、この間食べていたオムライスだ。子ども受けもよく、見た目も華やかなメニューだ。試作品のチキンライスが店のあちこちに放置されている。
みやじ食堂は、秋名がいる間は開けていない。でも、紫乃には悪いけれど、この店は夕方はそんなに混まないからいいだろう。
みやじ食堂が一番混み合うのは、昼だ。近所に大きな自動車会社の支社が二つあるから、そこの職員が来るのと、地方銀行もすぐそばにあって、人が集まるのだ。ときどき、医院の関係者も来てくれる。朝は近所の自由業の人や主婦の方の団欒の場として、モーニングを出している。夜は帰り際に夕飯を食べていってくれる人もいるけれど、やはり酒を出す店のようにはいかない。
ただ、桃子は違う。学校帰りに寄っては、いつも紫乃の作るケーキやパンケーキをたのしみにしている。でも、秋名が来てからは彼につきっきりで、菓子を作る材料も買っていないみたいだ。
「桃子ちゃん、悪いんだけど、きょうはなにも作ってあげられそうにないんだ」
と、紫乃が事情を話すと、桃子はそれはもう悲壮感漂う顔で「そんなあ……」と項垂れた。
わかるわかる。おれだって、宮司さんが構ってくれなくて、最近がっかりしているんだ。宮司さんにきらわれたくないから、なにも言うつもりはないけれど。
落ち込む女子高生を見て、さすがに紫乃も気まずそうな顔をした。しかし、なにを思いついたのか、すぐにぱっと表情を明るくして、「桃子ちゃん、ちょっと座って待ってな」と言い残して、店の奥に消えた。ちなみに、奥は住居スペースになっている。
しばらくして戻ってきた紫乃は、白い大きな箱を抱えていた。その箱の口を留めているシールのロゴに見覚えがあって、口の中が苦くなる。そんな巧に気づくことなく、桃子はカウンターから身を乗り出した。
「宮司さん、それなあに?」
「ああ。昼間友人が来て、新作だから食べて感想を聞かせてほしいって」
「きゃあっ、フルーツタルトだあ」
箱を開ければ、そこには直径二十センチくらいのタルトがあって、やっぱりな、と肩を落とす。
「……宮司さん」
「うん?」
「小戸森(こどもり)さん、来たんですか」
「うん、昼下がりに」
巧が問えば、あっさりと紫乃は首を縦に振った。小戸森さん――小戸森麻紀(あさき)は、チェーンレストランの若き社長で、紫乃の大学時代の友人らしい。しょっちゅうここに来ては、紫乃と話をして、最後には「紫乃ならいつでも待ってるぞ」と勧誘文句を言って去っていく。
巧は、小戸森が苦手だ。
「秋名さんも、いっしょに食べましょう。四つに切りますからね」
「あっ、はい!」
返事とともにガシャン、なんて音がしたけれど、あえてそちらは見ないことにした。
紫乃がタルトを切る間にみんなをテーブル席のほうに案内して、各テーブルに点々としていたチキンライスは一ヶ所にまとめた。ついでに、全員分の紅茶の準備をする。
それにしても、綺麗なタルトだ。
いくら小戸森が苦手でも、料理に罪はない。四等分にされたタルトが目の前に置かれて、不覚にも唾液が口内に広がった。桃子は、「宝石みたい!」とかわいらしいことを言って、それこそ宝石みたいに目をきらきらさせている。
見るからにサクサクなタルト生地の底には、一センチくらいのパウンド、その上にタルトの淵までレアチーズの生地が敷いてある。そしてそれを彩るのが初夏の果物だ。さくらんぼにネーブル、パイナップル、メロン、ブルーベリーにキウイ、たぶんこのオレンジ色のソースはマンゴーだ。そんなにごたごたいろいろなものを載せておいしいのかという話になりそうだけれど、作ったのが小戸森なら、それは一切問題ないのだろう。
「おいしーい!」
「ほっ、ほんとうに……!」
小戸森料理初体験の二人が、夢中でタルトを口に運ぶ。桃子のタルトは、もう半分近くなくなっている。
渋々食べてみると、やっぱりどうしておいしかった。果物のさわやかな甘み。それを邪魔しない甘さを抑えたチーズケーキに、しっとりとしたパウンドと、軽いタルトの食感。計算され尽くしたバランスが、小戸森らしい。あの人は、言葉足らずで不器用なくせに、繊細なのだ。
例えば、人をすきになったとする。
すきになるのに、確固とした理由なんてないとは思うけれど、でも必ず、「この人、いいな」と思うところがある。それは外見でも、性格でも、声でも、なんだっていい。だから、たくさんの人に思われる人には、その分いいところがある、ということだ。いっしょにいたいと思わせるなにか持っている人だ。
そう、思いはすれど、それでも巧は感情がある人間で、もっと言うならば二十歳前のお子様だから、自分の思う人が多くの人に思われるほど、不安になる。
自分ではないだれかに攫われてしまう。自分ではないだれかと幸せになる。そういうのが見ていられないくらいに、この気持ちはまだ、未熟で直線的だ。
「おいしいなあ。ちゃんと麻紀に感想教えてあげないと」
タルトで頬を膨らませながら、紫乃が笑む。幸せそうにする。無意識にフォークを食んだら、桃子に肘で小突かれた。だって、と呟くと、「川辺くんは、私より子どもみたいだよ」と大人ぶって言われた。
小戸森は、紫乃がすきだ。間違いなく。
そんな、たった一人の人間の、巧とも紫乃とも繋がっていないはずの気持ちなのに、どうしようもなく不安を煽ってくる。先に言われてしまったら、どうしよう。紫乃も小戸森と同じ気持ちだったら、どうしよう。そう思う度に、身の内のどこかが痛くなって、手足が重くなる。
巧にも、今まで付き合った相手はいる。それなりに経験だって積んできた。でも、こんな気持ちになったのは初めてで、だからこそ、自分がわからなくて不安で、こわくって、動けなくなってしまう。
フォークで小さくしたタルトの欠片を口に含む。溶ける味は甘すぎず、フルーツの瑞々しさが残って、シロップが最後に絡んで仄かな苦みを生む。
それが、小戸森の心中を映すみたいで、ちょっとだけ、このタルトがきらいでもなくなった。
食べ終えて、四人分の皿を集めて、流し台に運ぶ。ついでに紅茶のお代りを出したら、紫乃に笑われた。
「なに、巧くん。追い出されたこと、まだ気にしてるの?」
「ち、違います。その、休憩も大事、みたいな」
「ふふ、うん、ありがとう」
バランスよく四つのカップに紅茶を注いで、みんなの前に返す。紫乃にほっと息を吐いて「おいしい」なんて言われたら、タルトのせいでむずむずしていた気持ちもすっと消えていくから、不思議だ。
それからまた二つほどチキンライスの山が増えて、桃子のお陰で一つ減って、秋名が二つ減らして、みやじ食堂はいつもの二人になった。
夜の客をもてなして、店仕舞いは八時頃になった。みやじ食堂の閉店時間は、だいたいこのくらいだ。来客が途切れたタイミングで、時間や食材と相談して閉める。
いつもは住居スペースのほうで使っている、二人分のスプーンとグラス、お茶のボトルを食堂に運んでくる。ついでに、作り置きしてあった簡単な惣菜をいくつか冷蔵庫から持ってきた。
紫乃が道具の片付けを終えるのを待って、カウンター席に並んで座る。夕飯は、残った試作チキンライスだ。
「いただきます」
「いただきます」
この家では、食事のときにはちゃんと手を合わせて、「いただきます」と言う。それがみやじ食堂の、唯一のルールだ。客も、みんなわかってくれている。
実家にいるときは、なんだか家族相手に気恥かしくて、挨拶なんてしないのがふつうだった。だから、今の自分を家族が見たら驚くに違いない。紫乃に出会って変われたことは、数え切れないくらい、たくさんあるのだ。
紫乃が作るものより、若干べたついたチキンライスを口に運ぶ。これじゃあ、まだまだ娘さんには食べさせてあげられそうにない。さらに次は、卵にくるまなければならないと思うと、先は長く感じられて、苦笑いが洩れた。
しょうもない、下らない悩みだと思ったけれど、火の前に立つ秋名の真剣な顔を見て、しばらくは我慢しようと思った。娘のために頑張る秋名を見直し、そして、紫乃も同じくらい真剣だとわかったから。真剣な人の邪魔なんてしたくない。できるなら、力にもなってあげたい。
とりあえず今の自分にできるのは、このチキンライスの山を減らして、作った人にフィードバックすることくらいだ。
「ううん、まだ火加減の調整が甘いんだよなあ。焦げるのがこわいのかな……」
チキンライスを口に含みながら、紫乃が呟く。材料の分量も……と言い続けようとするものだから、スプーンを動かす掌に掌を重ねた。紫乃が言葉を切って、こちらを見る。
「巧くん?」
「考えごとしながら食べると、おいしくないですよ」
「あ、……うん」
これも、いつか紫乃が教えてくれたことだ。
テストの前日で、分厚い教科書を片手にご飯を食べはじめようとしたら、教科書をひったくられ、丸めたそれで頭を叩かれた。きのうのことのように覚えている。
「ちょ、宮司さん、なにするんですか」
「ご飯のときくらい、勉強はやめなさい」
「ええ……?」
確かに、行儀はよくないとは思ったが、大人に勉強をするなと言われるのは初めてだった。実家でも大学の昼休みでも、テスト前だから仕方ない、で済まさせていた。
「せっかくのおれのご飯が、おいしくなくなる」
そう言った紫乃にとって、食事というものは特別なのかもしれない、と気づいた。いや、かもしれないではなくて、そうなのだ。だから挨拶を重んじる。そうでなければ、洋食屋なんて開いていない。
紫乃の作るご飯は、おいしい。双方に少し悪い気もするけれど、母親より、ずっと。片手間に食べたって、ちゃんとおいしいと感じられる自信がある。
(もしかして……)
小さく、思った。
紫乃は、不安なのかもしれない。言葉ではそう言っていても、ほんとうは、ちゃんとおいしいのか、とか、巧の口に合っているのか、とか、失敗していないか、とか、自信を持てないでいるのかもしれない。
自分のこのみが、万人のこのみとは限らない。まして、自分以外のだれかの味覚を感じることは、できないのだ。それを知らなければ、料理人は務まらない。
そう気づいたときから、紫乃のご飯を食べるときは、食べる、ということに集中することにした。それから、いつも必ず、笑って「おいしいね」と、言ってあげる。紫乃のためではない。事実を口に出すだけだ。そして、きょうもご飯が食べられる、ということのありがたみを、――まだ実感、とまでは言えないけれど――感じられる。
「秋名さんも、もう少ししたら、もっとおいしく作れるようになりますね。だって、宮司さんが教えてんだから」
手を離して微笑みかけると、年下の巧に注意されたからか、褒め言葉のせいか、照れたように笑い返して、紫乃はうん、とチキンライスをおいしそうに頬張った。
キッチンに立って、紫乃があしたの仕込みをしている。その姿を見るのが、すきだ。
ハヤシライスの仕込みなのだろう、一晩寝かすためにステンレスの大鍋に蓋をして、額を拭う。食堂には降りず、住居スペースの戸口からタオルを投げて渡すと、肩に載ったタオルに気づいた紫乃は、振り返って白い歯を見せた。額に貼りつく毛髪すら爽やかだ。
「ありがとう、巧くん。お風呂はもう入った?」
「はい、ありがとうございました。宮司さんも」
「うん。チキンライスをおにぎりにしてから、おれも入るよ」
「それくらい、おれがやりますよ」
つっかけを引っかけて、紫乃のそばに寄る。すると、巧が引かないと察してか、紫乃は一つ頷いて、奥へと下がっていった。
サランラップを用意して、おにぎりを作る。あしたの朝ご飯とお弁当にしよう。
後片づけをして、できたチキンライスおにぎりを住居スペースのほうの台所に仕舞いに行く。ちょうど風呂から上がった紫乃がパック牛乳を飲んでいるところだった。こちらに気づいて、「ありがとう、巧くん」と微笑まれる。口の周りについた白い液体にドキッとしてしまう。おれのばか。
「……宮司さん、牛乳ついてます。子どもみたい」
「あー、言ったなー。もう二十六のオッサンに」
あんたほどその台詞が似合わない二十六歳もいないだろうよ、という言葉を飲み込んで、おにぎりの載ったトレイをテーブルに置く。うまいこと目を逸らしつつ、近くのティッシュ箱を差し出した。いじけたのか、ぷうっと頬を膨らませて受け取ろうとしないので、仕方なくティッシュを口に押しつけてやる。子どもみたいだったと自分で気づいたのか、幼い顔をして、照れたみたいに眉尻を下げる。これが七つも年上だと言うのだから、人間って不思議だ。ここ一年で、かなり頻繁に思うことだ。
紫乃は、自分が童顔だと自覚しているみたいだ。それでも、それがいやだとか、コンプレックスだとかは聞いたことがない。これも不思議だ。
人と違うことは気になる。人より劣ると感じる。それは、万人に共通する感情だと思っていた。巧も、それなりに真面目に生きてきて、こんなに一途に一人を思って、髪も染めずに、ピアスも開けず、カラーコンタクトも入れていないのに、顔つきのせいで軽い人間だと思われることがある。損をしている、そう思ってきた。この頃は、自分の思う人は見た目だけで他者を判断する人ではないことを知って、そんな気持ちも薄れたけれど。
なんでだろう、紫乃はいつも、ちょっと照れたみたいな顔をするのだ。
彼は、案外、自分の顔を気に入っているのかもしれない。二十六年間その顔でやってきたから、慣れたのかもしれない。親しいだれかに褒められたのかもしれない。理由なんてどうだっていい。自分のすきなところを見つけること。自分に自信を持てるなにかがあると自覚すること。それは簡単そうに見えて、難しい。だから、紫乃をすごい、と思うのだ。
だらだらとテレビを観て、紫乃とぽつぽつ話をして、戸締りをして、目覚ましのアラームをかける。
並んで布団に入ってから、「あしたは一限から?」と確認される。はい、と答えると、「お弁当はなんにしようかなあ」と、うれしそうに呟いて、メニューを教えてくれる前に、よく彼は眠ってしまう。
「……宮司さん?」
そっと声をかける。返ってくるのは、小さな寝息と、風が木の葉を揺らす囁きだけだ。昼間はあんなに騒がしいのに、夜にはこんな風に、世界で一番穏やかで、静かな空間になる。
(またあした、小戸森さんは、感想を聞きに来るのだろうか)
そう思うと、どうにも素直に学校に行く気にはなれなかったけれど、行かないと、紫乃のせっかくのお弁当がもったいない。
「さっさと振られろ、ばーか……」
本人には、ぜったいに言えないからと、自分のずるさに苦笑いを洩らした。
隣で、紫乃はぐっすりと眠っている。
カーテンから差し込んだ月明かりが、幼い横顔をそっとなぞる。この人が、お人よしで、拾い癖のある人でよかった。そのお陰で、今自分はここにいて、この寝顔を独り占めしていられる。ほかの人にはできないことをしている。
――それに、きっと。
ふつうの人だったら、この人じゃなかったら、綺麗事だけだったら、やさしいだけだったら。きっと、こんな風に、心は動かなかった。
目を閉じる。とろんとした眠気が身体を包む。そうして、今夜も紫乃の姿を目蓋の奥で思い浮かべた。
ともだちにシェアしよう!