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その2-2

 *  その人に初めて会ったのは、大学の食堂だった。 「……これ、よかったら」  注文したオムライスとサラダの皿が載るプレートに、ちょこん、とゆで卵が添えられた。顔を上げると、注文の料理を受け取るカウンターを挟んで、厨房にいる青年と目が合った。 「あ、ありがとうございます。いただきます」 「……どうぞ」  卵が余っていたのだろうか。とにかく、ゆで卵はすきだ。ラッキーと思い、頬が緩む。  支払いを済ませて、席をとっておいてくれていた友人の元へ向かう。 「麻紀、お待たせ。席ありがとな」 「いいよ。……ゆで卵? メニューにあったっけ」 「ううん。厨房のお兄さんがくれた」 「……ふうん」  見れば、麻紀のハンバーグにはゆで卵はついていなかった。もしかしたら内緒だったのかもしれない。いいタイミングで行ったんだなあ、とそのときは思って、ありがたく熱々半熟のゆで卵をいただいたのだった。 「……これ、よかったら」 「へ」  その次の週、鮭といくらのお茶漬けに、小さな器に盛られた柿の和え物が添えられた。キョトンと顔を上げれば、またあの青年だった。  自分が固まってしまったからか、青年は少しかなしそうな顔をして、「柿、きらいだった?」と尋ねてきた。慌てて首を振る。 「いいえっ、すきです!」 「……そう、よかった」  ほっと息を吐いて、すぐに奥へ戻ってしまおうとするエプロンの背中に、「あのっ」と声を飛ばす。ほよんとした顔が振り向いて、首を傾げる。 「なに……?」 「いや、あの、なんでおれにサービスしてくれるのかなって……」 「すきだからだけど……」 「……へ?」  たまたまだよ、とかそんな答えをされるという期待を裏切って、なんだかとんでもないことを言われた気がする。すき……って、なにがだ? 料理のことか? 「あ、りょ、料理がおすきなんですね……?」 「……え、っと、料理はすき、だけど。今のは、君のこと」  ……え、え。ええ? (今の、告白……?)  瞬きする。目の前のほよほよした青年が、不思議そうな顔をする。 「どうしたの?」 「えっ、あっ、う、柿ありがとうございます!」  急いでプレートを持って、その場から逃走する。背後でなにか言われている気がしたけれど、まったくもってそれどころではなかった。 「麻紀……」 「……うわ、なに、どうしたんだ?」  合流したどんより顔を見て、友人は珍しく驚いた。だが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻って、目の前のイスを引き、勧めてくれる。お茶漬けと和え物の載ったプレートをテーブルに置き、座らせてもらう。 「なにがあった?」 「……告白された、かも」 「は?」  麻紀の反応はもっともだ。己とて、女の子からの告白だったら、こんな顔をしていない。  相手が男で、しかもぜんぜん知らない人で、しかもすごくさらっと言われてしまって、もうなにがなんだかという感じが否めない故のこの顔だ。 「え、だ、だれに」 「……笑うなよ」 「笑わない」 「……厨房のお兄さん」 「はあ?」  笑われなくても、その反応は厳しい。たぶん自分が麻紀の立場だったとしても同じ反応をしただろうが、残念ながら自分は今、自分自身の立場でしかない。ああ、頭がこんがらがって、なにを言っているかすらわからなくなってきた。 「お兄さんって……、あ、前のゆで卵の?」 「うん……。きょうは柿の和え物くれて、すきって言われて、それで……」 「それで?」 「逃げてきちゃった……」 「はあ?」  責めるような口吻にちょっと凹む。いや、でも、いきなりでびっくりしたのだ。不可抗力を主張したい。  今まで、女の子に告白したりされたりはあっても、同性相手にそういった感情を持ったことはない。偏見はないが、そういう人もいるだろう、くらいの認識だった。 「すきだからだけど……」  青年の声が、鼓膜にずっと残っている。  全体的に気の抜けた感じなのに、声だけはひどく真っ直ぐで、透き通っていて、美しくて、ずっと聞いていたくなるようだった。人の声をいいと思ったのなんて、映画の吹き替えとか俳優さんとか以外では初めてだ。あんな人がいるのか……。  危うく、ぽっとしそうになる自分に気がついて、必死に首を振る。違う違う、ちょっと声がいいと思っただけだ。おれにその気はないはずだ。 「ちゃんと断ってきたか?」 「断って、ない」 「……は」 「言っただろ、逃げてきちゃったんだって」  思い返せば、なかなか失礼なことをした気がする。こういうのは、きちんと返事をしたほうがいいのだろうか。 (ごめんなさい無理です、とか……?)  告白にかなりのエネルギーと勇気がいることは知っている。それをしてくれた相手に、無慈悲なことを言えるほど、自分のメンタルは強くない。  話すごとに暗くなっていく顔色を見てか、麻紀は困ったように頭を掻いていた。 「……これ、よかったら」 「……ありがとうございます……」  結局、彼を避けるわけにもいかず、適切な返事もなにも考えないまま一週間が経ってしまった。  いつもの時間に食堂に行けば、きょうはプリンサイズのティラミスがメニューに加えられた。礼を言って上目遣いで相手を窺えば、目の合った青年が、小さく笑んで首を傾けた。 「甘いのは、苦手だった?」 「いえ、すきです……」 「うん、おれもすき」  にこりと柔らかい笑顔を贈られる。こんなにやさしく笑える人は、初めて見たんだ。 「……あの」  恐る恐る口を開く。青年は相変わらずゆったりした態度で、「うん?」と返事をした。 「なあに?」 「えっと、その……、おれきょう、三限が休講になっちゃったんです」 「え? うん、そっか」  教授が学会に参加するらしく、今週のこの教授の講義はすべて休講だ。しかもきょうは、三限が空いたせいで、四限までの二時間半がまるっと空き時間になってしまった。だからというわけでもないが、この人と話をしてみたいと思った。だが、こういうとき、なんて誘ったらいいのかわからない。  気恥かしくて、早く察してくれ、と青年の目を見つめてみる。……だめだ、伝わる気がしない。 「あの……、だから、その」 「……あっ」  言い淀んでいたら、彼には珍しく、閃いた顔を見せた。ようやく伝わったらしく、「ちょ、ちょっと待ってて」と言い残して、厨房の奥へと駆けていく。あの人でも走るんだ……。  しばらく待っていたら、相変わらず早足で青年が戻ってきて、「一時半には上がるから」と勢いそのままに言った。頬がやけに赤くなっている。らしくもなく走ったからかと思うと、おかしかった。 「だから、あの、それまで」 「あ、はい。えっと、じゃあおれ、そこのテーブルで食べてるので……」 「うん、うん、わかった」  窓際のテーブルにいる麻紀を見つけてそちらを指差すと、青年はこくこくと頷いた。それから、ふと瞬きをして、「……お友だちも、いっしょ?」と若干沈んだ表情になる。 「あ、いえ。彼は三限があるので、食べたら行っちゃいます」 「そ、そうなんだ」 (あ、これは、ほっとした顔、かな?)  意外にころりと変わる表情に、ちょっとだけうれしくなる。 (……うれしい……?)  おかしいな、なんだか、不思議な気分だ。変なお兄さんのせいで、おれにも変な感じがうつったのではないだろうか。  なんとも微妙な気持ちがして、その感情の名前を見つけかねてもう一度青年を見る。目が合ったら、またふわっと笑って、次に並ぶ生徒の注文を聞きに行ってしまった。 (……なんだかなあ)  食事を終え、麻紀は三限のために席を立った。周りもかなり人が減っている。みんな三限があるのだろう。麻紀はぎりぎりまで紫乃が一人にならないように、いっしょにいてくれたようだ。そう思うと、彼のやさしさに胸はぎゅっとする。大学でこういう友人ができて、よかったと思う。できれば、社会人になっても、繋がっていたい。  食後のティラミスを手に取り、ぱたぱたと近づいてくる足音に気づいた。 「ごめん、待たせちゃって」 「あ、いえ」  件の青年だった。厨房にいたときとは違って、三角巾もエプロンもしていない。短いふわふわした茶髪が、よく似合っている。  イスを勧めると、青年は斜め向かいの席に座った。「斜めに座ると、話が盛り上がるんだって」と、ふにゃりと笑う。なんと答えたらいいか迷っていたら、間が開いた。その隙に、ティラミスを口に運ぶ。ムースの舌触りも、ココアの苦味も、スポンジの食感まで、完璧だった。  厨房に入っているということは、職員なのだろうか。それにしては、この人の持つ空気は、自分たちに似すぎている。 「……あの」 「うん?」 「お兄さんは、学生なんですか?」 「うん、そうだよ。厨房はアルバイト」  謎が一つ解けた。  ティラミスを頬張っているから気を遣ってくれたのか、あまり話すのが得意ではなさそうなのに、青年は話を続けてくれた。 「おれ、卒業したら店開きたくて、お金がいるんだ。だから、今はアルバイトばっかりしてる。学校にいる時間も無駄にしたくないから、空き時間は厨房に入れてもらってて。……あ、今三年で」 (へえ……)  ぼんやりしているようで、この人はしっかりと先を見据えているのだ。自分なんて、とりあえず食に携わる仕事につけたら、という考えだけでこの大学に来たから、具体的な将来は描けていない。講座をとって栄養士を目指そうかと漠然と思うくらいだ。でも、この人は違う。二歳しか離れていないのに大人に見えるのは、外見がどうとかではなく、きっと、こういう部分だ。  ティラミスを食べ終わる。もう一つ食べたいくらい、おいしかった。見計らって、青年が咳払いをする。 「あ、のね、先週は」 「あ、う……、先週はその、すみませんでした。びっくりして……」 「あ、いや、あれはおれが悪かった、から」  微妙な沈黙。互いに非を感じているからこそ、なんとも言えなくなってしまう。 「――本気、だから」  呟くように告げられた言葉に、心臓が跳ねる。思わず、俯いてしまう。こんな風に間近で、真っ直ぐ目を見て言われたのは、さすがに初めてだ。 「なんでそんな……。おれのこと、なにも知らないでしょう」 「うん、まあ……そうだね」  声に、困ったような色が混ざる。言い返されるとは思っていなかったのだろう。こちらのほうが居たたまれなくなって、テーブルに視線を落としたら、「でも」と、控え目な声が降ってきた。 「でも、少なくとも、不思議なTシャツをいっぱい持ってるのは、知ってるかな」 「へ……?」 「きょうは何柄? ……ねこさんだ、かわいい」  顔を上げたときに見えたのだろう、Tシャツの柄に笑みを浮かべる。きょうの柄は、大きな黄色いねこだ。  Tシャツを集めるのがすきだった。だれも着ないような柄や、変わったキャラクターが描かれたものを見つけると、ついつい買ってしまう。癖だ。友人にも、よく笑われた。「きょうはわんこじゃん」なんて言われたら、見ていてくれたんだと思えて、うれしくなる。だれかがTシャツを見て、笑ってくれたり、明るい気持ちになってくれたりしたら、それだけでうれしい。だから、なのかもしれない。 (見てて、くれたのか……)  うれしい……。伏せた視線を上げれば、きょう初めて、ちゃんと青年の目を見た気がした。 「こんにちは、ねこさん」  青年がTシャツに向かって話しかける。それが子どもみたいでおかしくて、しょうがなく乗っかってあげる。服の中に手を入れて、ねこの顔を内側から揺らす。 「こんにちは、お兄さん」 「きょうはいい天気ですね」 「そうですね。こんな日は、ご飯をお腹いっぱい食べて、お昼寝するのが一番です」 「ふふ、そうですね」  心底うれしそうに、青年が笑う。柔らかい笑顔に、こちらまで頬が緩む。 「ティラミス、おいしかったって、言ってました」 「ほんとう?」 「はい。えっと……、ゆで卵も、和え物も」 「そっか。よかった」 「……あの」 「うん?」  服から手を抜く。澄んだ瞳と目が合う。――おれにそちらの気はないけれど、でも、せっかく出会えたこの人と、関わってみたい。  近づいてくれたその一歩を、無視したくない。頭ごなしに否定するのではなくて、うれしそうに笑う顔を見せてくれたこの人と過ごす時間を、見つけてみたい。 「おれ、櫻井(さくらい)紫乃っていいます。先輩の名前を、教えてもらえますか……?」  一瞬、驚いた顔を見せる。その次の瞬間には、弾けるみたいな眩しい笑顔に、紫乃は出会った。 「宮司功一(こういち)」  頭が痛い。ずいぶん、懐かしい夢を見ていた気がする。  うつ伏せて枕にしていた腕に、小さな雫が落ちていた。頬に触れたら、濡れていた。 「……もう、こんな時間か」  店内の柱時計を見れば、午後二時を指している。空気も読まずに、胃が空腹を訴える。 (きのう、巧くんが用意してくれた夕飯が残ってるっけ……)  きのうの昼から、なにも口にしていない。朝食も、巧の分だけ作って、結局、紫乃は食べなかった。店も開けられなかった。でも、こんな顔をしていたら、またいらない心配をかけてしまう。  こんなのは、おれのエゴだ。それに、だれかを巻き込んではいけない。  ――思い出す顔がある。あの日から変わらないまま、その人は眼裏で、ずっと紫乃に笑った顔を見せ続けている。ふとした瞬間に、甘い囁きが耳に触れる気すらする。 (約束、破っちゃったな……)  その人と交わした約束を、破ってしまった。わざとじゃない。自分の意思じゃない。そんな言い訳ばかりを繰り返している。  まだ、笑った顔も、その眼差しも、澄んだ声音も、息遣いも、唇を開く音さえ、褪せることを知らない。それなのに、堪らなく、さびしくて仕方なくなってしまう瞬間がある。どうして、と問うても、答えてくれる人は、一人だっていない。 「……ただいま」  静寂を破るように、鈴が鳴った。驚いて振り向くと、戸口に巧が立っていた。 「巧くん。おかえり。ずいぶん早いね」 「……まあ」  どうしたのだろう。いつもは日差しのように明るく「ただいま!」と言ってくれるのに、きょうの彼は、顔さえ上げない。心配になって、歩み寄る。影の落ちた顔を覗き込むと、巧の肩がびくりと上下した。 「巧くん? なにかあったの……?」  ――いやな予感は、していたんだ。  今まで築き上げてきた関係が、音を立てて崩れていくような。夢に見た、あの時間のような。仮面の下の顔を、見られたような。 「……宮司、功一」  息が詰まった。放たれた言葉が、心臓をどくどくと騒がしくさせる。唇が震える。  巧の真っ直ぐな視線が上がる。綺麗な顔のせいで、余計に作りものみたいで、ぞくりとした。 「宮司功一さんの話を、聞かせてください」  時間は流転。真実は、残酷だ。  * 「それ、紫乃の弁当か」 「え? はい」 「……それをくれたら、話してあげよう」 「……サイテー」  事務室に通されてイスにかけると、向かいに座った小戸森がバッグの中を見て言った。まったく、紫乃のこととなると緊張感も大人げもない人だ。 「じゃあ、今から食べていいから、少し分けてくれ」 「いやですよ。おれだって、宮司さんの作ったお弁当がたのしみで、毎日生きてるんですから」 「毎日食べているだろう」 「毎回中身は違いますから」  ただ、今から食べていいという言葉にだけは甘えさせてもらうことにする。  仏頂面を濃くする小戸森の目の前で、弁当の包みを解く。朝教えてもらった通り、中身はきのうの残りのオムライスと、厚みのある焦げ茶色のハンバーグが整列して詰まっている。添えられた野菜の彩りが綺麗で、宝箱みたいだ。  紫乃の料理は、暖かくなくても、湯気が立っていなくても、おいしそうな匂いがする。目で見て、自分のために作られたのだとわかる。そういう料理を作れる人を、すごいと思う。 「……紫乃の料理は、変わった」  ぽつり、と小戸森が呟いた。箸をくわえたまま、つい、ぽかんとする。「行儀が悪いよ」と注意されて、我に返る。箸を離しても、小戸森の黒い瞳を見つめ返さずにはいられなかった。 「変わった?」 「ああ……、温かくなった」 「は……?」  意味がよくわからない。この弁当は当然冷たい。それに、「温かくなった」なんて言われたら、紫乃が前まで火を使う料理を作れなかったみたいじゃないか。 「川辺くん、今、すごくずれたことを考えているだろ」 「小戸森さんが回りくどいせいじゃないですか」  言い返すと、ゆっくりと息を吐いて、「……かもしれないな」と、大手レストランの社長は目を伏せた。それがあまりにも意外で、なにも言えなくなってしまう。 「紫乃はおれが出会った頃、丸っきり料理なんてしない奴だったんだ」 「え……」 「作るより、メニューとかを考えるほうがすきで、栄養士になるのが目標だった。だから料理は、一人暮らしで困らない程度のものしか作らなかった」  初耳だ。今の、なによりたのしそうに料理を作る紫乃からは想像できない。  手元の弁当に目を向ける。綺麗な黄色に包まれたオムライス。これを、紫乃はうれしそうな顔をして、秋名に教える。そんな人が、料理をすきじゃないわけがない。 「でも、大学一年の秋に、ある人に出会って、調理師免許をとると言い出した」 「ある人……」  宮司さんの、人生を変えた人――。 「宮司功一先輩」  同じ名字が告げる意味から、目を逸らす。心臓の音が、鼓膜のすぐそばで鳴っていた。  苦々しい顔をするのは、その人が出会うもっと前から、彼を思っていたから。  小さく唇を噛んだのは、なにも言えないまま、攫われてしまったから。  その目の色がかなしそうなのは、まだ煩い続けているから。そのくせ、黙ったままの自分がいること。もう彼が、自分を見ることのない現実を、知っていること。  ――小戸森は、もしかしたら、今の巧よりも、苦い思いをしてきたのかもしれない。すぐ目の前で、自分の思う人が、ほかのだれかに夢中になっていくのを、見てしまったのだから。 「やめておけと言うのは、簡単だった。……でも、言えなかった」 「どうして……」  どうして、止めなかったんだ。おまえは栄養士になるのだろう、作る側ではなく、そのパートナーとして食を支えるのがすきだったのだろう、そう小戸森が言えば、紫乃は考えを改めたかもしれない。小戸森の思いが届いた未来だって、あったかもしれない。  問いかけに、小戸森は睫毛を伏せたまま、皮肉っぽい歪んだ笑みを唇に載せた。 「たのしそうだったんだよ、……おれといるより、ずっと」 「小戸森さん……」  切れ長の瞳が上がる。こんなに格好よくて、真っ直ぐで、一番そばにいたはずの人が、選ばれなかった。 「宮司先輩と料理をする紫乃は、おれが知るどんな瞬間よりも、たのしそうだった。目をきらきらさせながら、先輩の言葉に頷くんだ。失敗しても火傷しても、できた料理を先輩がおいしいと言うだけで、泣きそうな顔をしてよろこんでいた。そんな顔のまま、今度はおれに作って、持ってくる」 「そんな時間を、おれに奪えるわけがない」と、下手くそに笑う。  紫乃が料理を作る顔。人に食べてもらうときの顔。巧ははじめから、その顔を見ていた。そんな顔をする人だったから、惹かれた。一番綺麗だと思った。――小戸森も、そう、思ってしまったのだ。  見えない杭が、胸の深くに突き刺さる。なにが同じ思いだ、なにが同じ気持ちだ。おれは、小戸森さんのことを、なにもわかってなんていなかった。 「知り合ってすぐに、紫乃はおれに宮司先輩を紹介してくれた。……そのときにはもう、紫乃の心は調理師に傾いていたんだと思う」  調理師という言葉は、直接「宮司先輩」に置き換えられるのだろう。  学生時代の紫乃に会えたらいいのに、そう願った日があった。けれど、今ならわかる。会いたくない。そんなところ、見たくない。 「宮司先輩は調理サークルに入っていて、調理師の勉強を進めていた。あとから知ったことだが、厨房のアルバイトも、試験に必要なものだった」  自分は今、小戸森の目を通して、その場所を見ている。なににも触れられない、幽霊みたいにその空間を漂う。淡々とした口調で紡がれる言葉に導かれる先に、若い紫乃の姿が映る。 「……宮司さんも、そのサークルに入ることにしたんですね」 「君は察しがよくて助かる」  その声が、滲んで聞こえたのは、きっと気のせいだ。そう思わないと、そこに立っていられそうになかった。伸ばした手の中からすり抜けていく背中を追うので、精一杯だ。  せめて、せめてと、友人として同じ道を辿ってきた人に、敬意を抱く。実務は個人で身につけ、筆記はサークルで勉強する。本気でなければ、途中でやめたくなってしまうだろう。それでいて、今小戸森も紫乃も免許を持って、それぞれの店を経営している。  本気だった気持ちをひた隠しにしてそばにいた親友の隣で、紫乃は、宮司功一という人と、本気で夢を叶えようとした。 「宮司さんは、その人と付き合っていたんですか」  一番、こわい質問だった。でも、決して避けては通れないものだと、知っていた。 「……ああ」  瞳を上げる。小戸森の顔を見た。そのままもう一度、目を伏せた。 (ああ、そっか……)  そうだったんだなあ。 「宮司功一さんの話を、聞かせてください」  あんたのたった一人の、その人の話を、聞かせてください。  どんなふうに笑って、どんな声で話して、どんな顔で紫乃を慈しんだのだろう。その人のどこに惹かれたとか、そんな詮ないことを訊いたって仕方がないことくらい、わかっていた。でも、小戸森の瞳が、頭から離れなかったのだ。  見開かれた目、色を失った頬、乾いた唇。紫乃がそんな顔をするのは、巧の気持ちを、漠然と感じ取っていてくれたからだろうか。巧を傷つけると思って、心を痛めてくれるのか。 「……小戸森さんに聞いたんです、功一さんのこと……。勝手なことをして、すみません」 「いや、……いいんだ」  いいんだ、ともう一度だけ呟いて、紫乃は小戸森と似た下手くそな笑みを浮かべた。勝手に調べるような真似をして、気分を悪くしたのは紫乃のはずなのに、彼は笑う。そういうところが、どうしようもない。  紫乃が、ちょうどきのうの夕飯の残りを食べようとするところだったと言うから、台所に行くことにした。  いつも夕飯を食べているときの、それぞれの席の前に、皿を用意する。自然で、ふつうで、なんの変哲もないいつも通りの仕草に、昼間聞いた話が夢だったように思われる。でも、確かにその人は、ここにいたのだ。 「宮司功一さん……、コウ先輩はね、おれの大学の先輩だったんだ」  世間話をするみたいに、紫乃が話しはじめる。その目はぼんやりしていて、このまま紫乃が消えてしまうんじゃないかと、心配になった。 「あの人おかしくってさ、大学の厨房でアルバイトしてる人だったんだけど、いきなりおれにゆで卵をおまけしてくれたんだ」  遠い瞳には、きっとその日の情景が、まるできのうのことのように浮かんでいるのだろう。  小戸森さんは知っているのかな。今、宮司さんはね、こんな顔をしてその人のことを話すんだ。――小戸森さんは、知っているからこそ、今なお見守ることを、そばにいることを、もう隣を望まないことを、選んだのだろう。 「コウ先輩と知り合って、先輩の料理を食べさせてもらっているうちに、おれも作るほうに興味が沸いてきた。それから、先輩の所属していた調理サークルに誘われて、……冬には、付き合いはじめることにした」  紫乃の表情はやさしい。初めて、大人みたいな顔をするのだと、思った。巧の知らない顔をした紫乃が語る。  巧にも彼女がいたことはある。付き合って、デートをして、手を繋いで、キスをして。相手が求めれば、セックスもした。その子たちのことが遊びだったわけではない。でも、自分から誘うことはなかった。しないならしないでよかったし、興味はあったけれど、大して欲求はなかった。  思い返してみれば、遊びではなかっただけで、本気でもなかったのだと思う。だって、今とは、気持ちが違いすぎる。 「さすがに絆されたっていうか、あんまり先輩が真剣だから、ちょっと付き合ってみようかなって、思っただけだったんだ、最初は」 「……でも、だめだな。おれも、先輩がいないとだめになっちゃった」そう、困った表情を浮かべるこの人を抱き締められるのは、自分じゃない。  いつか。いつかでいい、この気持ちをちゃんと伝えて、そうして、もし受け入れてもらえたなら、うれしくてうれしくて、息の仕方すら忘れてしまうんじゃないかなって、そう思っていた。でも、これは最初から叶うはずもない夢物語だったらしい。こんなのが本気の恋なのだとしたら、己はどれだけ、「ごっご遊び」に満足した気になっていたのだろう。 「……宮司さんは」 「うん?」 「……功一さんが、すきだったんですね」  うん。と、目を細める顔は、今まで見たどんな笑顔よりも、ずっとずっと、一番に、綺麗だった。  * 「うん」  すきだった。すきだった。  今だって、胸が苦しくて、縋りつきたくなるくらい、思っている。忘れた日なんて、一日だってない。  間違った恋だったなんて、思いたくないんだ。  巧は、目を逸らさなかった。言ったら、きらわれてしまうと思っていた。  巧の気持ちを聞いたことはない。慕ってくれていることはわかっていたけれど、紫乃の性対象に男性も含まれると知ったら、避けられると思った。彼はここを出て行くだろうと思った。  自分のいる場所にべつの男がいて、それを紫乃が隠していたと知れば、居心地も、気分もよくないはずだ。ただ、ご飯を食べさせたあの日から、毎日幸せそうな顔をして、自分の料理を食べてくれる人がいる幸福に、言わなくていいかと、思ってしまった。いつかでいいだろうと、彼の眩しさに甘えた。  功一の話をしたら、巧は自分から離れていく。それが当然だと、思った。  でも、違った。  巧の瞳は、揺らがずに、紫乃だけを映してくれる。 「――宮司さん」 「うん……?」 「おれ、宮司さんと功一さんの話が聞きたいな」 「あんたが幸せな瞬間の話を、聞かせてください」と、照れたみたいに微笑む青年に、不覚にも胸がぎゅっとした。  ……そうか、そうだね。コウ先輩と過ごした、温かくてやさしくて、どんな刹那より幸せだったあの日々を、君に話そう。そのための顔はきっと、これじゃない。 「ああ、わかった」  綻ばせた唇は震えたけれど、不思議と、かなしくはなかったんだ。

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