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その2-3

「あれ? 櫻井、手、どうかしたの?」  功一が手元を覗き込んできたから、シャーペンを動かす手を止めて、手のひらを翳してみせた。 「ちょっと火傷しちゃって」 「火傷?」  ちょうど左手の親指から人差し指へ渡る間に、ガーゼを貼っていた。きのうフライパンを持ったときに手が滑ってずれて、取っ手ではなく金属の部分に直接触れてしまった。今は水ぶくれになっている。 「なにしたの?」 「えっと、ちょっと、フライパンで……」 「……料理してたの?」  そこまで意外そうに言わなくても、という一言を飲み下す。  確かに、紫乃は料理なんてめったにしない。一人暮らしだから、気が向いたとき(週に一回あればいいほう)や、弁当を作るとき(主に電子レンジでチン)など、ある程度はしなくもないが、簡単なものばかりだ。コンビニやスーパーの惣菜で済ませることも多く、フライパンなんて、うちのキッチンにはほぼほぼ登場しない。  ただ、最近、宮司功一という、真剣に料理の道を目指す先輩を目にして、少し憧れたのだ。自分で料理を作れたら、人に食べさせてあげられたら。きっと献立を考えているだけの今より、それを自分の手で形にできることに、胸が躍るのではないかと思った。――なんて、慣れないことをしたのが、間違いだった。 「たまには、自分で作ってみたくなったんです。いや、その、ちょうど実家から野菜が届いたからであって、べつに宮司先輩の影響とかじゃないですよ」 「なに、その深読み」  あはは、と声を出して功一が笑う。なんだかくやしい。  功一と知り合って、二週間が過ぎた。あれから、功一は無理に迫ってくることもせず、相変わらず学食に行けばおまけをつけてくれる。空き時間が重なれば学食で会ったり、ときどき同じ講義をとっていることに気づいてびっくりしたり、昼食に誘われたり、ごく一般的な先輩後輩として付き合っている。  サークルに入っていない紫乃は、今まで大学内で先輩と呼べる人がいなかったので、彼と過ごす時間は、新鮮でたのしい。だから、友だちとも家族とも中学校や高校の先輩ともバイト先の人とも違う、そんな関係が擽ったくて、この人といるのも悪くないと思っていた。 「櫻井、なに作ったの?」 「野菜炒め」 「焼くだけ?」 「炊き込みご飯」 「炊くだけ?」 「なにか文句でも?」 「イエイエ……」  功一は、口元を押さえたまま、クスクスと肩を揺らした。  意地悪な先輩に仕返しをしたくなって、唇を尖らせて、手元のノートに集中を戻す。栄養素学に関する講義のノートだ。こうして学んだことを活かして、オリジナルの献立を立てるのがすきだった。どこのどんな材料をどれだけ使うのか、色合いは、食べ合わせは、そう考えていると、身につけた知識が生まれ変わるようで、わくわくする。  功一を無視して、真面目にノートに向かいはじめてしまった紫乃の様子を見てか、シュンとする茶色い髪が視界の端に映る。落ち込んでる、落ち込んでる。 「先輩が、意地の悪いことばっかり言うからですよ」 「すきな子をいじめたくなるのは、男の子の宿命だってば……」 「それが通るのは、小学校までですね」 (ナチュラルに、「すきな子」って、言われた……)  ふつうに返したつもりだったけれど、最近、些細な言葉にまで反応してしまって、自分のことながら呆れる。  不意に、ぽん、と功一が手のひらと拳を合わせた。いわゆる、「思いついた」のポーズだ。 「先輩?」 「櫻井櫻井、あしたって空いてる?」 「はい、午後からなら」  土曜日のあすは、朝から十三時まではバイトの予定が入っている。でも、それが終われば、あとは家で本を読むか勉強するか買い物に行くかくらいだ。 「もしよかったらなんだけど……、おれに料理を教わりに来てもらえませんか」  それはつまり、先輩の家に、ということだろうか。教えてもらえるのなら、すごくありがたい。功一の料理の腕が確かなのは、自分の舌が証明している。それより、教える側が、お願い口調になっているのがおかしい。つい、笑ってしまう。 「いや、かな……?」 「まさか。ぜひお願いしたいです」  まさにパアァという効果音が似合いそうな顔で、功一が首を縦に振る。……なんか今、ちょっとうれしかったかもしれないと思ったのは、気のせいだと思うことにした。  素朴なクリーム色の四階建てアパートの一階、三号室の扉の前で、しばし止まった。 (ほんとうに、ここだったかな……)  扉には目印を教えられていたねこのシール、開き直したメールの住所ともぴったり一致する。一致はするが……。  ガタガタッ、ドシャア、うわああああ。  ……なんて聞こえてきて、チャイムを鳴らすのを躊躇っている。  しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。思い切って指に力を込めると、騒がしい音がさっと静まって、一拍置いたあとにやたら大きな返事と、さっきより一際派手な音がして、数秒後にドアが開いた。 「さ、櫻井、こんにちは」 「……こんにちは」  なんだかボロっとした功一が出てきた。茶色い頭にちょこん、と埃が載っかっている。掃除でもしていたのだろうか、と考えつつ、そっと摘まんで取ってあげた。 「えっ、は」 「埃、ついてました。掃除中にすみません、お邪魔してしまって」 「へっ? あ、ありがとう。じゃ、邪魔してないし、掃除もしてないから、大丈夫」 「そうなんですか?」  適当な誤魔化しをして、功一は紫乃を中に招き入れた。……確かに、掃除をしていたわけではなさそうだ。目の前に広がる惨状に、足が固まる。 「ああああ、あの、違うんだって、これは、えっと」  しどろもどろ、という言葉がこんなに似合う場面も、なかなか多くはないだろう。慌てて雪崩を起こそうとしている雑誌を山に直して、道を作る功一の隣にしゃがむ。 「さ、櫻井……?」 「おれも、手伝っていいですか? 元はと言えば、お邪魔しているおれが悪いので」 「悪いだなんて、そんな……。でも、うん、お願いできるかな」  このままじゃ、お茶すら出せなさそうだ、と肩を竦める功一に釣られて頷く。  それから本やらプリントやら洗濯物やらを片づけた頃には、いい感じにおやつの時間を回っていた。  促されて、ベッドのそばに座る。  オープンキッチンになっている水場で紅茶を淹れる功一の後ろ姿を見やりながら、ふと、部屋の隅に追いやられた本の山に意識が留まる。一番上の表紙から、下まで続く十冊程度の本のタイトルは、どれもこれもレシピの本だ。手に取ってみれば、付箋が何枚もついている。その中の一ページを開く。 (わ……っ)  すごい。アレンジレシピが、みっちりメモしてある。  夢中になってページを捲る。何冊も何冊も、そばにあるものを手に取る。山を漁ったら、たまたま今持っている本のタイトルと同じタイトルが書かれた大学ノートを見つけた。並べて開いて、ページ数を照らし合わせてみれば、ノートには付箋紙よりも細かいレシピが書き込まれているようだ。ぜんぶ功一の字だ。 「櫻井、お待たせ……って、あああなに見てるの……!」 「先輩、これ……」  ノートから顔を上げる。紫乃の視線の意図に気づいてか、ティーカップをテーブルに置きながら、功一は頰を掻いた。 「料理は基本が大事だから……、まずは基本通り作って、そこからおれの味を探していくというか……」 「じゃあ、これぜんぶ作ったことがあるってことですか?」  この本の山、一体何冊あると思っているのだ、と気が遠くなるのに、功一はあっさり頷く。 「うん。一通りは……」  この人は、ほんとうに、料理を作ることが大すきなんだ。  中途半端な気持ちでは、こんなに一生懸命になれない。趣味のレベルじゃ、こんなに本気になれない。功一は、自分の手の中にあるものすべてを懸けて、自分の店を持とうとしているのだ。――その隣にいるのはきっと、自分みたいな、半端なやつでは、だめだ。  それなのに、先輩は、おれなんかのことを「すき」だと言う。 (あれ、なんか、おかしいな。ちょっとおれ、今傷ついてるかもしれない……) 「……なんで、おれなんかをすきになったんですか……?」  気づけば、そんな言葉が零れ落ちていた。  透き通った瞳が振り向いて、瞬きをする。見ていられなくて、目を伏せた。困らせてしまうのは、わかっていた。だから、どうして口にしてしまったのか、自分自身が戸惑っている。 「す、すみません……、忘れてください」  なんとか絞り出して、本とノートを合わせて元の山に戻す。恥ずかしくて、申し訳なくて顔を俯けていたら、功一はごく自然に、紫乃の隣に座った。功一がベッドに背を預けると、ぴたりと体温が寄り添った。 「先輩……?」 「なんですきか、かあ……。その質問は、少し困っちゃうな」  その横顔が、その声色が、その体温が、やさしすぎて、胸が苦しくなる。どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。  そうだな、なんて呟いて、功一の視線がこちらを向く。真っ直ぐに、紫乃を見据えてくる。その目に映る自分が見えて、こんなふうに他人の目を覗いたのは初めてだと気づく。心臓が変な音を立てる。なぜだか、目が逸らせない。 「ちょっと、ごめん」  そんな囁きと共に、視界が暗くなる。功一の手が、光を遮ったのだ。尋ねるよりも早く、「恥ずかしいから」と言われて、なにが、と言い返す間もなく、 「ハンバーグみたいに小さい手がすき。Tシャツのセンスがすき。ちょっと癖っ毛な感じがすき。笑った顔がすき。笑う声がすき。息遣いがすき。献立を考える横顔がすき。歩く速さがすき。目の色がすき。丸い爪がすき。おれを避けないでくれないでいてくれるところがすき。よく気がつくところがすき」 「ちょ、ちょっと……!」 「おれが、櫻井をすきになった理由なんて、どこにも見つけられないけど、でもね、おれが櫻井のどこがすきなのかは、いくらでも見つけられるんだ」  確かに、これは恥ずかしい。たぶん、おれも先輩も、今すごく変な顔をしていると思う。  顔が熱い。やめてほしい。おれに、先輩に釣り合うような魅力はない。……でも、少し、うれしい。 「初めて櫻井を見かけたのは、夏休み前だったかな。テストの真っ最中でさ、みんな焦ってピリピリしてた」  功一の作ってくれたオムライスを口に運びながら、その澄んだ声音に耳を傾けた。やっぱり、何度聞いても、惹き込まれるような声だ。  夕方から、料理を教えてもらいはじめた。功一が選んだのは、オムライスだった。割と簡単にでき、それでいてできたときの達成感が大きい。卵やチキンライスのアレンジもしやすい理由からだった。  ただ、料理不摂生な紫乃が、説明をされてすぐに作れるはずもなく。紫乃の前には、功一が作ったとろける卵に包まれた可憐なオムライス、功一の前には、「スクランブルエッグが乗ってるの? 中が黒いのは仕様?」と言われそうな物体が置かれることになってしまい、とりあえずレシピをメモして、きょうの教習は区切りにした。  功一と向かい合って座って、話を聞く。文句一つ言わないで、「意外においしいな」なんて笑ってくれる彼を見ると、大変申し訳なくなる。 「うう……、すみません、おれがそっち食べます……」 「ははは、いいよ。ちゃんとおいしいし」 「気なんか遣わないでください……」 「違うって。おれが、食べたいだけだから」 「へ……?」 「だって、櫻井が作った料理だよ」なんて、言われてしまって、顔が火照って、下を向いて急いでオムライスを掻き込んだ。  それから皿を片づけて、功一はチューハイの缶を開けた。紫乃は未成年なのでジュースだ。  些細なことでも、小さなことでも、功一の話は新鮮で、静かにその声を聞いていた。サークルの話、功一の夢の話、紫乃の話……。 「櫻井、校門のねこ、知ってるだろう」 「あ、はい。夏休みの間にいなくなっちゃったんですけど」 「うん。あの子ね、今うちのサークルの後輩が世話してくれているから」  紫乃を初めて見たときの話からねこの話に飛んで不思議だったけれど、ねこの行方は気になっていたから、安堵した。  放っておけなかった。小さい声で懸命に鳴いている姿を見たら、思わず足を止めていた。  学校帰りで、みんなあしたのテストの勉強がしたいのか、足早に駅への帰路を辿ろうとしていた。紫乃も、そうだった。  校門の熱いアスファルトの上で、小さい白いねこが、ぐったりとしていた。  きょうはテストが三限だけだったため、帰りの今も日は高い。真夏の熱風の気配すら感じるこの昼間では、アスファルトもかなり熱されているだろう。  でも、そのねこは移動しようとしない。もしかして、弱っていて日陰にも行けないのだろうか。だとしたら、このままでは衰弱する一方だ。  紫乃はねこを抱き上げて、近くの木陰に連れて行った。ねこは相当弱っているのか、顔を上げるだけでいやがろうとしない。  持っていたペットボトルの水を、手を器にして溜めて、差し出してやると、そろそろとねこが頭を伸ばしてきた。小さな舌が、水に波紋を作る。最初は控えめだった仕草が、安心したのか、だんだんと大きくなり、水の減りがよくなる。  手のひらがからになると、ねこは「もうないのかよ」と言うみたいに、うにゃあと鳴いた。 「あはは、お前ゲンキンだなあ。待って、今出してやるから」  頭を撫でで、もう一度水をやる。今度は遠慮なしに一気に飲み干して、最後に礼のように紫乃の人差し指の先をチロッと嘗めた。 「あ、そうだ。みなもちゃんに貰ったおにぎりがあったな」  休んだ分のノートをコピーしてあげたら、友人が炊きたてご飯のおにぎりを大量にくれたのだ。実家が農業をしている、と耳に挟んだ記憶がある。ねこについて詳しくないが、塩気も多くなく、ねこまんま、なんてものもあるのだから、白米はあげても大丈夫だろう。  サランラップを剥がす途中で、いい匂いに惹かれたのか、ねこが膝に手をかけて、身を乗り出してくる。その勢いが意外に強くて、尻餅をついた。 「ちょ、おまえ、待てってば、もーっ、はははっ」  お腹が空いていたのだろう、細かく砕いてやる前に、ねこはまるまる一個にかぶりついた。小さな口に白い塊がみるみる吸い込まれていく。 「えー、すごいなあ。こんなにちっちゃいのに、歯とか痛そうだし」  見とれるほど素早い食事に、感嘆してしまう。大きな一つを食べきっても、まだ物欲しそうに見るので、もう一つ渡してやる。夢中になって米粒を頬につけるねこの頭をもう一度撫でる。背中は、骨がはっきり浮き出て見えるくらい痩せている。まだ子ねこらしく、身体も随分小さい。首輪はないから、野良なのだろうか。 「おれが飼ってやれたらいいんだけどな……」  またあっという間におにぎりを食べ切って、満足したのか、ねこは目蓋を下ろして幸せそうな顔で眠ってしまった。身体を丸めて寝息を立てる姿は、やっぱりかわいくて、放っておけない気持ちになる。でも、アパートの契約でペットは禁止だ。ばれたら追い出されてしまう。それは困る……。 「あしたも、ちゃんと来てやるから」  小さな背中に、手のひらを重ねる。温かい。  あしたまで、この子がここにいてくれるかはわからないが、また水とご飯を持って、様子を見にこよう。心配ではあったが、きょうはこのまま帰ることにした。 「たぶん、櫻井がやらなかったら、だれもやらなくて、あの子は今頃、死んじゃってたかもしれない」  おれ、そのとき、櫻井のちょっと後ろを歩いてて。そうチューハイ缶の縁を撫でる功一の仕草を目で追う。触れる指の先が赤い。酔いやすいのかな、と思いつつ、見られていたことに羞恥が募る。 「……放っておけなくて」 「うん。そういうところが、いいと思ったんだ」  功一がどこまで見ていたのかはわからない。けど、大学生になってまでねこと会話する男って……、と、体操座りして頭を膝の間に埋める。  紫乃が俯いたままでいたから気になったのか、功一の気配が寄ってきた。「櫻井?」とやさしい声で呼びかけられる。耳朶にそっと触れるような、柔い声。 「……すみません、恥ずかしくって」 「はは、あれからねこも、櫻井にすっかり懐いちゃったもんな。おれ、見かける度に、櫻井はねこに絡まれてたよ」 「エサくれると思われちゃったみたいで……」  校門を通る度に、白い子ねこはきっちり紫乃を見つけて、足に擦り寄ってくるようになってしまった。麻紀には、呆れた顔で頭を撫でられた。  テストも終わって、夏休みに学校に来る用事は特になかったので、テスト最終日にあの子のすきだったご飯と水と、いらなくなった毛布を、まとめて木陰に置いてきた。休みが明けたら、ねこも、置いてきた荷物も、綺麗になくなっていた。 「……でも」 「うん?」 「宮司先輩の後輩さんが飼い主なら、安心ですね」 「どうして?」 「だって、先輩の後輩さんなんですもん。やさしい人に決まってます」  やさしい人の周りには、やさしい人が集まる。類は人を呼ぶ、というのはほんとうなのだ。だから、功一の知り合いなら、人を、生き物を、思いやれる人に違いない。そう思った。  ねこの気持ちは、わからない。でも、一人ぼっちで校門で丸まっていたあの日より、きっと、いや間違いなく、今あの子は幸せだ。確信できる。 「――櫻井」  呼ばれる。顔を上げる。 「え……」  思っていたよりも、功一の顔がずっと近くにあった。ゆっくりと近づいてきて、息を止めた。それと同時に、唇が重なる。 「……っ、ちょ、せんぱ……、ん」  先輩の身体を押し退けようとしたけれど、聞いてくれる様子もなく、またキスを贈られる。酔っているせいか、ぶちゅぶちゅと色気のない音を立てて、唇同士がぶつかる。恥ずかしさで顔が熱い。その唇から、アルコールがこちらに移ってくるみたいだ。頭がじんじんする。 「も……っ、先輩!」  手のひらを功一の顔に押しつける。ふらふらと身体ごと離れていって、これは一発怒らないと、と思って、睨みつけ―― 「ええっ」 (なっ、ななな、な……っ!) 「うう……」 「泣くことはないでしょう……!」  ぼろっぼろその両目から雫が零れる。なんで、この人はこんなに泣いているのだ。なんで、いきなりキスされたんだ。もうわけがわからない。困った! 「ううう、さくらい~」 「な、なんです?」 「おれ、櫻井とキスしちゃったよお……」 「は、はあ?」  いきなり、本人を前にしてなにを言い出すのだ。ここまで予想できない人に、おれはこの十九年で出会ったことがない。それとも、酔っ払いはみんなこんなものなのか?  ぐずぐずと鼻を鳴らして涙を拭う功一に、無意識に手元のティッシュを箱ごと渡した。この状況で、自分はなかなかできた子かもしれない。 「せ、先輩……」  恐る恐る、功一を呼ぶ。赤くなった目が、紫乃を見る。 「うん……?」 「先輩は、なにに泣いているんですか?」 「櫻井とキスしたのが、うれしくて……?」 (疑問形……?)  どうやら、功一は泣き上戸らしい。バイト先にもお酒を飲むと性格が変わる人はいるけれど、泣き酒スキンシップ派は、実に始末が悪い気がする。 (……これ、先輩、酔いが醒めたら覚えているんだろうか……)  謎だ。酒を飲んだことがないから、起きたら記憶がない、という感覚がわからない。 「先輩」 「うん……?」  やっぱり、ほよんといた相槌が返ってくる。頭の中なんて、もっとふわふわしていることだろう。ただでさえ、ふだんからふわふわしているくせに、なんだか――くやしい。 「……責任、とってもらわないと困るから」  もし、忘れなんてしたら、殴ってでも、思い出させますからね。  自分でも、なんでそんなことを言ったのかわからない。ほんとうに、功一からアルコールを移されたのかもしれない。  目が覚めたら、床に横になっていて、身体のあちこちが痛かった。見れば、背中合わせに、功一と毛布を半分こしてくるまっていた。 「それで、功一さんは覚えていたんですか?」 「ぜーんぜん。欠片も覚えてなかったよ。だって、朝起きたら、おれが来てたことすら忘れてたみたいで、『なんでおれの家に櫻井が! これ夢?』とか言うんだよ」  ははっ、と巧が声を出して笑う。紫乃も釣られて笑った。  紫乃からしたら、男にキスをされるなんて結構な衝撃だったのに、翌朝の功一の抜けっぷりには、がくっとさせられた。  結局、そのときは言い出せなかった。どんな話をしたとか、キスをしたとかしなかったとか、呆れて言う気も削がれた。ただ、一晩経っても、やっぱりよくわからないくやしさが胸の中をぐるぐると占めていた。  今なら、わかる。あれはきっと、忘れられたことが、くやしかったのだ。おれはこんなにはっきりと覚えていて、おれにはこんなに大きな出来事だったのに、先輩からしたら簡単に忘れてしまえる程度のものだったのだと考えたら、自分ばかりが思っているみたいで、くやしかった。  そうだ、あのときにはもう、無意識だったけれど、惹かれていたのだと思う。  ぐう、と腹が鳴った。我ながら、自分の腹の能天気さに、苦笑してしまう。 「食べる前に長話しちゃったね」 「いえ。でも、あんまりたくさん食べると、夕飯食べられなくなっちゃいますよ?」 「大丈夫だよ、食欲はある」  正確には、出た。彼のことを思い出す度、思い描いて言葉にする度、糸を解くようにするすると気持ちが軽くなっていく。身体の芯に絡む錆びた針金みたいなものが消えていく気がする。 (コウ先輩、おれは、あなたの存在に、こんなに救われていたみたいです。ね、知らなかったでしょう)  呼びかける。おれも、知らなかった。今になって、ようやく知った。  功一の存在が、姿が、声が、仕草が、感触が、思いが、今の自分を支えている。こんなに温かいものを、残していてくれたのだ。もっと早く気づいてあげればよかった――いや、これはきっと、今だからこそ、気づけるものだったのだろう。  オムライスを電子レンジで暖めている間に、味噌汁にもう一度火を入れる。電子音が響いて、巧が入れ違いに野菜炒めをセットする。 「あ、味噌汁、おれももらっていいですか? 小腹空いちゃって」 「うん、丁度二人分くらいになりそうだ」 「宮司さんみたいに、おいしいやつじゃないですけど」 「ううん、味噌汁は家庭の味なんだ。好みはどうあれ、どんなものでもおいしいよ。それが舌に馴染んだ味なんだから」 「そっか……、宮司さんのお味噌汁は、功一さんの味ですか?」  頷く。具や出汁、使う味噌や分量、ブレンド、どれをとっても、丸っきり同じものはあり得ない。和食はみやじ食堂のメニューにはないけれど、常連客に頼まれて味噌汁を出すこともあった。  手元の鍋の中で、少しずつ気泡が浮いてくる。沸騰させてしまうと旨味が逃げるので、火を止めた。白い湯気がいい香りとともに立ち上る。 「うん、たぶん。おれ、ほんとうに料理なんてしなかったから、先輩に教えてもらうまで、味噌汁の作り方知らなかったんだよ。だから、巧くんは偉いと思うよ。ちゃんと、家庭の味を守ってる」  紫乃の母は健在だ。けれど、功一の味のほうが今や身についてしまって、我が家の味があまり思い出せない。だから、もう一度習い直すことは、これからもないだろう。  巧から器を受け取って、二等分によそう。ワカメや豆腐、芋や油揚げが顔を出して、おいしそうだ。出汁の匂いもいい。 「よし、食べようか」 「はい」  いただきます、と手を合わせる。巧の作ってくれた料理だ、ちゃんと味わってあげたい。  そうして、また、並んで皿を洗いながら、ありふれた昔話を、彼に語りたいと思うのだ。

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