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その3-1※

「えっ、これ、櫻井が作ったの?」  綺麗な黄色に包まれたオムライスを前に、意外そうに言われる。「こんなによくできているなんて」に聞こえて、少し胸を張る。でも、それを態度に出すのは釈だったので、一つ咳払いをして、スプーンを勧めた。 「食べてみてください」 「おれが食べちゃっていいの?」 「先輩に、作ったんです」 「……っ」 「な、なんでそこで赤くなるんですか!」 「櫻井さん、無自覚殺し文句禁止……」 「なんですか、それ……」  相変わらず、先輩はよくわからない。  おいしい、おいしいと、目を潤ませながら、スプーンを口に運ぶ功一を見ていると、彼は嘘を吐かないと知っているから、余計にうれしくなる。練習した甲斐があったというものだ。  この形になるまで、二週間近くかかった。それでも、途中でやめようとは思わなかった。功一においしいオムライスを食べさせることしか、頭になかった。その間にわかったことは、自分はあまり調理に向いていないということと、料理を作るたのしさだった。  そして、今、わかったこと。 (「おいしい」って言われると、こんなにうれしいのか……)  おいしいものを食べたら、「おいしい」と言う。作ってくれた人にそう伝えて、感謝する。そんな、当たり前だと思っていたことが、作る側に立った途端に、こんなにも変わるのだ。食べてもらうときの不安と、「おいしい」とよろこんでもらえるうれしさは、作った人にしかわからない。そんなことすら、知らなかった。また、功一に、教えてもらった。  あっという間にタッパーをからにした功一は、満足そうに手を合わせた。ご馳走さま、と笑顔を向けられるのも、実は初めてだ。 「……お粗末さまでした」 「ほんとうにおいしかった。櫻井、ありがとう」 「いえ……」 (……あれ? なんか、おかしいな、ムズムズする)  こそばゆい、という言葉が一番近い気がするが、なんだかしっくりこない。この感情の名前がうまくつけられない。ただ、また、言ってほしいと思うんだ。「おいしかったよ、櫻井」と、宮司功一に。 「宮司先輩」 「うん?」 「……料理を作るのって、たのしいんですね」  無意識に、そう言っていた。功一はまたうれしそうに笑って、「うん」と頷いた。彼が料理にこだわるわけが、垣間見えた気がした。  功一は、こういう気持ちを知っていたのだろう。だから、たくさん料理を作って、たくさん改良して、今よりもっとたくさんの人に伝えて、「おいしい」とよろこんでもらいたくて、努力をする。その夢には、人を思う気持ちが詰まっている。 (調理師、か……)  栄養士になることが、当面の紫乃の目標だった。栄養のバランスを考えたり、それに応じた献立を考えたりすることがすきだ。自分の知識と経験とアイディアで、それを食する人の健康をほんの少しだけ助ける。大学生活を懸けるのに、十分な目標だと思っていた。  でも、功一に出会った。料理を作ることのたのしさを知った。  思ってしまった。自分が考えた献立を、自分の手で実現できたら、それは、もっと素晴らしいことなんじゃないか、って。  ふと、功一のほうを見ると、功一もこちらを見ていたみたいで、視線がかち合った。途端、頬に熱が上る。 (えっ、なんで……?)  自分でびっくりして、頬を触った。そんな紫乃の様子に首を傾げながらも、功一の視線は、真っ直ぐこちらに向いている。そして、確かめるように名前を呼んだ。 「櫻井」 「はい……?」 「櫻井は、おれに入っているサークルに興味、ないかな」 「え……」  功一のサークルは、調理師免許を取得するために勉強をしているものだと聞いていた。 「先輩、それは……」 「ああ、返事は今じゃなくていいよ。ちょっと、考えてみてほしかっただけだから。櫻井が栄養士を目指しているのは知ってるし。ただ、その気があるなら、いつでも言って?」  はい、と返事をした。返事をしながら、心臓がどくどくと波打つのを聞いた。 「えっと、こちら、宮司先輩。先輩は学食の厨房でバイトしてて……」 「もしかして、ゆで卵の?」 「うん、そう!」  丁度功一と学食で会話しているときに、麻紀に会った。時間があるみたいだったので、功一を紹介すると、彼は『ゆで卵事件』を覚えていた。 「先輩、こちら、友人の小戸森麻紀です」  うん、と頷いて、麻紀に「よろしくね」と微笑みかけると、その笑顔を貼りつけたまま、「ゆで卵?」と紫乃に尋ねてきた。自分がしでかしたくせに、それをおれに聞くのか、と唖然としてしまう。 「……オムライスのおまけ」 「……あっ」  カアーッと、功一の顔が赤くなる。それは紫乃も同じだけれど、さすがに本人の赤さには負ける。  功一と知り合って、一ヶ月半が経った。秋は風を冷たくして、だんだんと冬へと表情を変えようとしている。そろそろ、パーカーだけでは肌寒くなってきた。  ずっと、考えていた。  功一にサークルに誘われてから、答えを掴みあぐねている。オムライスをはじめ、料理を教えてもらって、練習して、おいしく作れるようになると、「よし」と拳を固めたくなって、「おいしい」と言ってもらえたら、うれしくなる。――答えは、もうほんとうは、見えているのだ。でも、それを選んでいいのか、迷っているのだと思う。  栄養士になりたいと思っていた。調理師の道なんて、今まで考えもしなかった。料理がすきだから、たのしいから、調理師を目指す。決して悪いことではない。でも、それが功一と同等の情熱になりうるのかは、わからない。本気の人の隣で、そんな中途半端な気持ちで、その道を歩くことはできない。  ただ、本気になる予感がしていた。そして、それだけではなくて、きっと選んだら、自分の気持ちがわかってしまう。うやむやにしてきたものに輪郭がついて、迫ってくる。そうして、きっと、気づかされる――。  講義があるらしく、麻紀はそれからすぐに行ってしまった。いつもより仏頂面が硬く見えたのは、たぶん時間がなかったせいだろう。また功一と二人になって、さっきまでうまくできていた会話が、急にできなくなった。 「……あの子、いつも櫻井といっしょにいる子だよね」 「え、あ、はい」  頷いて、ちょっと恥ずかしくなる。だって、先輩、ほんとうにおれのこと、よく見ているんだもん。 「同じ学部で、すごくいいやつなんです。いつもおれのこと助けてくれたり、相談に乗ってくれたりして……」  なんだろう、やはり、うまく話せない。  麻紀はいつも、休んだ分のノートをとっておいてくれたり、いっしょにご飯を食べたり、功一のことを相談してもいやな顔一つしないで、聞いてくれたりする。わかっている、麻紀はほんとうにいいやつで、紫乃の親友だ。なのに、なぜだろう。 「櫻井は、小戸森くんのことがすきなんだね」 「あはは、はい」 (……あ、わかった) 「櫻井は、さ……」 「はい?」 「おれのことは、その……、すき、かな」  ちょっとびっくりして、功一の茶色い瞳を見つめる。真っ直ぐな視線に、功一の問いたい「すき」がわかった。同時に、思考の靄が晴れて、身体の中に風が吹いたように、すっとした。 (先輩に麻紀の話がうまくできないのは……) 「……かも、しれない」 (二人でいるときに、ほかの人の話なんて、と思っちゃうからだ) 「やった、できた……!」 「え、ほんとう?」 「はい!」  オーブンから綺麗に膨らんだシュークリームを取り出して、一つ、功一に手渡す。すると、功一は手元のクリームを中に詰めて、ひょいっと口に入れる。 「ん、おいしい」 「やった。あ、おれも食べたいです」 「はい、どーぞ」  差し出した生地にクリームを入れてもらって食べると、売り物みたいにおいしかった。上出来だ。 「じゃあ、こっちもどうぞ」と、べつのクリームを入れたものを差し出される。一つはよく見るとちらほらとオレンジ色の粒が混ざっていて、もう一つはふつうのカスタードクリームと変わらないように見えた。 「なんですか?」 「当たられたら、賞品でも出そうかな」 「……イジワル」 「か……わいいな、もう……」 「……いただきます」  頭を撫でようとしてくる手を払って、まずはオレンジのほうから食べることにした。 「ネーブルだ」  爽やかに広がる酸味に、感動する。こんな小さな工夫で、おいしさはいくらでも広がる。だからきっと、料理を作るのはたのしくて、無限に手を伸ばしたくなるのだ。一人でそう思えるのだから、二人なら、それはもう、そう思わないわけがないのだ。  わくわくしながら、二つ目を手に取る。口に入れると、よくあるカスタードクリームとは比べ物にならない豊かな香りがした。 「えっ、おいしい。なんですか、このクリーム」  ソフトクリームみたいな甘さと香りで、何個でもいけそうだ。続けて食べようとしたら、「食べすぎ注意」と功一に苦笑された。 「ミルクリキュール。調節はしてるけど」  と教えてくれた。風味が増して、味をまろやかにするのだそうだ。  説明に頷き、もう一つクリームを入れて食べる。功一が「おれにもちょうだい」と手を伸ばしてきた。その手元からリキュール入りのクリームを遠ざけて、代わりにふつうのクリームのほうを渡す。 「えー、どうして?」 「先輩がお酒弱いの、知ってますから。こっちはだめです」  一度、酔っ払った功一にキスをされたことがある。それ以来、できるだけ酒を飲んだ功一には近づかないようにしている。 「え、そんなに弱くないよ。それに、こんなちょっとだし」 「じゃあ、酔うと絡むから、いやです」 「ええ? ……もしかして、おれ、なんかした?」  したよ、思いっきり。と、自分の口から言うのは、根に持っているようで恥ずかしい気がする。それでも、どうしても覚えていないらしく、功一は頭を捻って、最終的には拝むように白旗を上げた。仕方がないなあ、と息を吐き出す。 「……キス」 「……へ?」 「先輩、おれにキスしたんですよ、酔っ払って」  漫画だったら、ブワワワワという効果音が似合いそうな勢いで、功一の顔に赤色が広がる。もう過ぎたこととは言え、やはり照れくさい。だが、おもしろいものが見られたので、これはこれでよかった。 「うわーうわーうわー」という呻きを何度も繰り返して、功一がテーブルの下に萎んでいく。両手で顔を覆っているが、耳まで真っ赤だ。 「なんか、ごめん……」 「謝るくらいなら、忘れないでくださいよ」  しまった、変な言い方をしてしまった。これじゃあ、まるで忘れないでほしいと言っているみたいだ。そう思い至ったら、こちらまで頬が熱くなる。  赤い顔が、見下ろす指の間から覗く。潤んだ目と目が合う。功一の瞳の中に、自分の顔が、ちゃんと映っている。そうだ、この人は、ほんとうに最初から、こちらが恥ずかしくなってしまうくらいきちんと、相手の目を見て話す。 「……違くて」 「え……」 「謝ったのは、『覚えてなくてごめん』じゃなくて」  ――ほんとうは、最初のキスは、もっとちゃんとしたかったんだ。  名前を、呼ばれる。  こんなに美しい声で紫乃の名前を呼ぶ人は、ほかにいない。  冷えた手が、頬を包む。襟足に触れた細い指がそっと伝って、唇をなぞる。  わけもなく、目が熱かった。功一の指が震えているのに気がつく。目蓋を持ち上げると、視線が絡んだ。少しずつ、その瞳が近づいてくる。吐息が触れる。目を伏せる。唇が重なる。 「……オレンジ味」  呟いたら、彼は照れたように笑ってくれた。 「これで、酔ってたときのは、忘れてほしいんだけど」  十分だ。でも、おかしいな……、なんだか少し――、足りないとか、思っている。 「……だめです」 「う、怒ったから……?」 「違います。……あのとき、先輩、舌入れましたもん」 「まじでっ? ……死にたい」  紫乃の嘘にまんまと騙されて、功一はまたテーブルの下に逃げてしまう。手のひらの中に引きこもって落ち込む隣にしゃがむ。その手首を外して、顔を覗き込む。唇を嘗める。察してほしいけれど、功一にそんな器用さがないことも、自分が一番よく知っている。 「……だから、もう一回してください。コウ先輩」 「紫乃……」  恐る恐る、というみたいに降ってくるキスに、心臓が苦しくなるくらいに高鳴っていた。  気づいたら、宮司功一のことが、だれよりすきになっていた。  *  きょうの夕飯は、ちらし寿司とワンタンスープだった。  おやつを食べても、紫乃の料理ならいくらでも食べられる。満足でいっぱいになった胃袋を抱えて、厨房であすの仕込みをする背中を見ていたら、紫乃が初めて、仕込みの仕方を教えてくれた。  二人でテレビを観て、家主が先に風呂に入って、その間に巧は学校の準備をする。変わらない日常に、いつもはうれしくて、またあしたも、その次も、なんて願うのに、きょうはどうしようもなく心がついていかないのは、もう浮かれることすら、許されないからだろうか。 (……きっと、名字が同じなのも、そういうこと、なんだろうな)  まだ、最後まで聞けていない。でも、もういやと言うほどわかりきっていた。ただ、紫乃の口から聞くのが、こわい。受け入れたはずの痛みが、喉に引っかかって、嚥下できなくなる。  ほんとうに、今さらだ。  叶わないかもしれないということくらい、覚悟していたじゃないか。年上で、男同士。叶う可能性のほうがずっと低いなんて、当たり前だと割り切っていたはずじゃないか。  同性に惹かれたのは初めてだったから、すぐに気が変わるんじゃないかとか、すぐ、べつのだれかを、もっと楽な人を思えるようになるんじゃないかと、思えていたはずだった。  いつから、こんなに、思いが深くなってしまったのだろう。どうしてこんなにも、彼のことしか、考えられないのだろう。一年ーー、たった一年のことが、なぜこの心を、こんなに占めるのだろう。人を思うことに理由はないのだと、改めて知る。  ふと、思う。どうしておれは、こんなにつらい思いをしているのだろう。  柳瀬に、もうやめろと、相手なんかすぐ見つかるから、そのほうが近道だからと、言われた。その通りなのかもしれない。紫乃を思い続けることは、ほかのだれを思うことより、つらく、かなしい。苦しい。遠い。  それでも、もういやだと思えない。もうやめたいと、投げ出せない。だって、彼の過去を知った今でも、変わらない気持ちでいるのだから。  宮司さん。おれは初めて会ったあの日からずっと、あんたの笑った顔を、守っていきたいだなんて思っているんだ。――ね、あんたは、知っていたでしょう。  二つ並んだ布団に入って、いつものように「あしたは何限?」と尋ねられる。それに答えて、紫乃が目を細くしながら弁当のメニューを考えはじめる。  きっと、己が望めば、己がなにも言わなければ、ずっと続いていってくれるであろう日々。  おれさえ口を噤んで、拳を固めたままでいれば、ずっと、おれは、宮司さんのそばに、寄り添っていられる。  艶やかな声が、身体の上で揺れている。汗が胸に落ちて、意識が覚醒する。ぼんやりとしていた。  カーテンの隙間から入ってくる月明かりに照らされる滑らかな白い肌が、ひどく扇情的だ。彼の前髪が、汗で額にくっついている。手を伸ばして取ってあげたら、彼はほう、と息を吐いて、ねこみたいに頬を擦り寄せてきた。 (ああ、そうか……)  思う。 (今おれ、夢を見ているんだ……) 「たくみ、くん……っ」  だって、この人は、舌を噛み切ったって、おれに跨ったりしない。心に決めた人以外に、足を開いたりしないだろう。 (いや、だ)  平らな胸を押し返す。驚いたような顔で見つめられる。荒々しい動作で、身体を反転させた。息を吸って、吐いて、その度に上下する胸に、下半身が熱くなる。  彼の手のひらが、項にかかる。思わず、呻いてしまった。  わかっている。これは夢だ。それでも、触れる手のいとおしさに、このままで、と願ってしまう。願わずには、いられなかった。 (……き、だ)  ああ、おれは、どうしようもないくらい、宮司さんのことが……。 「……くん、巧くん!」 「あ……」  目を開けたら、眼前に紫乃の顔があった。 「宮司、さん……」 「よかった。巧くん、魘されてたから」  ――ほんとうに、よかった。起こしてくれて、よかった。  あのまま夢の中にいたら、まだ口にしたことのない二文字を、言ってしまうところだった。叶わないと知っていても、伝えるのは、今ここにいる、あんたがいい。  常夜灯に薄暗く照らされた、現実の見慣れた寝室だ。上半身を起こすと、紫乃がグラスに水を入れてきてくれた。冷たい水を飲み下す。飽和した熱が蒸発して、頭がすっきりする。夢とは思えないほど鮮やかに蘇る姿に、自分が反応していることに気づき、慌てて布団を掻き集める。 「大丈夫、巧くん?」 「はい……、すみません、こんな朝早くに」  手元の目覚まし時計は、午前四時過ぎを指していた。巧の魘される声で、起こしてしまったのだろう。  おれは大丈夫だよ、と笑う顔は、一年前からまったく変わっていない、子どもみたいなくせに、頬笑み方は大人らしくて。――変わったのはきっと、自分のほうだ。 「ちょうどお店の準備をはじめようとしていたところだったから」  気を遣って、見え見えの嘘を吐いてくれるところも、紫乃のそばにいたいと思う理由の一つだ。だって、この人を放っておいたら、自分を慮ることなく、他人に気を配りきってしまう。知っている。 「……に、しては、早すぎますよね」 「はは、巧くんにはお見通しかあ」 「そうですよ。いっしょに住んでいるんですから」  一瞬、目を見開いて、「そうだね」と頷く。  宮司さん、今、あんたとこの家にいるのは、おれなんです。こんなこと、わざわざ口にしなくたって、紫乃は、わかっていてくれる。 「じゃあ、もう二時間は寝られちゃうな」 「今度は正直すぎますよ。寝られそうですか?」 「うーん、せっかくだし、桃子ちゃんのためにお菓子でも作ろうかな」 「あ、じゃあ、おれも手伝っていいですか? お菓子を作れる男って、モテそうじゃないですか」 「あはは、それ、巧くんが言うんだ。おかしいなあ、おれはあんまりモテた記憶がないんだけどな」 「今桃子ちゃんにモテモテじゃないですか」 「ソウデシタ」  紫乃は、自分の魅力に気づいていない。おれにもだよ、なんて言えるのは、一体いつになるのだろう。  例えば、桃子みたいに、はじめから相手に好意を示してしまうのと、小戸森みたいに、ひた隠しにして、いつか覚悟を決めて一度きりの告白をするのと、どちらのほうが楽だろう。楽な恋なんて、気楽な思いなんて、ないということくらいわかっているが、考えずにはいられなかった。  はじめから思いを伝えてしまえば、相手にされなかったとしても、はっきりと振られることはない。隠し続けておけば、相手の気持ちが傾いたときに思いの丈を伝えれば、そこで結ばれるかもしれない。どちらにしても、結ばれることがない場合、ほんとうに、どちらのほうが……。  今、こんなに苦しいと思うのは、叶わない気持ちを抱えたままでいるせいなのだろうか。それならば、伝えたら、こんな気持ちも泡みたいに消えてなくなるのかな。言葉にしてもらえたなら、諦められるのかな。  わからない。  これはきっと、だれも教えてくれなくて、もしかしたら答えなんてどこにもなくて、自分でしか見つけられないものなのかもしれない。ただ、今ここにあるのは、確かすぎる感情で、どうしようもない。 (なんか、矛盾だらけだなあ……)  人を思うって、難しいなあ。  紫乃と朝一で作ったのは、一口サイズのシュークリームだった。  きょう、桃子ちゃんが来なかったらどうしましょうね、なんて話して、そうしたら、巧くんが届けにいくんだよ、と言われて、宮司さんが行ったほうがよろこびますよ、そう返したら、そうかな、と困ったように笑う。  ほんとうに、迷ったのだろう。桃子が紫乃のことを大すきだということくらい、本人もわかっている。だから、自分が行ったら、余計に傷つけてしまうとか、気を遣わせてしまうとか、そんなことを思ったのだろう。 「よかったら、柳瀬くんにも、持って行ってあげて」  はい、と包み袋を手渡されて、驚く。あんなに泣いていたのだ、柳瀬のことなんて、思い出すのもつらいのかと思った。でも今、紫乃の表情に無理はない。 「ワサビ詰めていいですか」 「じゃあおれは、とろろにしようかな」 「えげつない!」  腹を抱えて笑う。紫乃も、同じように笑っていた。どうやら柳瀬には、緑溢れるシュークリームと、べとべとどろどろ味なしシュークリームを届けることになりそうだ。ざまあみろ。  紫乃特製弁当と、ありがたいシュークリームを携えて、食堂を出る。 「いってらっしゃい」と紫乃に言ってもらえるのは、今世界中のどこを探したって自分だけなのだと思ったら、胸に刺さる棘なんてどこかに行ってしまった。単純な思考回路に、苦笑が浮かぶ。  青色になった桜並木を歩いて、改札を通って、電車に揺られる。もう一年以上も繰り返している大学への道のりを辿る。  一年前は、こんなふうになるなんて、思ってもいなかった。紫乃のそばにいられたらそれで充分で、紫乃の過去なんて気にしたこともなかった。それから、いつか、この気持ちが叶う日が来るかもしれないと、心のどこかがどきどきしていた。  太陽も、雨も、木々も、街並みも、擦れ違う人すら、世界のぜんぶがきらきらと光って見えた。今も、とは、もう言えない。  大学に着いて、教室に向かう。巧は、ギリギリまで家にいられるようにしているから、友人たちはいつも先に着いて、席をとっておいてくれる。手を振る柳瀬に挨拶を返して、そばに行く。もう蟠りはない。 「おはよう」 「はよ。相変わらずのギリギリっぷりだな」 「もうプロ級だろ」 「なんのプロだよ」 「滑り込みの?」  冗談を交わしていたら、ぴったり講義開始のチャイムが鳴って、思わず二人で吹き出した。  午前中の講義を終えて、外のベンチへ移動する。学食は昼休みがはじまったところで混んでいると思ったし、教室は昼の清掃がはじまって埃っぽくなる。きょうは天気もいいし、暖かくて丁度いいだろう。 「そうだ、ヤナにプレゼントがあったんだ」 「えっ、だれからだれから? みきちゃんかな、それともかなこ?」 「宮司さん」 「まじで! へへへ、悪いな、巧。おれ一歩リードかな」 「おう。ちゃんと、きっちりかっちり完食しろよ」 「……へ?」  もってりと重みのある包みを差し出す。学校に来るまでに混ざったのだろうか、想像以上にすごい匂いがする。固まっている柳瀬の手を勝手に取って、その上に包みを置いてやる。ひくっとわかりやすく肩が上下した。 「たっ、巧くん~?」 「なんだい、あきらくん」 「なななななんかっ、むにってしてる。な、中身、これ、なにっ?」 「見ればわかるよ。ちなみに、宮司さんが作ったものを残したら、おれがどうするか、わかるよな?」  にこりと笑ってみせる。柳瀬曰く、女の子を落とすとき用の笑顔だ。ごくりと生唾を飲み下して、柳瀬が眇めた目で包みの中を覗く。 「……み、緑」 「だけ?」 「だけって? はっ……、なんか、え? シュークリー……ムじゃないよねこれは!」 「失礼だな。宮司さん特製一口シューだ」  青い顔をした柳瀬が、中身を一つ取り出した。鮮やかな緑色がシュー生地に透けて見える。  クリームの正体を尋ねたかったのか、こちらをちらっと見られたけれど、つんとそっぽを向く。諦めたようにこわごわ口に運ぶのを横目に見ながら、巧は笑いを懸命に堪えていた。  いつも通り、四時四十六分の電車に乗って家に帰ると、店に入る前から、賑やかな声が聞こえていた。相好を崩して、みやじ食堂の戸を開く。 「ただいま!」  チリン、と鳴る鈴の音に負けない声で言うと、「おかえり」と二つの声が応えた。 「はは、やっぱり桃子ちゃん来てた」 「やっぱりってなにー?」 「声がしてたってこと」  桃子のタイミングのよさに、親指を立てる。見れば、テーブル席に紫乃と向かい合って座って、今朝作ったシュークリームでお茶しているところだった。  ぽんぽん、と紫乃が自分の隣を叩くから、スキップしそうになるのを我慢して、そこに座る。シュークリームに手を伸ばそうとしたら、ポチがのそのそ奥からやって来て、巧の足に擦り寄った。 「ポチ?」 「あはは、またシュークリーム食べに来た」  紫乃が肩を揺らすから、「また?」と聞き返す。 「そう。さっきも来たんだけど、アルコールとか牛乳とか使ってるから、だめだよって言ったんだ」 「ねこに牛乳ってだめなんですか?」 「体質によるらしいんだけど、ポチは前あげたら下痢しちゃって、よくないみたいなんだ」 「だってさ、ポチ。宮司さんがやさしくてよかったな」  不満そうに顔を膨らませるポチの頭を撫でてやる。口を横に結んで、ぐう、と鳴くのが、人みたいでおかしい。渋々というように、巧の足元で丸くなって、ポチは目を閉じた。ふてくされた姿がかわいくて、まんじゅうそっくりの背中を撫でて慰めてやる。 「川辺くん、早く食べないと溶けるよ」 「溶ける?」  桃子ちゃんに言われて、頭に「?」が浮かぶ。朝作ったのは、確かふつうのシュークリームだったから、溶けるものではないと思う。 「ああ、ちょっと気分を変えて、ジェラートシューも作ってみたんだ」 「うわ、食べたい」  急いで除菌シートで手を拭いて、桃子に差し出してもらったジェラートシューを口に運ぶ。ひんやりとした甘味が広がって、勝手に頬が緩む。 「おいしい。今まで食べたシュークリームの中で、一番おいしいです」 「あはは、褒めすぎ」  照れ隠しみたいに髪を掻き混ぜられ、笑った顔に不覚にもきゅんとする。――思った。  きょう、宮司さんに、告白しよう。

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