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その3-2

「こんばんはー、もうやってる?」  鈴が鳴って、崩したスーツのサラリーマンが店に顔を覗かせた。よく来てくれる人だ。桃子がアクセサリーみたいな腕時計を見て、「あ、もうこんな時間だったんだ」と呟く。店内の時計も、五時半を指していた。 「やってますよ。どうぞ」 「ハヤシライスセットください」 「はい。ちょっと待っててくださいね」  紫乃が厨房に入っていく。巧はカウンター席にかけた客に素早くお冷やを出す。  桃子が帰る準備をはじめたから、ジェラートではないシュークリームの残りを簡単に包んであげた。荷物をまとめ終えた桃子に、紙袋で渡す。 「さっすが川辺くん。ありがとう」 「どういたしまして。元より、桃子ちゃんのために作ったやつだしね。……あのさ、ちょっと、話があるんだけど。時間いい?」 「話? うん、いいよ」  桃子が頷いてくれたから、店の外へ促した。戸を開けるときには、もう紫乃は馴染み客との話に盛り上がっていて、胸の中がほこりとした。 「珍しいね、川辺くんが私に話とか」  戸口の前で、桃子が振り向く。暮れかけた西日が、長い黒髪の先で光っている。うん、と素直に頷くと、もっとびっくりしたような声で、「ほんとうに珍しいよ。どうしたの?」と言われてしまった。頭を掻く。 「いや……、桃子ちゃんは、知ってたんだなって、思って」 「なにを?」 「櫻井さん、のこと」  パチ、と大きな瞳が瞬きする。それから、「川辺くん、聞いたんだ」と、少しさみしそうに笑った。  桃子は、長くみやじ食堂に通っているから、とうに知っていたのだと察した。もしかしたら、功一にも会っているかもしれない。それでもなお、彼女は紫乃を思い続けているのだ。 「おれさ」 「うん」 「きょう、宮司さんに告白しようと思うんだ」 「振られるってわかってて?」 「……うん」  たとえ叶わなくても、紫乃は変わらずにいてくれると思うのだ。やっぱり笑って、「ありがとう」と言ってくれると思うのだ。そんな彼だから、惹かれたのだ。  今、紫乃のそばにいるのは、自分だ。過去にどんなことがあっても、紫乃は紫乃だ。そうである限り、この気持ちは変わらない。だったら、伝えたい。  おれは今、そういう気持ちで、あんたの隣にいるんだよと、教えてあげたいのだ。  そうすれば、また紫乃が涙を流すときに、隠しごとなしで、寄り添ってあげられる。相手の心の柔らかいところに触れるには、自分も同じだけ曝け出さなければならない。彼を支えたいと、いっしょにいたいと望むのなら、彼ばかりに語らせるなんておかしい。同じだけの「おれのこと」を差し出して、紫乃と、ともにいたいのだ。 「がんばれ」  ニカッと白い歯を見せて、桃子が巧の肩を叩く。 「ちゃんと慰めてあげるから、当たって砕けてこい!」 「ありがとう。でも、砕けるつもりはないから」  大丈夫だ。もう思うことをこわがったりしない。もう逃げない。目を逸らさない。夢の中の自分に先を越されてたまるか。  おいしいご飯が作れるところ。お節介なくらい親切なところ。困っている人も動物も放っておけないお人よしなところ。どんな相手にも壁を作らないところ。幼い顔。眩しい笑う顔。よく頭を撫でてくれる手のひら。柔らかい声。他者と仲よくなれる才能。変なTシャツ。料理以外はちょっと不器用な手。一人で抱え込んで強がって、大人みたいな顔して、弱さを隠してしまうところ。挙げきれない。伝えきれない。言葉にできない。  紫乃のことを考えるだけで、身体いっぱいに広がるこの気持ちとか、巡る血ぜんぶが鼓動のようになってしまうこととか、ぜんぜんうまく言えそうにないけれど、千分の一でも、万分の一でも億分の一でも構わない。それでいい。同じ気持ちを持ち寄りたいわけじゃないんだ。それでもいいから、これからも彼のそばに寄り添って、できることを増やしていきたいと思うから、伝えるのだ。  だから、何度だって、当たってやる。その強さを、桃子ちゃん、君がおれに教えてくれた。  巧の横を、また客が通って、赤い暖簾を潜っていく。夕日を背にしながら、自動車会社の制服を着た四人組もこちらに向かって来ている。  擦れ違いざまにひらひらと手を振って、桃子が帰っていく。涼やかな鈴が響いて、「いらっしゃい」と元気な声が扉の間から聞こえてくる。四人の客を中に招き入れてから、巧も敷居を跨ぐ。 「巧くん、ヘルプ~」 「あっ、はい!」  慌てて手を洗って、店の手伝いにまわる。  こんな小さな小さな幸せが、お腹の中に蓄積されて、心臓を高鳴らせる。毎日、どきどきしている。そんなことも、もうすぐ、伝えてみせるよ。 「ご馳走さま、また来るよ」 「はい、ありがとうございました!」  八時近くなって、最後の客が満足そうに腹を擦って帰っていく。それを見送る紫乃も満足そうで、こちらまでうれしくなる。 「さてと、おれらも夕飯にしよっか」 「はい」  頷いて、厨房に残ったものを住居スペースのほうに運ぶ。その間に、紫乃は洗い物をする。ここで働きたいと言った日から、できるだけ毎日、こうしてきた。これが、巧の幸せだ。  いくつかおかずを増やし、白米をいっしょに並べて、ささやかな夕飯をはじめる。シュークリームをあげたときの柳瀬の話をしたら、紫乃も腹を抱えた。 「ほんとうに渡したんだ」 「はい。ちゃんと残さずぜんぶ、食べてくれましたよ」 「残さずぜんぶ食べさせた、の間違いだろ?」 「あはは、そうとも言う」  こうやって笑い合うのも、学校の話なんかをするのも、すごく幸せなんだ。ずっとこんな時間を、抱きしめていきたいんだよ。 (言うんだ)  テーブルの下で、拳を固める。あ、と口を開きかけて、やっぱりやめてしまう。紫乃が、あまりうれしそうに、微笑んでいたから。 「宮司さん?」 「あ、ごめんごめん。なんか、うれしくて」 「え?」 「うん、なんかね、巧くんと話してると、胸が痛かったのが、気づいたらどっかに行っちゃうんだよね。それが、不思議で」  どきりとした。胸が痛かったとは、どういうことだろう。なにか、彼の心を痛めることがあったのか。――いや、それよりも、紫乃の台詞に、じわじわと腹の中が温かくなってくる。期待に顔が熱くなる。言える。今なら、言える。きっと、うまくいく――。 「あの、宮司さん」 「はは、ごめんね。おれ片づけするから、お風呂に入っておいで」 「……はい」  促されて、従った。紫乃がこうして謝って誤魔化すときは、一人になりたいときだ。  夕飯の前に入れておいてくれたのだろう、湯船いっぱいに張られた湯に浸かって、重い息を漏らした。 「……このヘタレ……」  呟いて、湯の中に顔を沈める。ぶくぶくと息を吐いて、目を閉じる。 (うれしくて、かあ……)  期待して、いいのだろうか。自分が思っているよりも、自惚れていいのだろうか。巧が考えるよりも、もう、功一は彼の中にはいないのだろうか。  そこまで考えて、ふと、なにかが引っかかった。  湯から顔を上げる。湯気に満たされた浴室の中なのに、なぜだか眼球が乾いた。指先まで、どくどくと血管が粟立つ。 (そうだ。どうして今、宮司さんは一人なんだ……?)  どうして、ここに一人きりでいる? どうして、恋人の名前のついた店を一人で経営したりしているんだ? そもそも、今は少し出かけているだけで、彼の存在は「過去」なんかではないのではないか? どうして、おれは「過去」だなんて思い込んでいた? じゃあ、いつか、功一さんはここに帰ってくる――?  わからない。ただ、すごく、いやな予感がしていた。  そう、おれは、一生彼には勝てないのではないか、という、予感。 「……聞か、なくちゃ」  声が震えた。  急いで風呂から上がる。まだ心臓が煩い。湯あたりのせいだと思い込もうとしたが、だめだった。耳元で鳴り響いて、頭を直接揺さぶってくる。  聞かなくちゃ。確かめなくては、告白すらできない。前に進めなくなってしまう。泣きたくなるくらい、臆病で、弱虫なんだ。 「あ、出た?」 「はい。お先、ありがとうございます」 「いいよ。……巧くん?」  呟くみたいな声が出た。鍋を拭きながら、紫乃が近づいてくるのが、視界の端に映った。目を伏せていたから、近づきざまに鍋をテーブルに置いた意図が読めなかった。冷たい指が頬に触れて、驚く。 「え……っ」 「どうしたの? なんか、顔青いよ?」  紫乃は、鋭い。自分に向けられた好意には丸っきり疎いくせに、他人の顔色や気持ちの機微には、だれより早く気がつく。たった一年いっしょにいるだけの巧の変化すら、一瞬で見抜けてしまうのだ。 「……宮司さん」 「うん?」  どうして、今ここに、功一さんはいないんですか。  紫乃の表情が凍っていくのが、スローモーションみたいに、瞳に焼きついて離れなかった。  * 「じゃあ、行ってくるね。店番よろしく」 「はい。ちゃんと夜のピークまでに帰ってきてくださいね」 「わかってるわかってる。行ってきます」 「もう、ぜったいですよ? 行ってらっしゃい」  店番を請け負って、買い出しに行く功一を送り出す。  彼を一人で買い出しに行かせると、いつも「おいしそうだったから」とか、「紫乃と食べたくて」とか理由をつけて、買い物リストにないものを買ってくる。だから、ちゃんと念を押すようにしているのだが、きっときょうもまた、ケーキやら菓子やらを買ってくるのだろうと思ったら、ついひとりでに相好が崩れた。  功一と暮らしはじめて、学生時代には見えなかった姿が見えてきて、少し照れ臭いと同時に、うれしく思う。  三十分が経った。昼時も過ぎて、やることも特になく、暇だ。窓から差し込む外の日差しが柔らかで、まどろみそうになる。 「やっぱり、いっしょに行けばよかったかなあ」  どうせ、余計なものを買ってくるのだから、そばで止めたほうがよかったかもしれない。……なんていうのは、口実だと自覚していた。苦笑して、頭を掻く。 (ほんとうは、先輩とちょっとでもたくさん、いっしょにいたいだけだなんて、まだ面と向かっては言えなさそうだ)  時計が四時を指した。 「先輩、遅いなあ。ぜったいまた寄り道してる」  もう出かけてから、一時間経っている。想像通りすぎて、おかしい。  午後の相棒に、功一の料理研究ノートを選んだ。癖のある字が並ぶノートは、手に馴染んで、見ているだけで心地よい。ふと、新しい文字を見つけて、最近書き足したのかと、胸の奥がほこりとした。功一は、出会ったときから変わっていない。 「……先輩、なにしてるんだろう。もうすぐ、お客さんが来ると思うんだけど……」  五時を回った。店のカウンターにかけて、溜め息を吐く。あまり、待たせないでほしい。 (先輩は知らないだろうけど、これでもおれ、先輩といる時間が一番幸せなんだよ) 「もう、……早く帰ってこないかなあ……」  カウンターのそばの、電話が鳴った。  * 「……おかしいよね。どこまで行ってんだよって、怒ってやりたかったのに」  ははは、と紫乃が笑う。イスに座り直す乾いた音が、台所の床に落ちた。巧は立ち尽くしたまま、なにも言わなかった。言えなかった。  宮司功一は、すでに亡くなっていた。  知っている。  紫乃は、つらいときほどよく笑う。かなしいときほど、よく喋る。息が苦しくなってしまうくらい、よく知っている。 「ねこを、庇ったらしいんだ。……ばかだよね、大ばかだ……」  声を詰まらせながら紫乃が語ってくれたのは、やさしすぎる男の話だった。  ゲージに子ねこを連れた女の子と、スーパーの菓子売り場で仲よくなった彼は、女の子のお母さんと合流して、せっかくだからと、二人を食堂に誘った。スーパーの出入り口で、快く頷いた親子をよそに、子ねこがゲージから逃げ出した。  スーパーの前の道は駅前で、駐車場の出入り口にもなっていたため、常に車通りが多かった。  納品業者の、大型トラックだった。 「……電話が来て、すぐに病院に行ったんだけど、即死だったみたいでね……、行ったときには、もうすごく綺麗でさ。顔も崩れてないし、身体もどこも欠けてなくて、傷すら見えなくて、ほんとうに、寝ているみたいで……」  おそらく、内臓が潰れたのだろう。瞳を閉じると、白い壁が目の前に浮かんでくる。わざと感情を押し隠した声が、巧をそこへ連れていく。透明人間になって、紫乃の目を通して、その日を目にする。触れられないのは、巧も同じだった。  白い壁、白いカーテン、横たわる彼、泣くこともできないで、ただ立っていることしかできない、宮司さん――。  振り返ると、小さな女の子と、その母親らしき女性が、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、病室の戸口に立ち竦んでいた。目が合って、深く、深く、頭を下げられた。  事の顛末は、彼女たちから聞いた。 「お兄ちゃんが、みーちゃんを助けてくれたの」  しゃっくりで声を詰まらせながら、女の子が教えてくれた。 「ありがとう……っ」  そう言われて、胸が熱くなった。そうか、先輩は、これが聞きたかったんだなあ、と思ったら、いつの間にか握り締めていた拳が、するりと解けた。 「……みーちゃんに、会ってもいいかな?」  しゃがんで、涙でいっぱいの瞳を見上げると、女の子はうん、と首を縦に振った。その拍子にまた一粒、大きな雫が頬を滑った。  女の子に案内され病院を出て、車の中から抱き上げられた子ねこを見て、ああ、と思った。  真っ白な、子ねこだった。 「きっと、おれがコウ先輩と同じ立場だったら、同じことをしたと思う。……せずには、いられなかったと思うんだ」  だって、おれとコウ先輩を結んでくれたあの子と、そっくりだったんだもん。  触れたら壊れてしまいそうなほど、かなしい笑顔だった。  宮司功一の遺品は、後日みやじ食堂に、そのままの形で届けられた。近所のスーパーのビニール袋が二つ。一つには、食堂で使う食材が、もう一つには、紫乃のすきなスナック菓子や和菓子がいっぱいに入っていた。きっといつもみたいに、「紫乃と食べたくて」とか言って、にこにこしながら買い込んだのだろう、と。 「……やだな、もう、四年も経ちそうなんだ」  紫乃が呟く。  四年。経ちそうと言ったのは、功一の事故は六月頃に起きたということだろうか。大学を卒業して、すぐにここに勤めはじめたのだとしても、あまりに、二人でいた時間は短い。 「……すみません」 「謝らないでよ。いつかは話さなきゃって、思ってたから」 「違うんです」 「え?」  かなしい話をさせてしまって、申し訳ないと思わなかったわけではない。でもーーそれよりも今目の前にいる人に伝えたいと思ったのは、この気持ちのほう。 「かなしい思いをさせてしまって、すみません」  思い出すには、まだきっと、時間が足りない。思い出と呼ぶには、功一の残滓は鮮やかすぎる。遠くを見るその視線が痛々しかった。そちらに行かないでと、かなしみに染まらないでと、口にするのは簡単だ。でも、紫乃の思いは、そんな軽いものではないだろう。  巧は、紫乃を支えることも、いっしょに食堂を営むことも、功一の代わりになることも、できない。でも、それでも、紫乃のためになれることが、たった一つでもあるのなら、それに、全身全霊で応えてあげたいと思うのだ。  無理して笑ってほしくなんてない。さみしいって、かなしいって、一人じゃいやだって、そばにいてほしかったんだって、死なないでって、言っていいのだと、伝えたい。弱さを見せないことに、慣れないでほしい。 「おれは、功一さんにはなれないけど、……でも、宮司さんを一人にはさせません」  そばにいて、ぜんぶ、受け留めてみせる。気持ちが重ならなくたって、そばにいられたら、もうそれでいい。 「……やっぱり、巧くんはかっこいいなあ」  くすっと笑って、手を伸ばしてきたから、素直に頭を下げた。巧の湿った頭を撫でて、微かな含み笑いを漏らす。と、いきなり腕の中に温もりが寄り添った。思わず目を見開く。イスに座ったままの紫乃に抱きつかれていた。見慣れたつむじが、いつもより近い。 「み、宮司さん……?」 「ありがとう、巧くん。……ありがとうついでに、ちょっと、胸貸してて」 「……はい。よろこんで」  きゅ、と服を握る指先に力が籠ったのは、見ない振りをした。  初めてこんなに近くに見る項に、心音が騒がしい。紫乃にも聞こえているのだと思ったら恥ずかしかったけれど、今は黙って、丸くなる背中にそっと手を重ねた。紫乃の身体が、震えているのも、知っていたから。  自分の存在が、ちょっとでも紫乃の心を軽くできるのなら、なんだって叶えてあげられると思う。だから今は安心して、ここに身を委ねてくれたら、それでいい。  ――「すき」という感情に、限りというものはあるのだろうか。形には、できないのだろうか。  できたならば、きっと、わかってもらえた。  指の隙間から溢れ出てしまった一粒一粒を、ちゃんとぜんぶ言葉にして、言い訳のように紡ぎたかった。それを差し出して、許しを乞うつもりはなかったけれど、そのときの、自分の下手くそな言葉よりかは、なにかを伝えられたのかもしれない。  そうしたら、きっと……、あんなことにはならなかった。

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